There She Goes

小説(?)

What A Wonderful World / There She Goes #21

アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション

アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション

 

今日の彼は落ち込んでいる。病んでいることを「健常者」の視点から指摘されて、それで己の病/障害について深く考えさせられたからだ。それで、帰宅してクスリを飲んだ後にポルティコ・カルテットのアルバムを聴きながら、今日の出来事を反省しているところなのだった。

彼女からのメールが届いた。彼女らしい硬質な文章に依って書かれた文章……これ以上形容するのはプライヴァシーの観点から問題があるだろう。だから書かない。ただ、スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』を再読させるに足る興味深い分析が施されていたことは書いておいても良いのかもしれない。

それで、彼の今日の読書なのだけれど二階堂奥歯『八本脚の蝶』が捗った。最後まで読み通してしまった。いつ読んでも胸が痛くなる本だ。殊に今回の読書は彼自身が恋の病(?)に落ちた状態で読んだからなのか、前には想像もつかなかった箇所が記憶に刻まれた。例えば次のようなところ――。

世界の一登場人物である一人の人間が、私の愛する人になる。私の愛する人は魅力的かもしれないが、魅力的な人はいくらでもいる。その人が愛する人であることに、私の知る限り決定的な理由はないのだ。
私は選択などしていない。「私の愛する人」という意味づけの理由は世界には存在しない。いずこからその属性は来たり、あなたに宿った。
その瞬間世界の均一さは崩れ、意味が、エネルギーが流入した。
あなたはただの人間だが、私にとって世界はあなたによって支えられ開始されたのだ。

これは愛に対する決定的な定義ではないだろうか。若書きの感は否めないにせよ、対等なはずの人間に「私の愛する人」という「属性」が「宿った」ことを二階堂奥歯は語る。これは彼の彼女に対する特別な感情にも当てはまることでもある。彼女を彼は「選択などしていない」。彼女の到来はそれはもう本当に暴力的とも言えるものであった。彼自身予想もしていなかった形で現れたものだった……いや本当に、彼女なしの生活を彼はどう成り立たせていたのだろうかと思われるほどそれは突発的な出来事であり、彼を変えてしまった出来事でもあった。

彼は彼以外の世界を拒絶して生きて来た……彼は世界に対して信頼するのを止めようと思っていた。心を閉ざそう、と。「障害」が起こるとすれば、それが問題になるとするのであればそれは周囲との軋轢が生じるからに他ならない。だというのであれば周囲に期待し過ぎないようにすれば、あらかじめ絶望しておけば周囲との軋轢から生じるダメージをかなりの部分まで覚悟して受け容れることが出来るだろう。それは痛みを軽減しないが、痛みが到来するのであれば兎も角もそれに耐えることは覚悟出来る。それはそれでひとつの処世術なのだろうと思う。だから彼はずっと痛みに耐えて来た。

痛みをもたらすものとしての世界……会話がドッジボールとなってしまう世界。一方的に発信されるメッセージをひたすら受容し、その矛盾する意味にそれぞれ従い、アイデンティティを混乱させることを強いられる世界。そんな中で頭がおかしくならないように生きるには、刹那的な享楽やカフカ的な受け身の姿勢がなければやって行けないだろう。刹那的な享楽とは即ち彼にとって飲酒であり浪費である。そして、それをそれとして苦悩しながら生きることそれ自体が苦しみであることを諦念を伴って受け容れること。絶望の末に辿り着くのはそういった諦観である。ある種の断念……。

だというのであるなら、彼はまだ世界に対して期待すべき余地があるということなのだろうか? 彼女が眼前に出現したことは……彼は世界に対して己を開くことを強いられる。彼女から放たれる言葉、素振り、仕草、表情……あらゆるものにサインがあり、それを読み取るためには受動的な姿勢では居られない。彼自身が語り掛け、それに依って彼自身が自ら選択した行為を責任を持って引き受けること。世界に対してポジティヴになること。「そう来たか!」と世界を佐々木敦的な意味で肯定し、ワンダフルな世界を前のめりに生きること……。

結局のところ、彼自身は自分が前のめりに生きることを選ぶ。彼女に対して恐れる/畏れるのではなく、彼女自身に働き掛けて行こうと考える……彼が会得した様々な経験を、彼が築き上げた様々な体系に基づく知識を彼女と共有したい、そう彼は考える。彼女に教えたいこと、伝えたいことは山ほどある。むろん、逆もまた真なり。彼女から得たいことは幾らでもある。教える/教えられる関係を相互に繰り返すこと……柄谷行人『探究』はそんな営みについて書かれた書物ではなかっただろうか、と彼は考える。その線から読み直すのも面白いのかもしれない。

チャック・パラニュークの言葉は以前に引いただろうか? 「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」……この言葉の重さを彼は痛感する。「自分がどうなりたいか決める」……その時に彼はもう世界に絶望ばかりしていられない、諦観/断念を継続し続けて外界を拒否し続けるわけには行かない、ポジティヴに人生をドライヴする存在として生まれ変わるのだ。

自分で自分がどうなりたいか……それを決めることは兎も角も世界という厄介な、しかし豊穣な環境の中に己を投擲することであるのだろう。それに依って、バタフライ理論が教えるように世界は彼に合わせて柔軟に/無情に変化することだろう。その変化を、つまり先の読めない「デタラメ」な世界のあり方をそのまま受け容れること。彼が私淑した宮台真司も結局はそう語っていたのではなかっただろうか。デタラメに築き上げられた世界の中に、己を投げ込む。その時に彼はサディストとして能動的に振る舞うのか、それともマゾヒストとして受苦を耐え続けることになるのだろうか?