There She Goes

小説(?)

薔薇とノンフィクション / Take On Me #1

Here comes that awful feeling again...

またこの気持ちがやってきた、と君は思う。こんな気持ちを最後に感じたのはいつのことだっただろうか。そして、なぜまたこんな感情を再び感じないといけないのだろう、か……。

君はウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読んだ時のことを思い出す。ウィトゲンシュタインがこだわっていたのは、彼が感じる痛みをどうして他の人間も痛みとして分かるのか、という問題だった。難しい話ではない。君が例えば「歯が痛い」と言う。すると、他の人も「歯が痛いのは辛いよね」と言う。ここではコミュニケーションが成り立っている。みんな「歯が痛い」ということを分かっているわけだ。でも、当たり前のことだけれど、歯が痛いのは君であって他の誰でもない。痛みは、ごく個人的なものだ。どうしてそんな個人的な痛みを、他の人はその痛みを感じているわけでもないのに「痛い」として分かるのだろう。

ウィトゲンシュタインは、あるいは恋について書くべきではなかっただろうか。もし痛みの代わりに「恋」という感情について書いていたら、『哲学探究』は(いやそれ以上に『論理哲学論考』は)優れたチャーミングな哲学書になっていたんじゃないだろうか。なにしろ痛みは日常的に感じられる感覚だけれども、恋はもっとストレンジな、ワンダフルな感情でありそれ故にもっと哲学の素材として相応しいからだ。

ウィトゲンシュタインはどうでもいい。君の話をしよう。最後に君が振られてから一年ほど経った。振られたのはもちろん辛いこと。だけれども、それは良い経験だったと思っている。橋本治だっただろうか。恋愛は中途半端にできあがった自分をぶっ壊すために存在する、と語っていた。恋愛で自分自身はぶっ壊れる。秩序を保っていたと思っていた自分が混乱して、揺り動かされ、深く深く考えることになる。だからこそ、恋愛は尊いと言っていたのだった。君はその言葉を信じている――。

そして、君は再び恋に落ちているのを感じている。いや、この感情が恋なのかどうなのか、君には分からない。こんな気持ち、そうそう滅多に異性に対して感じることがなかったからだ。君はこれまで、三度こんな感情を抱いた。一度目は同人誌を作っていた頃知り合ったライターの方にこの感情を抱いた。東京まで行って、そこでその方が結婚することを知らされ、今では良い友だちだ。二度目はネット恋愛ドゥルーズや千葉雅也の哲学について語らう仲となった。三度目は……また機会があれば語ろう。

四度目のこの気持ち。人に話すとそれは恋ではない、と言われた。ただのインタレストだ、と。興味、と言い換えてもいいのかもしれない。そうなのかもしれない。彼女とはフェイスブックで知り合った。君がたまたま英語学習グループで彼女の投稿を読み、プロフィール写真を見て友達申請をしたら受け容れてくれたのだった。それから、時が過ぎた……君は彼女に、特別な思いを感じていることを自覚している。

しかし、それは恋なのだろうか? 君は何度も自分自身が、自分が恋だと感じているものを否定しようとした。酷い時は、ポール・オースター『ムーン・パレス』の主人公マーコ・フォッグばりの詭弁を弄して恋愛はフィクションである、つまり虚構の産物である、と主張しようとした。人間は恋愛などしなくても生きていける。下品な話をすれば日本人も恋愛などしなくても江戸時代は生きていけた。恋愛が今の様式を得たのはヨーロッパでの宮廷での貴族の戯れに端を発する。それが市民にも広まり、明治時代に「恋愛」という訳語とともに日本にも広まった。つまり、「恋愛」は近代的な概念であり西洋からの輸入品なのだ、と。

否定しようとした。あり得ない。間違っている――自分は「もう恋なんてしない」と。何度も、女性に関しては裏切られてきたはずだ。君はずっと、十代の時に女性に忌み嫌われる日々を過ごしてきたのだった。君が君であるというだけでこっぴどく嫌われる。だったら、恋なんてしない。恋愛とは無縁に、『ノルウェイの森』をこの上なく滑稽な夢物語として読みながら、生きていこう。そう思ったのだった。そして、それは成功したかに思えた。君は20代・30代を修行僧のように生きた。恋もせず、なにもせず、酒に溺れて生きたのだった。

そして、今……アランの『幸福論』から堀江貴文『多動力』まで、優れた哲学者は皆(ホリエモンも哲学者だ!)同じことを言っている。今を生きろ、と。今、ここからどう運命を切り開くか。動くことで人生は自在に変わる。ニーチェだって言っていることは同じ。今、生きる意志を煮えたぎらせて生きればきっと後悔はしない。だから、君は恋愛について再び書くことにしたのだった。

さりながら / さりながら #1

さりながら

さりながら

 

時が過ぎていく。それだけのことなのに――。

それはごく当たり前のことだ。時が過ぎていく。タイム・ゴーズ・バイ。それだけのことなのに、その時間の経過が無為であることに気がつく。自分の人生には限りがある。その限りのある人生の持ち時間を、湯水の如く蕩尽している。そして、それはもう戻って来ない。

藤沢周が、古井由吉の『白髪の唄』の解説文として寄せた文章で呼吸ひとつの狂いが人の正気の狂いに繋がるというようなことを書いていたのを思い出す。正確にどういう文章だったかは覚えていない。手元にその文庫本もない(グループホームの管理者の方と本の断捨離をしたので……)。だが、このフレーズは切れ味が良いので私は好きだ。息ひとつの狂いが自分の認識の狂いに繋がる。私の正気なんてそんなものだ。

しかし、無為に時間が過ぎるとはどういうことだろうか。それはスチャダラパーが歌うところの「ヒマ」というやつではなかっただろうか。「仕事や義務に拘束されない時間」が存在すること。それが過ぎていくこと。それが、下世話な話をすればカネにもならずなんの有意義な活動にも結びつかず、そのまま過ぎていってしまうこと。時間のコスパ? そんなものを意識するとは一体どういう破廉恥な心理からなのだろうか。

言うまでもないが、全ての人生の時間の過ぎ方に意味なんてないのである。大谷能生は『植草甚一の勉強』でこう書いている。

現在と過去とを、目の前の映像とそこから思い出される記憶の記述によって、何らかの体系に回収しないまま、そのままばらばらにつないでゆくこと。平岡正明植草甚一のこのような方法から、〈ニヒリズムの究極〉を読み取っている。ニヒリズムとは、真理や道徳や倫理や信仰に頼らずに、つまり人生の価値を客観的なかたちで承認するような考えには与しない、という選択である。ニヒリストはその場その場の個人的な歓びを、世界の果てにあるだろう至高の価値よりもはるかに高く見積もる。人間とは偶然に生まれた屁のような存在であり、その生き死にはどういったものであれ、すべて平等で、つまりすべて犬死にである――こういった思想がニヒリズムを代表するものであり、これは「いつも夢中になったり飽きてしまったり」とうタイトルを自分の本に付けてしまう植草にとっては、なかなか的確な形容だと思われる。彼の明るさを支えているのは、徹底したニヒリズムなのだ。

平たく書けば「人生の価値を」「承認」することを拒むということだ。人生に価値があるか? そんなものはない。「人間とは偶然に生まれた屁のような存在であ」ること。「犬死に」として死ぬこと。それが植草甚一が、引いては「ニヒリズム」が(むろんこの「ニヒリズム」をニーチェの提唱した概念と照らし合わせて考えたいとも思うのだが、あいにく私はニーチェを理解出来ない)説いた人生観である。「明るさ」がその「ニヒリズム」によって「支え」られ「ている」と語る最後の文章をしかし、単なるレトリックと片づけてはいけない。

つまり、人生に意味はない。人は意味もなく生き、そして死ぬ。そして、それは「明るさ」を帰結として導く。死ぬ。それが絶望的である理由など何処にあるだろう。人の死は理屈を超えて、虚心に見つめると本当に呆気ないものなのだ。黒沢清ミヒャエル・ハネケの映画はその呆気なさ、まさに「屁のように」生き死ぬ人の姿を見せていたはずではないか。だからこそ私たちはそれを笑って、あるいはやり切れない溜め息と共に受け容れたのではないだろうか。

 

――さりながら。

今日、私はクリニックに行った。そこで、診療までの待ち時間を他になにもすることもなかったので池澤夏樹『シネ・シティー鳥瞰図』を読んで過ごした。それにも飽きると鞄の中をひっくり返すようにして本を探し、フィリップ・フォレストの『さりながら』という本が存在することに気がついた。図書館で借りたのは覚えているが、それを鞄の中に入れた記憶はない。発達障害者故のうっかりというものだろう。

退屈なので読み始めた。すぐに、これは人生において今読むべき本であるように感じられた。フィリップ・フォレストはフランスの批評家で、『永遠の子ども』という自身の子どもが亡くなったことをテーマにした私小説……と言って不適切であるとしたら、決して信頼してはならない語り手が主人公として語る恐ろしく丹念な考察を文章として纏め上げた魂のルポルタージュとでも呼ぶべきものを上梓した人だった。私は『永遠の子ども』が好きなので、この『さりながら』もその繋がりで手に取ったのだった。

『さりながら』は小林一茶夏目漱石、そして山端庸介(知らなかったのだが、この方は写真家だそうだ)について触れられた断章形式を主とする散文で構成されている。いや、小説なのだろうか? 既にここまでで長くなった。続きはまた書くことにしたい。

Wonderwall / There She Goes #54

(What's The Story) Morning Glory? (Remastered)

(What's The Story) Morning Glory? (Remastered)

 

結論から言えば、彼はフラれた。彼女は七年越しにつき合っているボーイフレンドを選んだのだ。

彼女は彼にとって、なんだったのだろう。あるいは彼女にとって彼はなんだったのだろう。この感情をどう整理したら良いものか、彼は思いつかない。喪失感? 多分ざっくり言ってしまえばそういうことになるのだろう。ただ、失ったものが大きいだけ得られたものもあるように思われる。

彼女はいつも、彼にこう訴えていたのではなかっただろうか。己自身を誇れ、恥じるな、と。マイ・ウェイを生きる武闘派の彼女、どんな場所でも良い意味で TPO を無視して自己主張を続けて来ていた彼女は、決して嘘をつくのが巧い人間ではなかったはずだ。だから彼女は率直に言ったのだ。自分をボロクソに言うな、と。

ケン・ローチの『わたしはダニエル・ブレイク』という映画を思い出す。"Be Yourself"。英語の聞き取りが致命的に下手な彼は、しかしこのフレーズは鮮明に思い出すことが出来る。あの映画も世渡りが下手な人間が、闘志を剥き出しにして生きる映画だった。己自身を失って/譲ってしまっては終わりだ。それは彼にとって大きかった。

だから、彼は大事なものを得たと言えるのだった。己自身のプライドを取り戻すこと。自尊心をタフに保ち続けること。断酒会で彼は何度も言われた。「自信と誇りを以て生きろ」と。その言葉が彼には今妙に身に沁みる。こんな風に生まれて、他にどうしようもない。醜い、規格外な存在。そんなはみ出し者としての自分を、しかし自分自身まで否定してしまっては終わりだ、ということだ。自分自身が自分を必要としないで、誰が彼を必要とするのだろう。だから、彼は自分自身を捨てないようにしたい。ここで酒に逃げたりしては終わりだ、と。

彼女は彼氏とどのような生活を過ごすのだろう。鳥籠の中に閉じ込めておくには惜しい鳥も居る……そんなフレーズを思い出す(『ショーシャンクの空に』だ)。彼氏と一緒に彼女がその可能性を伸び伸びと活かしてワイルドに生きるのだとしたら、そして幸福になるのだとしたら、良いことではないか。彼にも新たなチャンスが訪れないとも限らない。それまでの喪失感は、映画を観ることによってなんとかしようではないか。『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』でも見直そうかと思っているところだ。決して損はしないだろう。

今日は英会話教室に行った。彼は早速、己自身を恥じずに誇りを以て質問をした。自分の意見(オピニオン、と言った方が良いかもしれない)を語った。堂々と胸を張って……それが空元気であるとしても、ハッタリでしかないとしても彼は己を誇ったわけだ。良くやったと言えるのではないかと思う。明日は断酒会だ。この苦しい胸の内を明かしてしまおうと思う。それでスッキリするはずだ。その後のことはその後考えれば良い。己自身を恥じるな、堂々と生きろ……己に向かって彼は語り掛ける。いつかこの痛みが癒えるまで。

彼女とは、永遠に別れたわけではない。永訣というわけではない。彼女とやる企画は残っているし、会えるチャンスもある。良き友達として交際出来れば、と思っている。いつか堂々と空威張りを身につけられるようになった彼自身を彼女に見せたい。それこそが最大の返礼ではないだろうか。そう思い、英語でブログを始めたりしているところだ。英語の方がクリアに自己主張が出来るのではないか、という知人の言葉を参考にしてのことなのだけれど、果たして間違いだらけの英語が何処まで通用するものか如何ともし難い。

ともあれ、大事な学びを得たわけだ。オアシスの曲を思い出す。I'm free to be whatever I...自分自身はなんにでもなれる。オアシスの曲は歌詞が陳腐/バナールだったので好きになれなかったのだけれど、今聴くとギャラガー兄弟がやはり己自身を無骨に晒して生きて来ただけあって、その歌詞の生々しさに唸らされてしまう。スマートに、己自身を傷つけないようにして保身だけを保って生きて来た彼は、ギャラガー兄弟から学ぶ必要があるようだ。こうして人生は続いていくのだ。未来に生きなくてはならない。前向きに、胸を張って!

今、この感情をすぐに整理出来るわけではない。むしろ痛みは否応なしに増すばかりだ。それを一気に解消するなんて虫の良いことを考えないで、今は痛みに浸り続けるのが得策と言えるのかもしれない。カフカを読み返そうか……なんにせよ、人生はこれからだ。胸を張って、堂々と。彼の人生は今始まったとも言えるのだ。「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねえよ!」、これは北野武キッズ・リターン』の言葉だ。やけっぱちの希望、絶望にとっ捕まるすんでのところでタフに生き延びられた不良少年たちの空元気のこの台詞が、妙に沁みる……。

ラブ・ストーリーは突然に / #There She Goes #53

自己ベスト

自己ベスト

 

……彼女と初めて出会った時のことを彼は思い出す。驚かされたのは、彼女が辞書を抱えていたことだった。英語なのかドイツ語なのか、そこまでは確かめていないがともあれそんな重いものを携帯していたのだ。彼も、人から見て不気味に思われるくらいに本を携帯する癖がある。だから彼女を初めて観た時にそのインパクトにやられてしまったのだ。一目惚れ、というやつだろう。それから果たして語られる彼女の話は、凄まじいものだった。少女時代は内村鑑三を愛読していた、立命館の院卒で IQ は 156 ある、等など……。

彼は一応早稲田の第一文学部英文学専修を出たのだけれど、調べてもらったところ IQ は 120 だった。だから、彼女の方が賢いことになる。それで、彼は知的なところがある女性に惹かれる傾向があるので好きになってしまったのだった。ラブ・ストーリーは突然に……あの集いで彼女に会わなかったら、彼はどうなっていたのだろう。彼女は? 彼女は彼との初対面で、相貌失認――ざっくり言えば顔をなかなか覚えられない、という障害だ――を抱えているのが自分だけではないことを知り、泣いたそうだが……彼女とそうやってやり取りし合って二年になる。彼女はこの町に戻って来た。またイオンあたりでエンカウントするのかもしれない。

彼女に告ったことも書くべきだろうか? 彼女は彼の告白にあまり良い印象を抱かなかったようなのだ。そして、「良いんですよ。どの道時間は取り戻せませんから」と言って彼を退けた。そこに彼は、サディスティックな素質を見抜いたのだった。彼はマゾヒスティックなところがあるので、ますます彼女を好きになってしまったことは言うまでもないだろう。今度の日曜日、彼女がホストとなって英会話を発達障害当事者の会で行う予定だ。彼は英文科卒の(TOEIC は受けたことがないのだけれど)キャリアを活かせないかと考えている。

彼女の企画には、しかし協力者として名乗りを上げることはしなかった。彼女が一方的な彼のアプローチを嫌がるかもしれない、と考えてのことだ。恋愛は相手の気持ちがあってこそ……ここはスイッチをオフにして、彼女の仕切るがままに任せようと考えたのだった。なにか有用なアプリなどあれば、それを紹介したいと考えている。Engly なんてどうだろう。彼はこのアプリを使って英語の勉強に励んでいる。彼女が彼のことを一目置くことになれば、活躍出来ればと思っているのだけれどどうだろう。勘が言っている。今回はオブザーバーに留まれ、と。

小田和正のベスト盤を聴いている。小田和正……大嫌いだった歌手だ。食わず嫌い、というやつだ。ラブ・ソングなんて、恋愛ととんと無縁だった彼になんの意味があるのだろう、と。しかし「ラブ・ストーリーは突然に」を聴き、恋/愛の気持ちが彼の中にまだ残っていたことを思い知らされる。そしてそれは続くかもしれないし、いずれは結婚、なんてこともあり得るのかもしれないのだ。未来のことなんて誰に分かる? 言えることは、今この瞬間を精一杯生きようということくらいだ。だから日曜日を楽しみに待っている。

「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら」……もし、あの集いに彼が出席していなかったら。もし、辞書を携帯する彼女に(前に電子辞書をプレゼントしたが、やんわりと断られた)出会わなかったら……ラブ・ストーリーは始まらなかったわけだ。運命の出会い、というやつはあるのだなと思わされる。もっとも、彼女はリケジョなので文系で本能のままに動く彼とは水と油とも言えるので、もどかしいのだけれど……一体彼らはどうなるのだろうか。話が噛み合えば、フランクに話し合えれば、と思う。雑談……というのは発達障害者には難しいのだけれど。

そして、彼は今日は休み。タイヤがパンクしていたので、それを修理してもらっているところだ。小田和正の声が心地良く響く……「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま」……当たり前のフレーズだ。陳腐、とさえ言える。だけども、この端的な事実が彼には興味深く感じられる。見知らぬ二人のままだったかもしれない彼らは、しかし出会ってしまったのだ。事件、と言っても良いだろう。こんな事件が起こり得るとは……プリファブ・スプラウトは「人生は驚きの連続だ」と歌っている。それは正しかったわけだ。

英語の勉強……昨日も英会話教室に行き、そこで先生に無茶振りをしてしまい大恥をかいた。だけれども、トータルで見ればスローライフを送っているとも言えるわけだ。昼食は相変わらずアンパンと爽健美茶。だけど、こんな人生も悪くない。また彼女の声を聴きたい……そう彼は思っている。

それはただの気分さ / There She Goes #52

Aloha Polydor

Aloha Polydor

 

夜中、ふと目が覚める。そして、また眠りに就くまでの時間を無為に過ごす。マルセル・プルースト失われた時を求めて』の冒頭の眠りに就く描写が思い出される。何度も読もうとしては挫折した箇所だ。長ったらしい描写……しかし、ノーガード戦法で逐語的に理解するのを諦めて、文章の流れに身を任せて読めば意外とスラスラと頭に入って来る。彼は『失われた時を求めて』を読み通そうと考えているところだが、挫折してしまったのでまたイチから読み直すつもりである。読書なんてただの気晴らし……なにをどう読もうと勝手ではないか。

彼女のことを思い出す。彼女は眠っているのだろうか。フィッシュマンズの曲の歌詞を思い出す。「眠ってる君を思い出すんだ/眠ってる君が一番好きだから」……眠れるということは取りも直さず精神的に安定しているということだ。彼女が眠れていると良いなと思う。彼女はどんな夢を見るのだろうか。電気羊の夢? そして、彼はフィッシュマンズを聴く。「みんなが夢中になって暮らしていれば/別になんでも良いのさ」……彼はこの一節に随分救われて来たことを思い出す。金なんてない。贅沢は出来ない。だけれども、ご飯は美味しいし好きなことを好きなように出来る。それが幸せってやつじゃないだろうか?

そして、「それはただの気分さ」という曲を聴く。デモトラックのまま、遂に完成されないで残されたフィッシュマンズの曲……「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔のそばに居たい」……彼女の傍に居たい、と思う。彼女は高知能を有している。だからこそ生き辛さを感じている。彼女の側に居てなにか出来るわけではない。彼は無力だ……『ベルリン・天使の詩』の天使のように。だけれども、彼女の側に居て生き辛さを共有出来れば、こんなに理想的なことはないのではないかと思うのだ。だが、恋愛は彼女の気持ち抜きには成り立たない。だから彼は二の足を踏む。

なにか迷った時、なにか人生の生きる道を見失ったと思った時、彼はフィッシュマンズを聴く。フィッシュマンズの曲の中に全ての答えは隠されているように思う。あまり稼がなくても良い、あまり働かなくても良い、あまり贅沢出来なくても良い……生きていて、生きる意味を追い求めないで気楽に暮らしていければ良い。そういう生き方を選んだのは二十歳頃に『空中キャンプ』を聴いてからのことだ。彼は一応早稲田を出たのだけれど、年収は二百万にも届かない。だけど、そんな人生を選んだのも自分自身だ。誰のせいにもしたくない。

古井由吉『仮往生伝試文』を読み、この心臓が止まってしまえば自分はお終いなんだなと考える。「往生するよりほかに、ないんだよ」……酒に溺れていた頃は作家になること、名を残すことが幸せ/成功だと考えていた。裏返せばなにも名を残せないこと、有名になれないことは不幸だと考えていた。だから苦しかった。今は違う。酒を止めてシラフで食う飯は旨いし、仕事は好きなように出来て楽しい。自由自在に生きていける。こんなに幸せなことはないではないか……貧乏だけど贅沢、と沢木耕太郎は語っていなかっただろうか?

あるいは、森敦を読むのも良いかもしれない。岡田睦を読み返すのも良いだろう。四十で死ねたら本望と考えていた人生……今は四十四。四年間はオマケのような人生だった。今生きていられることを不思議に思う。先は長くないかもしれない。「そろそろ近いおれの死に」……こう呟いたのは金子光晴だっただろうか。いつ死んでも良いように、今最高のパフォーマンスを発揮して生きる。それは堀江貴文から学んだことだ。森敦は読もう読もうと思って読めていなかった作家なので、全集を借りて読むつもりである。どんな風にでも生きられる……アナーキーなクソジジイとしての人生を全うするのも悪くないかもしれない。

貯金はない。二千万円貯めるなんて夢のまた夢。生活保護まで考える始末だ。先は暗澹としている……だけれども、物の豊かさにこだわらないで図書館で借りた本を好きなように読み、グループホームで美味しい手作りの飯を食べるのもひとつの幸せのあり方なのではないか、と思う。アキ・カウリスマキの映画のように……あるいは是枝裕和万引き家族』のように。そして、未来の中には希望はひとつ残されている。その希望は彼女とワイワイやっていくこと。彼女を愛し続けることだ。もっとも、これが愛なのかどうなのか彼には分からないのだけれど……。

彼女の傍に居たい、という気持ち。そして、彼女の傍に居てはいけないのだ、という気持ち…… With Or Without You... このアンビバレンスな気持ちの中で彼は揺れ動く……「それはただの気分さ」……。

令和元年の夏休み / There She Goes #51

ミシェル・レリスの『ゲームの規則』という、全四巻から成る本を彼は読んでいる。今第二巻に差し掛かったところ。マルセル・プルースト失われた時を求めて』に比肩する作品と言われているが、そこまでのものなのかどうか判断がつかない。ともあれ読み終えなければなにも語ることは出来まい。ひたすら読む。そう言えば、『失われた時を求めて』も読書が頓挫してしまったのだった。光文社古典新訳文庫岩波文庫で第一巻から読み直そうかと思っている。まあ、読書なんてただの気散じ……楽しめればそれで良いのだ。 

ボイジャー

ボイジャー

 

Momus というシンガー・ソングライターの『Voyager』というアルバムを聴いている。そこで、ふと「Summer Holiday 1999」という曲の歌詞に気になるところがあるので、それについて書いてみようと彼は考える。それはこういう一節だ。「Is there any reason not to die / If this love I feel must always be denyed?」。戯れに訳すと「死なずにいる理由なんてあるのだろうか/ぼくが感じているこの恋が否定されなければならないとしたら」……だめだ、やはりカタ過ぎる。彼はつくづく翻訳家としての才能がないことを痛感する。

この曲は同性愛を歌ったもので、金子修介の『1999年の夏休み』という映画にインスパイアされたものらしい。同性愛がまだ禁断の恋だった時代。LGBTQなんて言葉がまだなかった時代の映画が放映されていた時代。インターネットなんてまだ一般的ではなかった時代の曲だ。今ではボーイズラブは珍しくもなんともない。だが、この「恋」をめぐる曲の歌詞が今の彼には妙に愛おしく感じられるのはどうしてなのだろうか。それは取りも直さず彼もまた、「感じているこの恋が否定されなければならないとしたら」と考えているからに他ならない。

彼女に対する彼の「恋」……彼女がどうしてもこちらを向いてくれないことに対する彼の苦しみ。だが、彼女は傍に来てくれる。月イチで開催されている発達障害者をめぐる集いで、彼が提案した企画に彼女がジョイントすることになった。彼女とまたトラブルを交えながら、一緒にワイワイと企画進行を担当することになるのだろう。それで溝は縮むのだろうか。分からない……彼女の端正な言葉遣いと思考は AI 的であり(俗に言うリケジョ、というやつだ)、彼が早稲田で学んだ英文学は全く歯が立たないのだから……。

死なずにいる理由はあるのだろうか……彼は一度自死を試みた。だが、戻って来た。そして彼女と出会った。彼女と出会ったならば、彼女のために生きることこそ意味のある人生というものになるだろう。彼女の前でブザマな姿は晒したくない。ただ、彼女にもし決定的に嫌われ、ブロック/絶交されてしまったとしたら? いや、それは……その時考えれば良いことだ。考え過ぎるのが彼の悪い癖だ……。なにはともあれ、彼は断酒してポジティヴに人生を捉えることに成功していると思う。彼女に告った時、「自分のことをボロクソに言わない方が良い」と言われたことを思い出し、胸を張る。虚勢だが。

彼女は今なにをしているのだろうか。彼女が名乗りを上げた英語学習の企画に、彼もまた参加すべきだろうか。彼は今、毎週火曜日夜に行われている英会話教室に通っている。そこで、英語を披瀝している。ジャパニーズ・イングリッシュだ。「I have a pen, I have an apple」。そんな次元のシンプルなもの。だけれども、評判は良いようだ。早稲田で英文学を学んだその腕(?)は、さほど錆びていないのかもしれない。語学はなんであれ習うより慣れろ。これからも英語学習を続けていきたいと思う。そう言えば WhatsApp で中国の女性と英語で語らったこともあったのだった。その時は、彼女の英語はアメリカンではなかったので、全然聞き取れなくて苦労したものだが……。

そんなこんなで、令和元年の夏休みとでも名づけるべき……にはまだ早いが、ともあれそんな季節が訪れようとしている。距離は徐々に縮めるべきものなのだろう。彼は感情に任せて暴走する癖があるので、自制を覚えないといけない。それは彼女からも指摘されたことだ。ここはオン、ここはオフとスイッチを切り替えないといけない。そのせいで彼女を辟易させたことも何度となくある(と、少なくとも彼は思っている。彼女はもっと辟易したか、あるいはさほど傷ついてないか?)。それは反省しないといけないことだ。

夜も更けた。ミシェル・レリスの読書が終わればまた、マルセル・プルーストの長大な戯言につき合うことになるだろう……読書など、再び書くが気散じである。なにをどう読もうが勝手ではないか。死を意識して古井由吉を手に取り、生を実感したくてプルースト……それの何処がいけないのだ?

ベステンダンク / There She Goes #50

「AWAKENING」 standard of 90’sシリーズ(紙ジャケット仕様)

「AWAKENING」 standard of 90’sシリーズ(紙ジャケット仕様)

 

彼が住む町に彼女が帰って来た。彼はデパートメント・ストアで接客業をしているのだけれど、その売り場に彼女が母親と一緒に現れたのだった。発達障害者は接客業に向いていないと言われているのだけれど、果たして上手く行ったかどうか。訊いてみるのも怖いので訊く気がしない。

本題に入ろう。「迷い」について書くなら、迷ったことは四年前の四月三日が挙げられる。この日、彼は偏頭痛で倒れたのだった。職場に連絡して休暇をもらい、家で寝込んでいた。その日、一日だけ酒が止まったのだった。それまで彼は休肝日も設けず毎日――本当に「毎日」――呑んだくれていたのだった。

酒に溺れた切っ掛けは、まだ彼が発達障害者だと自覚していなかった頃まで遡る。大学生の頃のことだ。就職氷河期世代の彼は全然何処の会社からも採用されなくて、ヤケになった挙げ句会社訪問の帰りに発泡酒に手を伸ばしてストレスを解消する癖が身についた。それはニートになってからも、今の会社に拾われてからも変わらなかった。毎日、あの Γ-GTP が 1000 を越えても(!)呑んだくれる日々を過ごしていた。

自分でも病的な飲酒であることは分かっていた。安月給でカネのない身が毎日何故あんなに酒を呑めたのか、今でも不思議でしょうがない。ともあれ彼は自分の乏しい稼ぎを全てと言っていいくらい酒に費やして、休みの日は朝から呑んだくれていたのだった。ドクターストップが掛かっても、遂にはオーヴァードーズで自殺未遂をするに至っても呑んだくれた。そこに見るに見かねた障害福祉課の方が連絡を寄越して来て下さった。だが、それでも彼は酒を断つ決心をつけかねた。

そして、運命の四月三日である。その日一日酒が止まったことは既に書いた。その日以後、酒抜きで生きるか酒を呑み続けて四十で死ぬか。フランツ・カフカは四十で逝った。それもまたひとつの人生だろう。彼は酒に手をつけて死ぬことを選ぶ選択肢を選ぶことだって出来たわけだ。生きていても先細り、将来なんて見えている……生活保護の話が出るくらい行き詰まっていたどん底の人生だ。これから良くなることなんてなにもない。それでも生きることを選ぶか?

悩んだ。迷った。挙げ句の果てに、どうしてかは彼にも分からないのだけれどその手は障害福祉課の方への連絡に繋がった。酒を止めます、断酒会に入会させて下さい、と頼んだのだ。それはこれからの人生を本当に、どんな辛いことがあっても苦しいことがあっても酒抜きで生きることを意味していた。そんな人生がどんなものなのか彼自身想像もつかなかったが、ともあれ彼は生きることを選んだのだ。

それから……色々なことがあった。前にも書いたかもしれない。断酒会で様々な経験を積んだ。色んな人が酒で悉く失敗してしくじって来た。仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った……もっと酷い人は健康を失った。お酒の影響で脳に障害が残った人が居られたのだ。その方はシラフになってももう、まともに喋れない。障害のせいだ。だけれども、酒を断つ決意をして人前で体験談を発表していた。それを彼は聴かせてもらった。ろれつが回らない状態なのでなにを語っているかさっぱり分からなかったが、言葉を越えてビンビン伝わるものがあった。

そこで思い知ったのだった。人生、腹を括れば何処からでもやり直せる。逆に言えばやり直すためには腹を括るしかない。発達障害者として生まれて来た不幸を嘆き続けて生きるも一生、それでもなお前のめりに生きるも一生なのだ。同じ空の下でシラフで戦っている人が居る。自分も人生に、己に負けていられない。彼はそれからも断酒会に通い、お陰様で四年の時期をシラフで生きることが出来た。

彼に残りの人生がどれだけあるのか分からない。さほど長くは生きられないかもしれない。だが、彼は自分の人生が酒抜きであっても幸せであることを感じられている。仕事は相変わらずの安月給。だが、グループホームでシラフで食べるご飯は美味しいし、支援して下さる方々は温かい。彼女ともめぐり会えた。生きているその瞬間を楽しめている、堀江貴文的に言えば「今」を充実して生きられているという実感がある。それがなによりも嬉しい。

今、彼は幸せである。そしてそれはもちろん、彼に与えられたセカンド・チャンス、あの四月三日があったからである。あの日の決断を翻して、また酒に手をつけたいか? いや、と思う。あの日に戻ることだけは避けたい。酒で苦しめられて、最後の最後は精神科医の前で泥酔した姿を晒したあの日々にだけは戻りたくない。今、シラフで辛うじて生きられていることを彼は本当に感謝している。感謝はドイツ語で「ベステンダンク」と言うらしい。彼はフランス語を学んでいるのだが、このドイツ語は高野寛から学んだ。この言葉が好きだ。今生きられていることに感謝、太陽が射し、雨が降り、日々の糧があること、全てに「ベステンダンク」だ。