There She Goes

小説(?)

ぼくは大人になった / Take On Me #5

Sweet 16

Sweet 16

  • アーティスト:佐野 元春
  • 発売日: 2016/03/23
  • メディア: CD
 

スポットメーターであたりを測光しつつゆるやかに歩を運んでいる人間の視線、ipseを欠いた唯我論者の視線――それは、きっと、遺棄された子供のまなざしなのではないかと思う。不意に両親の姿を見失ってしまった幼児は、たぶんこんなふうに世界を見つめるものなのだ。それまでは堅固で安定した絆によって世界と自分とを結びつけてくれていた庇護者の存在が、自分の傍らからふとかき消えてしまい、そのことの途惑いがいつまでたってもいっこうに解消せず、世界との媒介者の不在にどうしても慣れることができぬまま、当惑とたじろぎを日々更新しつづけている幼児の瞳に映るものが、光なのである。(松浦寿輝『青天有月』p.110)

それは、突然に終わった。昨日まで――いやその日の朝までと言ってもいいだろうが――君をずっといじめ続けていた同級生たち、君のことを嘲笑し続けていたクラスメイトたちが、卒業式になるとなにもなかったかのようにしおらしく制服に身を包んで、卒業証書を持った筒を持って去っていってしまった。彼からはなにも言えず、彼らからもなにも言われず……それから、どれくらい日々が経っただろう。君はまだあの学校の中に閉じ込められたかのように、当時のことに苦しめられている。

君はグループホームで朝を迎える。昨日も仕事だった。君はあまりにもクラスメイトにボロクソに言われて嫌われて笑われ続けてきたせいで、未だに自分の部屋に盗聴器が仕掛けられていたり、隣の部屋にいる住人が君のことを笑っているのではないかと考える妄想を振り捨てることができない。君がそこにいるというそれだけのことが、許されていない……もちろんそれは妄想だ。君のことなんて誰も覚えていないだろう。だけど、君は覚えている。あの日々のことを……。

自分のそばにいてくれた庇護者のこと……学校に通い続けていた時に君を支えてくれたものは、結局本と音楽だった。読書と音楽鑑賞だけが自分と世界を繋ぎ止めてくれる手段だった。クラスメイトが読まないだろう本を読み、聞かないだろう音楽を聞いた。いつか東京に行こう、いつか自分のことをわかってくれる人に会おう、世界にはきっと自分をわかってくれる人がいる。そう信じて……そう信じて、ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』を読んだ。

……そして、いじめが終わった。君は今でも鏡を見ることができない。そこに立っているのは45歳のとても醜いブサイクな男だから……出会う人は「そんなことないよ」と言うのだけれど、鏡の前にいる男を君は愛することができない。見つめることさえできない。髭を剃る時は手鏡で剃ることにしている。やれやれ、いじめに耐えて、苦境を乗り越えたらいいことがあるかと思っていたけれど、結局こんな置き土産を残された状態でいいことなんてないじゃないか……。

桜の花が咲く季節だ。君はFacebookで知り合った年上の友だちから送られた桜の写真を見る。そんな季節だ……この桜を見られるのはあと何度なのだろう。大嫌いな花だった。というより、春自体が嫌いな季節なのだ。この季節になると進級あるいは進学して、新しい環境でいじめから離れてやり直せると思って、できない。なのに、否応なく進級あるいは進学しないといけない。心の成長と身体の成長は必ずしも一致しないのに、身体が歳を取ったというだけで進級/進学しなければいけなくなる。心はどうしたらいい?

心において、心的年齢は君の場合まだ若いと思っている。それこそ、心における君は未だに高校時代を彷徨っているかのようだ。今でも当時のことを、思い出したくないのだけれど、思い出す……でも身体は成長し老化する。両者のズレが開きすぎて、未だに君は高校時代を生きているくたびれた45歳の男であるように感じられる。大人にならなければ……しかし、大人になるとはどういうことなのだろうか?

わからない。君は、自分の人生がどうなるのか予想もつかない。このまま50になり、60になる……そうなのだろうか。人生の持ち時間はゼロに近づいている。それでも、と君は思う。よくやった人生だったような気もする。オーディションには合格しなかったけれど、よくやった人生だった、と。だから、君は人生に後悔をしない。そもそも夢見たことは全部裏切られたのだから、後悔のしようもなかったのだ。友だちを作りたい、恋をしたい、云々。

君は自分の人生を人と比べるのは止めようと考えている。三島は45歳で『豊饒の海』を残して去っていった。あれこそ永遠回帰を描いたような作品だった……しかし、それと引き換えに命を失ったのだ。君の45歳はどうやらそんな45歳ではないようだ。こんな人生、なんの意味があるのかと溜め息をつく。でも、生きている。生きている以上は、目の前に現れる人々や物に対して誠実でありたい。出会う人に親切にして、丁寧に商品を扱って。それで、明日に繋げていこう。君がいないかもしれない明日に繋げていこう、と君は思う。