There She Goes

小説(?)

YARUSE NAKIO の BEAT / There She Goes #49

そして、またしばらくなにも書かなかった。なにも起こらなかった。彼は 43 年の月日を生きた。ということはつまり、なにはともあれ死ななかったということになる。一度もだ。だから彼は自分に宛てて手紙を書いた。おめでとう。よく頑張った。この 43 年間、二度オーヴァードーズをして胃洗浄もして、死ぬ寸前まで行って、そこから survive して来たのだった。だからこれからは自分の思い通りに生きていけば良いのだ、と……これは『ヘン子の手紙』という本に触発されてやったことなのだけれど、そこそこ良い結果は出ているのではないだろうか。 

ヘン子の手紙: 発達障害の私が見つけた幸せ (学研のヒューマンケアブックス)

ヘン子の手紙: 発達障害の私が見つけた幸せ (学研のヒューマンケアブックス)

 

順風満帆な人生ではなかった。就活で躓いて以来先が全く見えない二十代を生きた。自分が発達障害者だと分からなかった時代、アイデンティティを探して大江健三郎中上健次を読み漁った時代を思い出す。藻掻き苦しんだ。東京で行われたオフ会で会った女友達に言われた言葉で自分が発達障害者だと分かり、正式に診断も下された。それを会社に伝えた。でもなにも為されなかった。当時は発達障害について彼自身もなにも分かっていなかった。そのメカニズムも、特性を活かした仕事のあり方なんてものも全然アイデアの欠片さえ掴めていなかった。だからまあ、当然のことだっただろう。それが三十代で、彼はアルコールに溺れた。

アルコールから脱してなんとか断酒会の門を叩き、そこから先もまた困難の連続だった。酒抜きで活きる人生はしんどい。クロスアディクションというのだろうか、彼は買い物をしてしまう癖があるのでその散財で悩まされた。今月 15 日に行われた断酒会で同じクロスアディクションで悩まれた方の体験談を聴かせてもらったことが切っ掛けとなって(その方はパチンコで一日 20 万から 30 万使ったそうだ。彼の月収を軽く上回る)、踏ん切りがついたのだった。それ以来買い物はしていない。強いて言えばフランス語の教材を買おうかなと思っている程度だ。

とまあ、今もど底辺を彷徨い歩いている身だ。仕事は障害者枠で、フルタイムというわけではない(正規雇用? 何処の世界の話だ?)。その日暮らしに近い人生……だけれども、二十代・三十代先が全く見えなかった時代を思い起こしてみれば、ここには確かな「光」があることが分かる。それはなにかと言えば断酒会の先人たちが体験して来られた壮絶な体験談から学ばされる回復への旅の道標だ。それはもう「一生涯」掛けて行われなければならない類のものなのだけれど――それでも、確かに「光」はある。歩いていけば良い道がある。その道をひたすら歩くだけ。それが彼に垣間見える希望なのだ。

ここで『ショーシャンクの空に』を引き出すのは無粋だろうか。ラスト近く、「必死に生きるか、ひたすら朽ちるか」(というのが彼の拙訳だ)という問いに答えを出したモーガン・フリーマンの姿を彼は思い起こすのだ。彼は「必死に生きる」「希望」を見出し、それに掛ける。彼自身、自分がどうなりたいのか分からなくなってしまうことがあるので、またあの映画を観てみようかと考えている。『ショーシャンクの空に』と『ガタカ』は若いうちに観ておいて損はない映画だ。

あるいは、青木新門から学ぶのも良いのかもしれない。青木新門を読み、親鸞に触れるのだ。この「There She Goes」の始まりが青木新門の言葉だったことを思い起こそう。彼は青木新門に触れて「小説」を書く決意をしたのだった。そう、今書かれているこのテクストが彼が書き得る唯一の「小説」なのだった。これ以外の「小説」を彼は書けない。 もし数多とある小説が本当の小説で彼が書き続ける「小説」が小説に値しないというのであれば、それもそれで良い。どんな世界にだって変態はひとりくらいは居ても良いのではないだろうか。

青木新門の親鸞探訪

青木新門の親鸞探訪

 

ともあれ、今日も彼は生き延びた。ここで字数も尽きる。終わらせよう。

海を探す / There She Goes #48

LOVE FLASH FEVER

LOVE FLASH FEVER

 

しばらくなにも書かなかった。特になにか重要なことが起こったわけでもない。起こらなかったわけでもない。いつもと同じような日々が続いたのだった。平成最後の夏が始まろうとしている。世間は災害とオウムに揺れている。Twitter の画面を開いても麻原彰晃の話題ばかりでうんざり……。

もちろん麻原彰晃は重罪人だし、死刑の是非は重要なトピックだ。彼が多くの人々を殺したテロリストであること、カルトの指導者であることはハッキリしている。だけども、日常の重要な些事(と書くと矛盾する表現になるが)を疎かにしてまで語るべきことだろうか? 日常と地続きな形でそういう問題を語りたい。彼はそう思って、ふと今なら読めるかもしれないと中村文則『教団X』を手に取る。あるいは村上春樹アンダーグラウンド』『約束された場所で』も今なら虚心に読めるのかもしれない。東京に住んでいた頃、まさに地下鉄サリン事件に東京が揺れた思い出が懐かしい……。

あるいはこんな時だからこそいとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』や大江健三郎『洪水はわが魂に及び』は読み返されるべきなのかもしれないなと考える。高橋和巳邪宗門』は読んだことがないので(あと、ドストエフスキー『悪霊』も読んだことがない)、この機会に読んでみるのも一興かなと。

彼女とはしばらく連絡を取っていない。あれから LINE でも連絡がない。こちらから話すべき出来事も特にない。なにか送ってもどうせ既読無視されるのがオチだろうし……それで気分を変えて note で掌編を綴ったりしているのだった。

平成最後の夏か……平成を生き延びられたことを彼は不思議に思う。彼が 14 歳の頃昭和が終わり、それから震災とオウムで始まったような平成、あるいはフリッパーズ・ギターやたまが生み出したような平成を 30 年生きて来た。カフカが亡くなった 40 歳という年齢を追い越して生きていることが不思議に感じられる。あとどのくらいこの生命があるのか分からないけれど、その時その時を大事に生きよう、と考える。与えられた命を粗末にしないように……そう腹を括るのだった。

ポリリズム / There She Goes #47

Perfume Global Compilation LOVE THE WORLD

Perfume Global Compilation LOVE THE WORLD

 

……そして、また戯れにロラン・バルトを引いてみる。『恋愛のディスクール・断章』から……。

あの人の身体はふたつに分かれていた。一方は肉体そのもの――その肌、その眼――であり、やさしく暖かかった。そしてもう一方は、きっぱりとして抑制のきいた、ともすれば極度のよそよそしさを感じさせるその声、肉体が与えるものを与えようとしないその声であった。

待ち望んでいた彼女から来た LINE の通知。だが、彼はそれでうっかり転んだりすることはない。彼女が彼に対して求めているものが恋などではなく、勉強の素材に過ぎないことが分かっているからだ。だったらそれで良い。彼は喜んでその犠牲になろう。そう思い彼女に返事を返した。

歯切れの良い声、サクサクと全てを分解して行くその言葉……そういったものに彼は惹かれ、そして特別な感情を抱いたのだった。バルトを参照すれば、あるいはハイポジの曲名を借りれば「君の声は僕の音楽」というフレーズが似つかわしい、その魅力的な声に惹かれた……。

彼は自分のことをアセクシャルではないかと思っていた時期があった。欲望は抱く。もっと具体的に言えば性欲は抱く。しかし、生身の女性にはピンと来ないのだった。誰も思慕の対象にはならない……それが違ったのが一番最初の女性だった。東京まで行ったことを思い出す。この話は何度もした。だからもう繰り返すまい。二度目の女性の話ももうするまい。

衝動で動く彼は間違いなく発達障害の中でも取り分け ADHD を病んでいるはずだ。買い物、過食、飲酒……散々苦しめられたことを思い出す。今はハマっているものと言えば読書くらいで、これは別に依存症とかそういう話でもないらしいので良いのかなと思っている。ストレスの解消のために図書館で本を借りて、読みまくる……。

彼女と接していて思うのは、そういう彼女自身の「スキ」とでも呼ぶべきものが見当たらないことだ。だから会って話をした時はさながらひと回り歳下の彼女をカウンセラーに見立ててカウンセリングをしているような話になってしまった。彼女からなにも引き出せないので彼が悩みを語った、というように……なんだか情けない話だけれど。

ここで書くこともなくなってしまう。金井美恵子堀江敏幸松浦寿輝沢木耕太郎舞城王太郎阿部和重……本に包まれている時間が至福の時間で、あとは映画を観たりぶっ飛んだ音楽を聴いたりしている時にこそ喜びを感じる。安上がりな生活、気楽な暮らし……その趣味を仕事に持ち込めないかと思っているところなのだった。叱られるかもしれないのだけれど。

十年前。発達障害と診断されて、そこから先どうして良いのか分からなくて途方に暮れた時期……酒に溺れて自殺未遂までした時期から比べると世の中大きく変わった。今は支援の手が到るところから差し伸べられている。彼自身も変わったのかもしれなかった。断酒したことが大きいと思う。前にも書いただろうか?

断酒して二年くらいした頃に、断酒会で色々な方の話を聞いたのだった。壮絶な体験談があった。お酒で仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った、そして健康を失った……最も壮絶な方は、脳に障害が残った方だった。だからお酒が抜けてもまともに喋れなくなった。そんな方が断酒してどう立ち直りを掛けて努力しているか語っておられた。呂律が回ってなかったからなにを語っているのかさっぱり分からなかったけれど、言葉を超えてビンビン伝わるものがあった……同じ空の下にそういう人が居るのだ。

人生腹括ったら立て直せる。逆に言えば立て直すためには何処かで腹を括らないといけない。彼も障害者扱いされて嬉しいわけがない。全然嬉しくない。それを嘆き続けて生きるも一生だ。でも、それでもなお前のめりに生きるも一生だ。彼は腹を括ろうと思ったのだった。

そして、二年くらいした頃に彼はふと思ったのだった。人生にこう生きなければならないというルールはない。いや、法律を破ってはいけないというルールはある。だが、変人扱いされようと他人に迷惑さえ掛けなければ自分の好きなように人生を Design しても良いのだ、と思ったのだ。

過去の自分の価値観から言えば、彼は結局は長時間雇用と言っても非正規雇用のフリーターに違いない。だけれど、それで良いとも思っている。暮らしていけるだけのカネがあればそれで良いじゃないか、と。カネよりも、仕事の中で自分をどんどん自己主張して行ければ良いじゃないかと思っているのだった。

腹を括り、そして今日も彼は須賀敦子を読むのだった。なんという幸せな生活だろう。

ある光 / There She Goes #46

今週のお題「わたしの春うた」

色々な曲が思い浮かぶ。春の雷鳴から始まるアルバムとしては佐野元春Sweet16』から何曲か。あるいは高野寛「目覚めの三月」。だけど YouTube で聴ける音源がないので、苦し紛れに彼は一曲選ぶ。小沢健二「ある光」だ。歌詞が春と関係あるというわけではないが、新しい命の息吹を感じさせる曲だと思う。


小沢健二 - ある光

職場で彼の昇進が決まった。と言っても多少収入が増えて苦労もそれに伴って増えるというだけの話なのだけれど、まあまずは目出度いと考えようと思うのだった。具体的には 21 日から忙しくなる。未来のことなんて今どうこう心配したって始まらない。今出来るベストのパフォーマンスをやるだけ……。

最近ギュスターヴ・フローベール感情教育』を読み終えた。光文社古典新訳文庫から出ているものを読んだのだが、悪い意味で引っ掛かりのない翻訳であると思ってしまった。ツルツルと読めてしまうのだ。だからフラットというか、平板な小説であるという印象があとに残った。

そんなところだろうか。先日彼女と会うことは出来なかった。彼女は彼女で勉強中とのことなので、彼も彼で頑張るしかないのだった。ヒマな合間にフローベールを読んだりプルーストを読んだり……そんなこんなで日々は三寒四温の中過ぎて行く。去年の、いや一昨年の今頃小説をカクヨムで書いていたあの苦しみが嘘のようだ。

彼は仕事から逃げることしか考えていなかった時期のことを思い出す。今は違う。今は腹を括って仕事に前のめりに対峙しようとしている。それもまた彼女の影響なのかもしれなかった。彼女の姿勢を見習いたい……そして身だしなみを整え髭を剃ることから一日をスタートさせるのだった。

光文社古典新訳文庫からウィリアム・フォークナーの『八月の光』の新訳が出るという。差し当たってはそれに期待しようか……学生時代一応英文学を専攻していたのでフォークナーのその小説も読んでいたのだけれど、なにを読んだのかさっぱりという有り様なのだった。今は岩波文庫からも訳が出ている。これを機に読み返そうか。

あと他に書けることもないのだった。堀江貴文の本の新刊も欲しいと思ったのだけれど買うチャンスを掴めずに今まで来てしまった。ジル・ドゥルーズの本も欲しいと思っているのだけれど、買う切っ掛けがない。背中を押されるあの感触がない。衝動買いが収まったようで、それはそれで良いことなのかもしれないなと思うのだ。今手持ちの、無闇矢鱈と積んでいる本を読むので充分というか……ココ・シャネルに関する本も読みたいなと思っている。一時期シャネルの生き方にハマった時期があるので、伝記を色々と買い込んでいるのだった。

読めるようであれば岩波文庫版でマルセル・プルースト失われた時を求めて』も読み続けたい。読書メーターで彼は『失われた時を求めて』に関するコミュニティを開設した。そこで有意義な情報交換が出来ればと思っている。吉川一義訳でひと通り読み終えたら高遠弘美訳で読み直したい。

bookmeter.com

ここまで書いて、手詰まり……佐野元春Sweet16』から「Asian Flowers」を流す。金井美恵子の本も読み返したいなと思いつつ手をつけられていない。彼女の小説から恋愛論を学ぶというのも有意義なことのような気もしているのだった。『道化師の恋』なんて今読んだらどう映るのだろうか?

本が散らかった自分の部屋を見渡し、混沌とした自分の精神状態を思う。内面世界もまた雑多な本が散らかって足の踏み場もない自分の部屋のようだ、と思う。そのカオスが自分の取り柄なのかもしれない、と。話題は取り留めもなく広がる。須賀敦子を読もうかな、と思っている。

結局彼女となんの進展もないので、話題はこんな風にこれもまたフラットにならざるを得ない。まあ噺家でもなんでもないのでそんなに毎度毎度面白い話を期待されても困るというものだった。ともあれ今日も仕事をこなして草臥れた。それで充分ではないかなと思ったのだ。

あとはアルベール・カミュ『最初の人間』を読んでみたいとか、ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制』を読みたいとか……読書のことばかり考えてしまうのが彼の困ったところ。過読症ではないかと揶揄されたことがあるくらい読書は埋没してしまう趣味なので、どうしてもその路線から離れられないのだった。

フォークナーを読みたい、ヴァージニア・ウルフを読みたい、ミシェル・ビュトールを読みたい、クロード・シモンを読みたい……読みたい本は数多とある。今出回っている新刊に興味が赴かないほど古典を読みたいと思っている。今の読書はそんな感じなのでこれからどう進展があるのか、これも分からない。

まあ、そんなところか。あとは古井由吉『仮往生伝試文』も読みたい……読みたい本をリストアップしていたらこんな時間になってしまった。もう寝るべき時刻だ。あまりお題と絡まない話になってしまったが、たまにはこんな回があっても良いだろう。ということで、また明日。

午後の曳航 / There She Goes #45

TOPICS

TOPICS

 

週末彼はまた彼女と会う……予定ではそうなっている。ただ、彼女の体調が優れないことを考えれば会えるかどうか分からない。長い不在……。

恋がそもそもの出会いの場から、咎むべきものと見なされるのはなぜだろう? してはいけないことと知りながら、恋をしないではいられないのは、なぜか?

おそらくそれは、恋が自分を手放す歓びと不可分であるからだろう。

恋とは自分を手放し、恋人に与えることだ。ボードレール風に言えば、自分の外に出ることだ。

自分を手放し、空虚になる。欠如の穴のような存在になる。デュラスが『ロル・V・シュタインの歓喜』で描いた「歓喜 ravissement」。魂を奪われること。喪心。それは確かに死ぬほどの歓びであり、そのような並外れた歓びに対して、それを禁じる掟が立てられるのは当然かもしれない。

恋する人は予感しているのである、――自分がこれから味わうのがこの世のものとは思われぬ悦楽であることを。

――鈴村和成『愛について――プルースト、デュラスと』

今日は読書が捗った。マルセル・プルースト失われた時を求めて岩波文庫版第四巻を途中まで読んでいて放り出していたのだが、挫折させずにそのまま読み終えてしまったのである。恋の病に悩んでいるからなのか、興味深い読書となった。まあ、この年齢になって思春期の病みたいなものを抱えている方が可笑しいのだけれど……。

鈴村和成のテクストを読み、読んでいないマルグリット・デュラスを読まなければと思わされる。『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」は恋愛小説として単体でも読める美しい巻なのだけれど、「超」がつくほどスローテンポで話が進んで行くので何処まで読めたか心許ない。

……戯れに手元にある鈴村和成のテクストを引こう。

同じように「あなたは恋しているのですか」と問うことはむなしい。恋とは「われにもあらず」、「不意を突いて」、「知らぬ間に」起こる出来事であるのだから。恋しようと思って恋することはできない。プルーストとデュラスが繰り返し言うように、すべての恋は”無意志的な”恋である他ないのだ。

人の無意識は擬装――シミュラークル――を通してしか窺い知ることはできない。恋が無意識の領域に属するものであるなら、恋のすべてのあらわれは幻ということになろう。恋する人は相手の擬装をしか愛することはできない。それはすみずみまで演技と仮面、鏡の張りめぐらされた仮想現実(ヴァーチャル)の世界なのだ。

一年前に彼女と出会った時のことを思い出す。それはもちろん予期しない出来事だった。発達障害者の当事者として会合があるので参加して欲しい、と誘われてなんとなく参加することにしたのだった。そこでの出会い……彼は落語のように自分の半生を語った。彼女から少なからず興味を抱かれたらしい、と彼女の母親を通して言われた。

村上春樹スプートニクの恋人』だっただろうか。恋とは暴力的なものであるという、如何にも村上春樹らしい比喩で表現された下りがあったことに引っ掛かる。彼にとって出来事はいつだって唐突なのだけれど(いつ彼が死ぬかも分からないのだから!)、そんな運命が起こったことに彼自身不思議さを感じる。こういうことがあるのが人生か、と。

彼から誰かを恋したことは……あっただろうか。二度覚えがある。一度目は東京まで行った。二度目はネット恋愛、そしてこれが三度目……しかし三度とも結局は彼は「相手の擬装をしか愛すること」しかしなかったような気がしている。彼女のナマの姿を受け容れられたのか?

「それはすみずみまで演技と仮面、鏡の張りめぐらされた仮想現実(ヴァーチャル)の世界なのだ」……彼女の中に「幻」を見ているのだろうか? その「幻」しか愛し得ていない、つまりこの恋(と言い切ってしまおう)も結局は不毛な営みなのか。そうすれば永遠に彼の欲望は満たされないことになる。

だが、その欲望が虚しいものであれ誰かに対して解放されること自体は許されることなのではないか? 世の数多とある「小説」はそのようにして書かれたものなのだろうと思う。彼がこうやって書き続けているテクストもその一環だ。このどうしようもない苦しみが一旦でも癒えればと思って書き続ける。

……そして? その宛先は何処に行くのかなんて分からない(また東浩紀存在論的、郵便的』を読み返すべきだろうか……)。四度目の出会いで彼は本当に求めていたものにたどり着けるのだろうか。それはしかし運命に委ねなければならないことだ。彼に出来ることと言えば、差し当たってはプルーストを読みながら待つこと……。

今日は本を読み過ぎたようだ。ここで頭を休めなければならない。彼は My Little Lover の「午後の曳航」という曲を聴いている。三島由紀夫の同名の小説は読んだことがない……今の精神状態だと三島は読めるのだろうか。どうにも三島と彼は相性が悪いのだ……。

ノルウェイの森 / There She Goes #44

今週のお題「自己紹介」 

ボイジャー

ボイジャー

 

彼のことをどう紹介したら良いものだろう? 差し当たってこの文章を書く人間は自己紹介をするにあたって彼のことを書くしかないわけだが、彼がどういう人間なのか何処から切り崩していけば良いのか分からないでいる。そもそも彼を語るにあたって特筆すべきどんなことがあるというのだろうか。

差し当たって書けることと言えば、彼は本を好んで読む。だが彼は読書家ではない。勉強家というわけではなく、ただその時その時に読める本を読んでいるだけなので読めていない本は山ほどある。今読んでいるのはマルセル・プルースト失われた時を求めて』で、この本を読みながらW・G・ゼーバルトアウステルリッツ』を読み直したくさせられてしまう。幼年期に浸りたくなったということなのだろうか。彼は音楽を好んで聴き、そして映画を観る。その合間に仕事をしてそして食事を摂る。彼の行っていることと言えばそれだけだ。  

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 

発達障害者と診断されて十年になる。長い年月だった。辛い人生だった。三度オーヴァードーズを行い、一度は死の淵まで行った。どん底を見たと思った。風呂にも入らず、酒浸りの日々……そんな日々から遠く離れたところに彼は居る。今の仕事の中で自分を解放することを目指して、彼は彼なりに働いている。

厳密な言い方をすれば、とある異性に対して彼は特別な感情を抱いている。それが「恋」なのかどうなのか、そんな感情を抱くようになってから一年が過ぎようとしている今となってみても分からない。それはただの好奇心や下心に過ぎなかったのかもしれない、と今になってみれば思う。スティーヴ・エリクソンの小説の登場人物の抱くような、あまりにも稚拙で幼稚な恋心……彼女を知るようになってから、彼女に対する幻想は薄れたように思う。だが、彼の中で彼女をもっと知りたいと思う気持ちは揺るがない。これは一体どういうことなのか、彼にも分からない。

このブログで彼が――いや、厳密には彼ではなく私なのだけれどここでは取り敢えず「彼」と呼ばせて欲しい――綴っていることはそんな彼の拙い感情の揺れ動きだ。そんなものにどんなニーズがあるというのか彼にも分からない。もっと有用な情報を得たい人はここから先は読まなくても良い。彼が提供出来ることと言えば自分語りだけだ。例えばW・G・ゼーバルトを読んだり、ライナー・マリア・リルケを読み返したりして楽しんだというようなこと……彼のこと。差し当たって彼が差し出せるのは廣瀬純の言葉を借りれば彼の中で消化された「クソ」としての文章だけだ。

何故本を読むのかと訊かれれば答えづらい。幼い頃から読書家だったわけではない。彼が初めて夢中になって読んだのは中学生の頃スティーヴン・キングスタンド・バイ・ミー』で、その後村上春樹ノルウェイの森』を高校生の頃に読み耽った。二十回は読み通したのではないかと思う。そして当時読める作品は手当たり次第に読みまくった。今となっては何処が良かったのか分からないが、村上春樹を読んだ経験は今の彼の文章にも活きているのではないかと思う。もっとも、今では『騎士団長殺し』さえ読まないのだけれど……。

話を戻せば彼にとって本は単にヒマ潰しの対象として、つまりなにを語り掛けても親しく聞いてくれた友としていつでも居てくれたということなので、本に淫してしまうのだった。淫してしまう……読み方を変えれば本を読むということは彼にとって「淫」らなことでもある。そこではあられもない欲望が肯定される。どんな暴力的な欲望もどんな稚拙な願望も……全てが本の中では肯定される。だから本を読み耽ってしまうのだろうと思う。今まで読んだ本の冊数を彼は数えていない。数に意味なんてない。読書量を誇る読書を彼はあまり好まない。

マルセル・プルースト失われた時を求めて』の研究書である芳川泰久『謎とき「失われた時を求めて」』を読み終え、また『失われた時を求めて』の読書に浸りたくなってページを繰る。長い中断を挟んだからスジなんて覚えていない。だが、プルーストの筆致は読ませるものがある。多分何処から読んでも良いような本なのだろう。『失われた時を求めて』を読むのは究極の時間の無駄遣いなのではないかとも思う。それで一文の得もしない。教養が身につくというわけでもない。ただ、楽しい。それだけで充分ではないだろうか?

明日が来ればW・G・ゼーバルトを読みに図書館に行こうかなと彼は考えている。彼の本を巡る旅に終わりはない。結局のところ人生はその日その日をどう生きたか、それだけではないだろうか? 金井美恵子の小説でも語られていたではないか。「なりゆき」に任せて……老後のこととか特に考えず、今出来ることを、今行える最高のパフォーマンスをやるだけ……それで全てではないだろうか。そう考え、今日も彼はマッシヴ・アタックを BGM に「花咲く乙女たちのかげに」を読み耽り、仕事をこなしたのだった。明日のために……。

グルーヴ・チューブ / There She Goes #43

ヘッド博士の世界塔

ヘッド博士の世界塔

 

廣瀬純 『蜂起とともに愛がはじまる』の読書が捗らない。戯れにアントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』やニーチェ善悪の彼岸』、舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』などを手にしてみるのだけれど、やはり活字が頭に入らない。諦めて黒沢清『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観た。そのようにして一日を終えた。

やることも失くなったので丹生谷貴志を読み返すーー。

しかし、ビシャにおいて構図は変容する。わたしたちの体は刻々と死んでゆく微細な組織、細胞(そして思考)の集合体に他ならない。身体は死に抵抗する組織ではなく、速度の違う無数の死によって組織された「過程」に他ならない。生体は死に抵抗し、そして最後にはそれに敗北することになるだろう弁証法的戦いの大地ではなく、無数の死の偏差によって組織された崩壊の過程なのである。

ーー丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』

……二十代の頃に何度となく読み直した文章。ここに例えばフリッパーズ・ギター「世界塔よ永遠に」の「僕はゆるやかに死んでゆく」「言葉などもうないだろう」という歌詞をつけ加えたくなる。彼らは死んでゆく……いや、逆かもしれない。今まで生きていたのだ。なにはともあれ(ソウル・サヴァイヴァーの逆襲!)……今まで生きていた人間が、ある日突然倒れて帰らぬ人となる。それだけ……その死をしかし嘆かず、またメロドラマ化することもなく引き受けること。ドゥルーズの死生観とはそんなものではなかったのか? いや、即断は出来ない。彼はドゥルーズを読んでいないのだ……。

心臓がドクドクと脈打っているのを感じる。温かい魂がここにある……この心臓が止まってしまえば同じなのだ……ある意味では自ら死を選んだとも思われる車谷長吉の死を思い、アパルトマンから飛び降りたドゥルーズを思い、自殺で亡くなった人々の死を思う……彼自身もまた自殺を選ぼうとして死に切れなかった人間なのだ。彼の前にも今まで生きていたの壁が立ちはだかる……「壁」? こんなことを書いてしまうのは廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』で引かれるゴダールの言葉が影響しているのかもしれない……「一〇時間ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくることになります」……。

『壁』と言えば安部公房なのだけれど彼はあいにく安部公房を読んでいない。だからここで思考は止まってしまうのだが……そしてひと息。この瞬間にも彼は自分の身体が「刻々と死んでゆく」のを感じる。好きな歌詞を借りれば「Dust To Dust / Ashes To Ashes / Soul To Soul」……無秩序だったものが仮初めに秩序を得て、また無秩序へ戻って行くだけ……そう考えれば生きることは幾分かはマシになるのではないだろうか? 「人生ってやつはウィニー・プーだけのマグカップ・コレクション/独り善がりの Fun Fun Fun」……。

あらゆる人々は今まで生きていたのだ。たまさか……それは善意に依ってかもしれないし悪意に依ってかもしれない。慈悲に依ってだったからかもしれないし無念に依ってだったからかもしれない。ここで小泉義之『弔いの哲学』を引きたくなるのだが、無秩序な引用も悪ノリが過ぎるとお叱りの言葉もあるかもしれない。彼女も今まで生きていた。そしてこれからも今まで生きていたを続けるだろう。ずっと……そこで奇蹟のように(いや奇蹟そのものと言うべきか?)彼と彼女の人生はクロスしたのだった。今まで生きていたことがもたらした僥倖!

そう考えると、人生捨てたものではないということが分かって来る。今年もまた桜が咲き桜が散る。知られる通り桜の花はそれ自体はひとつとしては決して大きなものではない。ミクロな花が、花弁や雌蕊や雄蕊が連なることに依ってひとつの巨大な集合体を生み出している。文字通りのミクロコスモス……私たちひとりひとりの人生、そしてそれが集合して織り成す世界もまたミクロコスモスだ。そこで人々は不意に出会い、そして別れ、そして恋をして、恋に敗れて、夢を懐き、夢を諦めて、そして生きて行くのだろう。そこにどんな過剰な意味をも見出さず認めること。その勇気……それこそが彼には必要なのだ。

……とまあ、冗言はこのくらいにしておこうか。見つめ続けたことと言えば、差し当たっては死であり今まで生きていたという事実である。『散歩する侵略者』……いや黒沢清作品が死や今まで生きていたを淡々と描き続けるように、彼もその世界のデタラメさを見つめてここまで辿り着いた。それだけのことなのだ。彼の人生と彼女の人生はこれからどうクロスするのか分からないが、お互いの今まで生きていたが実り多いものになれば良い……(≧∇≦)b そんなことを考える。