There She Goes

小説(?)

さりながら / さりながら #1

さりながら

さりながら

 

時が過ぎていく。それだけのことなのに――。

それはごく当たり前のことだ。時が過ぎていく。タイム・ゴーズ・バイ。それだけのことなのに、その時間の経過が無為であることに気がつく。自分の人生には限りがある。その限りのある人生の持ち時間を、湯水の如く蕩尽している。そして、それはもう戻って来ない。

藤沢周が、古井由吉の『白髪の唄』の解説文として寄せた文章で呼吸ひとつの狂いが人の正気の狂いに繋がるというようなことを書いていたのを思い出す。正確にどういう文章だったかは覚えていない。手元にその文庫本もない(グループホームの管理者の方と本の断捨離をしたので……)。だが、このフレーズは切れ味が良いので私は好きだ。息ひとつの狂いが自分の認識の狂いに繋がる。私の正気なんてそんなものだ。

しかし、無為に時間が過ぎるとはどういうことだろうか。それはスチャダラパーが歌うところの「ヒマ」というやつではなかっただろうか。「仕事や義務に拘束されない時間」が存在すること。それが過ぎていくこと。それが、下世話な話をすればカネにもならずなんの有意義な活動にも結びつかず、そのまま過ぎていってしまうこと。時間のコスパ? そんなものを意識するとは一体どういう破廉恥な心理からなのだろうか。

言うまでもないが、全ての人生の時間の過ぎ方に意味なんてないのである。大谷能生は『植草甚一の勉強』でこう書いている。

現在と過去とを、目の前の映像とそこから思い出される記憶の記述によって、何らかの体系に回収しないまま、そのままばらばらにつないでゆくこと。平岡正明植草甚一のこのような方法から、〈ニヒリズムの究極〉を読み取っている。ニヒリズムとは、真理や道徳や倫理や信仰に頼らずに、つまり人生の価値を客観的なかたちで承認するような考えには与しない、という選択である。ニヒリストはその場その場の個人的な歓びを、世界の果てにあるだろう至高の価値よりもはるかに高く見積もる。人間とは偶然に生まれた屁のような存在であり、その生き死にはどういったものであれ、すべて平等で、つまりすべて犬死にである――こういった思想がニヒリズムを代表するものであり、これは「いつも夢中になったり飽きてしまったり」とうタイトルを自分の本に付けてしまう植草にとっては、なかなか的確な形容だと思われる。彼の明るさを支えているのは、徹底したニヒリズムなのだ。

平たく書けば「人生の価値を」「承認」することを拒むということだ。人生に価値があるか? そんなものはない。「人間とは偶然に生まれた屁のような存在であ」ること。「犬死に」として死ぬこと。それが植草甚一が、引いては「ニヒリズム」が(むろんこの「ニヒリズム」をニーチェの提唱した概念と照らし合わせて考えたいとも思うのだが、あいにく私はニーチェを理解出来ない)説いた人生観である。「明るさ」がその「ニヒリズム」によって「支え」られ「ている」と語る最後の文章をしかし、単なるレトリックと片づけてはいけない。

つまり、人生に意味はない。人は意味もなく生き、そして死ぬ。そして、それは「明るさ」を帰結として導く。死ぬ。それが絶望的である理由など何処にあるだろう。人の死は理屈を超えて、虚心に見つめると本当に呆気ないものなのだ。黒沢清ミヒャエル・ハネケの映画はその呆気なさ、まさに「屁のように」生き死ぬ人の姿を見せていたはずではないか。だからこそ私たちはそれを笑って、あるいはやり切れない溜め息と共に受け容れたのではないだろうか。

 

――さりながら。

今日、私はクリニックに行った。そこで、診療までの待ち時間を他になにもすることもなかったので池澤夏樹『シネ・シティー鳥瞰図』を読んで過ごした。それにも飽きると鞄の中をひっくり返すようにして本を探し、フィリップ・フォレストの『さりながら』という本が存在することに気がついた。図書館で借りたのは覚えているが、それを鞄の中に入れた記憶はない。発達障害者故のうっかりというものだろう。

退屈なので読み始めた。すぐに、これは人生において今読むべき本であるように感じられた。フィリップ・フォレストはフランスの批評家で、『永遠の子ども』という自身の子どもが亡くなったことをテーマにした私小説……と言って不適切であるとしたら、決して信頼してはならない語り手が主人公として語る恐ろしく丹念な考察を文章として纏め上げた魂のルポルタージュとでも呼ぶべきものを上梓した人だった。私は『永遠の子ども』が好きなので、この『さりながら』もその繋がりで手に取ったのだった。

『さりながら』は小林一茶夏目漱石、そして山端庸介(知らなかったのだが、この方は写真家だそうだ)について触れられた断章形式を主とする散文で構成されている。いや、小説なのだろうか? 既にここまでで長くなった。続きはまた書くことにしたい。