There She Goes

小説(?)

ONCE AGAIN / There She Goes #28

マニフェスト

マニフェスト

 

彼は今年で 42 歳になった。世間一般の四十代と比べると随分違った人生を歩んでいるものだと思う。年収は百万円台。その代わり随分ヒマな人生を歩んでいる……これはしつこく書いた通りだ。世の中働き過ぎて死ぬ人も居るのに自分と来たら……と書くと彼女は「また自分のことをボロクソに書いている」と呆れるだろうか。しかし罪悪感は消えることはない。メンタル面の問題を抱えて、それに加えて発達障害という重荷を背負って生きているのだけれど、これで精一杯だと思う反面もっと働ければと思うこともある。長時間労働を目指して頑張っているつもりなのだけれどなかなか上手く行かない。

なにかのウェブサイトで読んだのだけれど、発達障害者で働けているという人は――一般就労のみならず、作業所で働いているという人も入れても――四割だという。六割がなにもしていない。まあ、ニートか引きこもりか精神疾患かいずれかの理由で働いていないのだろう。しかも四割も安泰かというとそうではない。離職率が高い。キャリアが点々として続かないのが発達障害者の特徴となるらしいので、彼のように一箇所の会社で二十年近く続いている人は珍しいというのである。その言葉に甘えてしまって酒に溺れてダラダラと過ごしていた時期のことを考える。そんな自分が恥ずかしい。

過去は取り戻しようがないので「今」を生きるしかない……そう思い、やり直しの効かない人生だからこそ「今」を一生懸命生きているつもりだ。出来るだけのことをやろう……「今」最高のパフォーマンスを出せているか、「今」出来る限り沢山の本を読み映画を観て、仕事をしているか。それが未来を形作る。そう思い、たった五時間の仕事を完全燃焼する勢いでこなしている。そしてヒマが出来た場合その時間を映画や本に当てている。ムダにはしたくない。だから「今」という時間を満喫しているつもりで居る。将来のことはあまり考えていない。

政権は自民党が握るらしい。多分彼を待っているのは老後も年金生活なんて遠い夢の話になるのであって、年老いても働かなくてはならないようなそんな未来なのだと思う。それについて考えると暗澹としてしまうのだけれど、例えばフランク・ダラボンショーシャンクの空に』でアンディが頭の中のモーツァルトを鳴らして刑務所生活を乗り切ったように彼の頭の中にもプルーストが入っていればそれだけで人生捨てたものではないのではないかと思っている。あるいは舞城王太郎でも良いし阿部和重でも良いのだけれど、そういう作家たちの優れた本が入っていればそれで乗り切ることも出来るのではないか、と……。

彼女のことを話しただろうか? 彼女は彼が住んでいる町でいずれ起業するつもりらしい。彼も彼女の会社で働くことが出来れば……そうとまでは行かなくても彼女となにか出来ればと思っている。彼女とは LINE の連絡先やメールアドレスを教わったので、彼からなにかアプローチが出来ればと思っているのだがなかなか上手く行かない。いずれにせよ、未来はどう転ぶか分からない。去年の彼は彼女と出会うことなんて想像もしていなかったし、彼女との出会いが彼をこんなにも変えることもシェアハウスのことも想像していなかった。これだから人生は分からない。

彼は自分の人生のことを考える。さっきも書いたように 42 年の人生を生きて来た。振り返れば子どもの頃から彼は自分が進歩していないようにも感じられる。俗に言う「42歳児」……幼稚園や小学校時代から彼は変わっていないように感じられる。大人になりそこねた、幼稚な人間……子どもの頃の延長上で本を読んだり音楽を聴いたり、あるいは四十代になってから映画を観たりし始めたりしているのだけれど、こんなになにも変わらない人生で良いのだろうかと思ってしまう。立ち居振舞いは変わったのかもしれないが、本質は変わらないままだ。

遥か昔、四十代は自分にとって手が届かない位置にあった。自分が四十代まで生きることを想定していなかった。四十代半ばで酒に溺れて死ぬのだと思い詰めた時期もあった。今はそんなことは考えていなくて、差し当たっては生き直すつもりでシェアハウス暮らしを始めているのだったが、むしろ人生はこれから始まるのではないかという気さえしている、もう高度成長期やバブルの時代は終わった。右肩上がりの人生なんて続かない。彼はもう若くないが、人生における可能性はむしろ広がったような気さえしている。なりたいものにはなれないだろう。だが、高望みさえしなければまだまだ生きられる……。

子どもの頃、彼は大人になるということがどういうことなのかイメージ出来ていなかった。「なりたい職業を書きなさい」と言われてもなにを書いて良いのか分からなかったので「お父さん」と書いて笑われた思い出がある。今は大人になってしまったわけだが、「大人になった」と言えるかどうかと考えると甚だ心許ない。もしかしたら彼は今でも子どものままの、外見だけが中年男になってしまった人間なのではないかと考えることがある。いつまでも若いつもりで居るというのも考えものだ。年相応の振舞い方というのもあるのだろう。彼はしかしそれを身につけられていない。

台風の夜。彼は夜中に起きて映画を観始める。オリオル・パウロ監督の『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』という映画だ。そしてそれにも飽きて来たので一旦中断してこの小説(?)を書いている。枕元のランプを買わなくてはならないなと思いながら……あとペイヴメントの『クルーキッド・レイン』のデラックス・エディションを実家から持って来なくてはならないなと思いながら。これまでの人生はこれまで。限られた選択肢の中を精一杯生きて来たから今がある。だから今からは悔いのない人生を精一杯生きようと思う。自分の人生のルールは自分で作る……そう思いながら。

ヒマの過ごし方 / There She Goes #27

WILD FANCY ALLIANCE

WILD FANCY ALLIANCE

 

世の中働き過ぎて死ぬ人も居るのだ。そして彼は働き過ぎていない。鬱だった頃に――というか今でも基本的に――こんなにヒマに過ごしていて良いのかと考えたことがある。当然年収/月収はそれなりで、シェアハウスの家賃とスマホ代を払ったらそれでだいぶもぎ取られてしまうので贅沢な暮らしなんて出来ないのだけれど、他の人が喉から手が出るほど欲しいであろう「ヒマ」は手に入れられている。彼からすればやり甲斐のある「仕事」が欲しいところなのだけれど、そんなものは手に入れられていない。だから彼は今日もヒマな一日を過ごした。

彼はヒマをかつて酒で潰した。そして今は酒に逃げることも出来ない。ある時から彼はヒマを自分のやりたいことで潰すことに決めた。やりたいこと……幸か不幸か彼が住む地域はど田舎なので娯楽施設はない。パチンコ屋とカラオケ店くらいしかない。そして彼はカラオケにもパチンコにも興味がないので、そういう手段でヒマを潰すことは出来ない。だからカネの掛からない娯楽といえばインターネットやスマホに触れることと、あとはレンタルした DVD やネット配信で映画を観たり、図書館で借りた本を読んだりすることくらいなのだった。

自分のやりたいこと……だから彼は本を読むのだった。それが立派な行為だからという理由でそうするのではない。教養を身につけるための読書を行うというのであれば彼はとっくの昔にプラトンソクラテスを読んでいるだろう。あるいはニーチェドストエフスキー漱石や鴎外を……しかし彼はそうしない。いや、出来ないのだった。彼の頭の中に入る活字というのは極めて限られた/マニアックなものなので、だから今の彼の頭の中に入るのはマルセル・プルースト失われた時を求めて』なのだった。読んでいて癒される……これは前に書いたことだ。

プルーストを読む……それも立派なことだから、見栄を張りたいから、教養を身につけたいから読むのではない。そうするしかないし、あるいはそうしたいから読むのだ。プルースト失われた時を求めて』を読んでいると脳内から心地良い物質が出て来るから読むのだ。もっと心地良い快楽を得られる手段があるとすれば彼はゲームに手を伸ばすだろうし、あるいはまた酒に逃げることも出来るだろう。だが、そうはしない。あるいはそんなことは「したくない」。これは純粋な快楽追求の問題であって、チンケな見栄の問題ではない。

かつてヒマでヒマでしょうがなかったことを嘆いたら、「そんなにヒマならトルストイを読めば良いじゃない!」と叱られたことがあった。彼もやってみようと思った。漱石を、鴎外を、ドストエフスキートルストイを……だが出来ないのだった。彼は音楽を好んで聴くが、実を言えば彼はビートルズのオリジナル・アルバムを聴き通したことはないのだ。どうしても脳が苦痛を感じてしまうのだった。鈍い退屈しか感じられないので、通して聴けない……しょうがないと諦めるべきなのだろう。これも彼の「個性」「特性」と関係があるのだろうか。

彼はそのせいで不勉強を指摘されることもある。だけれど、出来ないものは仕方がない。生き方がこの年齢になってしまうともう頑なになってしまって柔軟に変容させることは出来ないようだ。そして、肝腎な点はそれを誰も責めてなど居ないというところである。いや、かつてはそういう不勉強を指摘する人間ともつき合っていたこともある。自分の不勉強を克服するため……しかし、どうしても、どんなに努力しても出来ない。何度挑んでも出来ない。これはもう努力でどうにかなる問題ではないと思い、諦めている。読める時が来れば彼はいずれ、かつてどうしても読もうとして読めなかったプルーストを今読んでいるようにトルストイを読めるようになるのだろう、と。

だから、彼の知識はかなり偏っている。それに対して劣等感や自信のなさを感じることもある。カズオ・イシグロも読んだことがないし……手持ちの乏しい知識を飛び道具的に用いることで格好をつけているだけであって、彼は自分が教養があるとか学識が豊かだとか思ったことは一度もない。知っていることより知らないことの方がいつだって多い。それが彼の、彼に与えられたオンリーワンの人生なのだろうと思っている。誰も彼の人生を生きることなど出来ないのだから。彼は不思議な人生を、数奇な人生を生きるしかない。

前にも書いただろう。こんなにも引きこもりやニートが溢れている時代、親元から自立せず、しようともせずに「働いているだけで立派ではないか」と格好をつけていた時期があったということを……今はシェアハウスに住んでいるのでその格好に多少は箔がついたと言うべきなのかもしれない。そして、今では誰も彼の人生を責め立てる人間など居ない。だから誇っても良いはずなのだ。彼は一応は自立に成功したのだから。長く目指していたスタートラインにやっと辿り着けたのだから……ここからは全てが初めて、なにもかもが初体験だ。

自虐はもう止めよう、と彼は思う。だがしかし、例えば Twitter のタイムラインを見ていて日本人が働き過ぎていることがトピックに挙げられるのを見てしまうとやはりヒマであることに罪悪感を抱いてしまう。そんな罪悪感を拭い去ることはなかなか出来ない。彼女に相談すればこの罪悪感は治まるのだろうか? そう言えば、彼は太宰治も読もうと思って『人間失格』を読み、何処が面白いのかさっぱり分からなくてそれ以来読んでいないのだった。三島も読んだことがない。読んだことがない作家ばかり……そんな偉大な作家たちを放ったらかしにして――と書くとむろん失礼なのだが――金井美恵子吉田知子を読んでいる。それが彼の人生だ。

私の心を癒やしてくれる音楽と本について / There She Goes #26

今週のお題「私の癒やし」 

BEATLESS ?shoegazer covers of THE BEATLES-

BEATLESS ?shoegazer covers of THE BEATLES-

 

Amazon Prime Music で日本のシューゲイズ・バンドの Meeks が、ビートルズの名曲をカヴァーしたアルバム『Beatless』を聴くことが出来る。Amazon Prime Music ではこれまで YouTube で違法で聴いていた South の「Bizarre Love Triangle」を聴けるようなので、大手を振ってこの曲を聴いていることを宣伝出来るわけだ。それで、もうすっかり馴染んでしまったシェアハウスの環境で彼はこの Meeks のアルバムを聴いている。下手な文章で紹介するよりは実物を聴いて貰った方が早いのだろう。そういうわけで Meeks の「Let It Be」を――。


Let It Be - MEEKS

メロウでメランコリックでスウィートな音楽。例えばミッシェル・ガン・エレファントブランキー・ジェット・シティみたいにトゲトゲしい音楽ではなく(彼らの曲に癒やされることもあるのだけれど)、フィッシュマンズや前述した Meeks や South といったバンドに彼は癒されるものを感じる。あるいは Jam City の音楽にも――。


Jam City - Unhappy (Official Video)

音楽の話はこれくらいにしようか。シェアハウスの話はまだ書いていなかった。彼はシェアハウスに住むようになってもう一週間くらい経つ。一度か二度実家に精神障害者保健福祉手帳を取りに帰ったとかそれくらいで、あとは基本的にシェアハウスで寝泊まりしている。軽蔑されるのを覚悟の上で彼のことを書こう。

彼は今の職場に非正規雇用者として勤務している。非正規雇用者……と書いて、この言葉の座りの悪さに彼は戸惑う。ここからして――多分彼女からすれば――彼は自虐的に過ぎるのだろう、と。勤務時間は一日五時間で、月百二十時間仕事をしている。月収は十万円程度。それなりの勤務でそれなりの収入を得て仕事をしている。

だから、正直なところ彼はヒマである。普通の人間のように一日八時間/週五日勤務で働いていないことに劣等感を抱いている。今のところ実家を出て――とは言っても基本的なところは親にも援助して貰っているが――暮らせているわけだが、彼はまだまだ自立出来ているとは言い難い。勤務時間はもう少し伸ばして貰えるように頼んでいるが、それが叶うかどうかは分からない。今の勤務形態で副業を請け負うなり、ヒマを活かして慎ましくレンタル DVD を借りたりネットで映画を観たりして優雅に(?)暮らすのも悪くないかなと思っている。

彼女から「貴方のことをボロクソに言っているのは貴方だけだと思います」と言われたので、なるべく彼は自虐的なことを書くまいと考えているつもりだ。そして、嘘偽りのないことを書こうと思っている。彼はある時期まで親元を出られなかったことに強い劣等感を抱いていた。それはようやく実現したわけだが、この暮らし自体いつまで持つか分からない。文庫本一冊すら高価くて買えない暮らし……まあしかし、これらは今の世の中良くある話なのだろうと思う。慎ましく、そして豊かに。ある意味では彼はリアルを彼なりに満喫出来ているのかもしれない。

今日は病院に通院した。先生は出張でお休みだったので、別の先生と話をしてそして帰った。あと不在者投票にも参加して――明日は天候が荒れるので――それで一日を潰した。最近彼は活字が頭に入らないので映画を観ている。一日一本のペースで……ヒマだからこそ出来ることだ。それに対して罪悪感を抱いている。もっと働こうと思えば働けるのに……しかし、と彼は思う。彼の罪悪感を責め立てる人間は実は居ないのではないか。誰も彼のことをクズだなんて思わないだろう。いや、思う人間は Anonymous に居るのかもしれないが、公でそう言う人は居ないだろう。これから現れるのかもしれないが……。

引きこもりやニートがこれだけ多い時代、自分は一日五時間「一応」働いているのだから立派ではないか……そう自己正当化を図って酒に溺れていた時期を考える。病的な呑み方……彼は結局快楽を感じられることしか出来ない人間なので、今の仕事も苦痛と言えば苦痛なのだけれどその中に快楽を見出そうとして動いているところがある。苦痛を如何にして楽しむか。楽しいことならどんな苦痛なことでもやる……その意味では彼はマゾヒスティックなのだろうと改めて思う。彼は人よりは多くの物事を知っている方に入るのかもしれないが、それは彼が勉強家だからではなく、そうするのが楽しいからであり他に理由などない。映画を観るのも結局そうしたいからするだけだ。それが楽しいから……。

彼女の中にサディスティックな側面を見出し、改めて彼女のことを好きになってしまった。彼は最近またマルセル・プルースト失われた時を求めて』の読書に耽るようになった。完読を目指しているわけではない。読んでいる間至福の時間を味わえる本として『失われた時を求めて』に勝るものはなかなかないのではないか。彼自身は読み終えたことのない本だが、今は岩波文庫版で吉川一義訳で読んでいるのだけれど読んでも読んでも手が止まらない不思議な書物だと思っている。むしろ終わってはいけない小説……「私の心を癒やしてくれるもの」のひとつに、その『失われた時を求めて』を入れても良いのかもしれないなと彼は思っている。

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

 
失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)

失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)

 

スターゲイザー / There She Goes #25

Dream A Garden [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC460)

Dream A Garden [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC460)

 

自分がどうなりたいのか分からない……それが発達障害者の中でも取り分け受動型と呼ばれる人間の特徴である。彼はそれに該当する。彼は自分が空虚に出来ていることを感じる。彼の身体/脳を構成しているのは他人の言葉である。彼は彼に向けられた自己評価を彼自身の自己紹介にしている。逆に言えば彼は彼を語る如何なるオリジナルな言葉も存在しない。彼自身から生まれた言葉はない。ジャック・ラカンの概念を使えば人間の無意識は言語に依って構成されているというが、そこにもうひと言つけ加えるべきだったのかもしれない。彼の無意識は他人の言語に依って構成されている、と。

今日彼女と会うことが出来た。二ヶ月この機会を待った。二ヶ月の間考えていたことを語った。彼は情動に任せて動く人間なので論理で物事を考えない。情動が、ワケの分からないものが彼を動かす。その意味では彼はフランツ・カフカに似ているのかもしれない。カフカはしかし偉大なユーモリストであったけれども、彼自身はどうだろう。彼はユーモアはあるだろうか。分からない。ただ、彼は自分を見つめてこのように観察して描くだけだ。それがなにかを生むというのであればそれで良いし、そうでなくても構わない。

彼女に告白して、彼女の返事を聞き出そうとした。返事は聞けなかった。彼女は恋愛を論理で考える人間なので、いきなり彼の言葉、情動から出て来た言葉を聞いてもワケが分からなかっただろう。ひとまず彼は自分の持てる知識を総動員して言葉を並べた。彼女はざっくり言えば理系の人間、科学的にアプローチをする人間なので文系の彼、情動からワケの分からないままに突き動かされるがままに動く彼を理解することは難しかったに違いない。観て来た映画や聴いて来た音楽、読んだ本について、乏しい知識を全て並べた。

初対面に近い彼はこのようにして醜態を晒した……と書くと、このような自虐を彼女はどう思うだろう。彼は自分の自己評価を低く見積もっている。彼は自分がなんらかの意味で「通」であったこと、「マニア」であったことはなかったと思う。これからもないだろう。彼は結局白鳥になれない醜いアヒルなのだ……と書いてしまうのが彼の悪癖だ。普通なら恋する(?)相手に対して自分を高く売り込むものなのだろう。それが出来ないのだった。それで良いじゃないか……彼女ならそう言うかもしれない。そういう人が居ても良い……。

頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んだことを思い出す。カフカもまた恋人に対して自分を低く売り込んで、そのくせ積極的にいきなり近く自分をアプローチさせた人間だったのだ。そこでシンパシーを感じる。読み返してみようかと思う。あるいは、今の彼はまた新しい形で苦悩を抱えているのだからドストエフスキーが身に沁みるかもしれない。ドストエフスキーは『罪と罰』を読んだ。『白痴』を読んでみようか……ドストエフスキーの『罪と罰』で狂った情動に突き動かされる男たち(それに反して、ソーニャのなんと清らかなことか!)の姿を思い出す。

自分のことを彼は結果としてボロクソに言ってしまい、なにもそこまでと彼女に呆れられたのだったが、ともあれ彼は成功したのかもしれなかった。最後に彼は、彼女のことをSではないかと睨んだ。残酷に容赦なくしかし優しく(いや、残酷さと優しさは両立するものかもしれないが)彼女が放つ言葉が胸に突き刺さったのだった。だったら、生きた時から苦行を背負わされてそれを快楽に変換させることで生き延びて来た彼にとって相性は合うのではないかとも思ったのだった。それを話すと彼女は崩れ落ちて笑った。言って良かった言葉なのかどうか……ともあれ彼は言ったのだ。

シェアハウスの新しいパソコンで彼はこの文章を書いている。火花が散るような、刃と刃がぶつかり合うような会話のあとに彼は放心状態になってしまった。なにも手につかず、本来ならひと眠りしたら良いのかもしれないくらいに脳が疲れてしまった状態で Jam City 『Dream A Garden』を聴いている。やったことと言えば Twitter でタイムラインを眺めたことくらいだった。国政が動く選挙の話題で賑やかなタイムライン。だが、彼は選挙がいつ行われるのか知らない。彼の知識なんてそんなものだ。威張れたものではない。

結局彼はその会話のあと放心状態になったまま近所のスーパーで夜食を買った。そしてそれを食べた。そして今に至る……彼が晒した醜態を彼女はどう思うだろう。それとも彼女は Jam City を聴いてくれているだろうか。彼は彼女に『Dream A Garden』を薦めたのだった。思い込みが激し過ぎる……反省している。それがしかし彼を突き動かす原動力なのだとしたら、恥じることもないのかもしれない。そんな人間が居ても良い。彼女ならそんな事実を再確認して終わるだろう。それで良い。彼もそうなのだと思っている。

誰かにとって特別な人間でありたい……彼が結局満たされなかったのはそんな願望であることに気がつく。しかし誰にでも「特別な人間」であって欲しいとは思わない。彼女にとって「特別な人間」であれば……だが、それは結局無理だったようだ。彼は図々し過ぎて嫌われたのかもしれないし、あるいはこっちの方がありそうな可能性が高いのだが「そういう人」と見做されたのかもしれなかった。「そういう人」、そしてそれだけの人……そうだとしたら、そこに好きも嫌いもない単なる無関心があるだけなのだとしたらそれは失恋よりも残酷ではないだろうか。

手が届かない星を求めて、船から手を伸ばし海に落ちた男……李白がそのようにして亡くなったのではなかっただろうか。彼も同じ愚を犯したのかもしれなかった。自爆……いや、「自爆」と捉えるその感覚も彼女は無駄な自虐と捉えるのかもしれないと彼は思った。だというのなら、そしてそれで良いというのであれば、それで良いのかもしれない。しかし、納得が行かない。彼は常に彼であることに居心地の悪さを感じ、情念が突き動かすがままにこの言葉を並べ立てている。彼は多分一生手が届かない星を夢見る男なのだ。彼がどんな高みに立っているか知らないままに。

話して尊いその未来のことを / There She Goes #24

Strange Fruits

Strange Fruits

 

彼は明らかに異常なのだろうと自分のことを考える。ど田舎で四十代で未婚で親と同居(近々出て行くつもりはあるが)、年収百万ちょい……そして取り憑かれたように本を読みまくる日々を過ごしている。まともなカタギの勤め人とは全然違う。彼が結婚を本格的に考えるとなるとその意味ではかなり苦労するのだろうし、だから結婚もなにもかも諦めて独りで死ぬつもりで生きて来た。その日が楽しければそれで良いと思い、酒に溺れて来た。今、彼はとある出来事が切っ掛けとなって酒を止めているのでそんな未来は取り敢えず回避出来そうだ。

そして、彼女のことを考える。今日 LINE で彼女の母親から彼女の様子を聞いた。精神的に不調で会社にも行けていないらしい……そう聞くと彼女のことが心配になって読書が手につかなくなってしまう。なにを読むべきか迷い、舞城王太郎『深夜百太郎 出口』を手にするも捗らない。また活字が頭に入らなくなってしまったようだ。しょうがないので夕食後彼はうたた寝をしてしまって、そして目を覚ましてこのテキストを書いている。彼女とは日曜日会うことが出来たはずなのだけれど、台風が来るので無理っぽい。彼女にメールは送ったものの、無理な返信は不要であることを彼は伝える。

彼にどんな未来が訪れるものか彼自身には分からない。こんな時代はかつてなかったからだ。北朝鮮からミサイルが飛んで来たり、未曾有の景気を――彼は経済音痴なので今が好景気なのか不景気なのかも知らないのだが――体験したり、彼のような発達障害者への支援が高まり研究が進んで、千葉雅也や國分功一郎といった論者が発達障害について語る時代……そんな時代を彼は知らない。今が戦前に酷似しているというのは辺見庸『1★9★3★7』を読んで知っていたつもりなのだが、しかしこれからのことなんて一体誰に分かるというのだろう?

彼女のことを性的対象として捉えるつもりはない。彼女とエッチが出来たら……なんてことは考えない。それはこれまでも散々書いたことだ。彼の性癖はこじれていてそれもあって彼は自分のことを異常だと思っているのだけれど、変態呼ばわりされて喜ぶ趣味は彼にはないのでつぶさには語るまい。ともあれ、彼女は彼にとってアンタッチャブルな存在であることを書いておけば良いだろう。彼女から感じられるオーラが今度は剥ぎ取られて、まともに直視出来るようになっていれば良いな……そう彼は思う。考えはこうして堂々巡りを始める……。

彼女が自分のことをどう考えているのか、彼は気になる。彼に宛てて送られたメールでは自分のことを一アスペルガー症候群として捉えているということなので、あまりそういう考えを固めてしまうと罠から抜け出せなくなるのではないかと返事を書いた。もう書いたことだが、ひとりひとりの「差異」がありあるいはアントニオ・R・ダマシオ的に言えば「情動」、もっとざっくり言えば自分は他の人とは違うという直感や自覚が先行してあって発達障害やその他の「アイデンティティ」はそれに続いてやって来るものなのではないか、と思ったのだ。

難しいだろうか。要は「みんなちがって、みんないい」なのだ。彼と彼女も発達障害者として結ばれているかもしれないし、それどころか日本人として、あるいは地球人として結ばれているのかもしれない。しかし、彼と彼女は違う、相互に異なるところがあることを認めて「ひとつ」にはなれないことを確認するのも大事なのではないかと思うのだ。例えば千葉雅也『動きすぎてはいけない』が教える通り、生成変化するにあたり『動きすぎない』というのは、過剰に自己破壊し、無数の他者たちへ接続過剰になり、そしてついに世界が渾然一体となることの阻止である」……。

彼女は『新世紀エヴァンゲリオン』を知っているだろうか、と彼は考える。旧劇(という言い方で良いのだろうか?)の劇場版でひとりひとりが液状化し溶け合う世界を彼女は知っているだろうか、と。自分も相手も居なくなって液状化してしまった世界……『新世紀エヴァンゲリオン』には問題も多いとは思われるもののなにはともあれそうしたヴィジョンを見せたことは成功であることは疑わない彼は、相互に異なることの重要さを知って欲しいと思う。分かり合えないことの尊さ……それを知って欲しい、とも。そして、彼が関心を持っているラカン精神分析にも思いを巡らせる。だがこれについては更に考えを煮詰めることが大事だろう。

ここまで書いたことを彼は読み直す。前に書いたことを焼き直しているようでもある。一ヶ月、彼女と会ったあとにこの小説を再開しても良いのだろう、とも。それまで考えは迂回し続けるだけだ……あるいは彼女からメールの返事が届いたら、それを読んだら励まされるのではないかとも思う。もしくは絶望するか……いずれにせよ今はここで考えが止まるので、進展があるまで彼は彼のやり方で生きる/サヴァイヴするしかない。未来のことなんて誰にも分からない。だから彼は今日を大事に生きようと思う。そして今日も酒は呑まなかった。

昨日は断酒会に行ったのだけれど、断酒会に行けば酒が「やまる」のを感じる。「やめる」のではなく「やめさせられる」のではなく、「やまる」……雨や雪が「やまる」ように収まる。不思議な力があるものだと考えてしまう。これを國分功一郎は「中動態」と呼んでいたのではなかっただろうか、と彼は考える。意志ではないなにかが統率する言葉、能動でも受動でもない「中動態」……人との関係は不思議な力をもたらす。だが、それは果たして進歩なのか衰退なのか、病理を拗らせているのか治療に向かっているのかは誰にも分からない……。

ふとここで一極聴きたくなる。だから Chara を聴こうと思う。「話して尊いその未来のことを」だ。高村光太郎が書いたような歌詞を歌う Charaシューゲイザー的なサウンドに彼は陶酔感を覚える。この続きを書くのが明日になるのか一ヶ月後になるのか、それは彼にも分からない。

戯れてるだけ 空の下で / There She Goes #23

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

 

ジル・ドゥルーズ論として知られる千葉雅也『動きすぎてはいけない』という書物を彼は二日掛けて読んだ(また読書が捗るようになって来た)。とは言え彼はフランス語はおろか英語すら出来ない体たらくなので――英文学を学んでいたのに!――この本の内容を何処まで読み込めたか甚だ自信がない。様々な話題を詰め込んだ本なので必ずしも一面的に「こういう本だ」と受け取るのは賢明ではないのだろう。読むごとに姿を変えるような、鵺のような本……久々に面白い本と出会ったと彼は興奮してしまった。いずれ再読することがあるだろう。

この本の読書で興味深い箇所を見つけてしまった。それはドゥルーズフェミニストたちに対して女性「である」ことにこだわるのではなく「同一性から逃走」することを薦めたことに依って顰蹙を買った、というエピソードだ。この箇所を彼は自分の過去と結びつけて読んでしまった。彼自身自分が発達障害者であることに拘泥していた時期があった。今のように発達障害がホットなトピックではなかった時代だ。生きづらさを解決させるための唯一の概念……それに縋るしかなかったのだ。例えば誰かが「民族性」「性別」「血縁」に縋るように。

今はそんなことは考えていない。発達障害者と定型発達者の間にはそれほどはっきりとした壁がないことが科学的に明らかにされているからでもあるし、拘泥することが逆に生きづらさを増すという逆説を理解したからではないかなとも思う。自分を縛りつけるのが自分である、という……ドゥルーズの例を引き合いに出せば発達障害に囚われない「自分らしさ」(≒「差異」)をこそ、「こうあるべき」という軛から解き放つ概念として説明したということになるだろうか。金子みすゞではないが「みんなちがって、みんないい」と言うべきか。

それからこんなことを考えた。

つまり、障害が障害となるのは他者との関係性に依ってなのである。他者が居なければ、どんな異常な思考/嗜好を持っていたとしてもそれは「異常」とは見做されない。病んでいたって構わない。そのあたりのことを考えると「病んでいない人なんて居るのだろうか?」という厄介で陳腐な問いに立ち戻ることになるわけだが、ともあれ「ビョーキ」はそれ自体単独としては存在せず、他人との関わり合いに依って生まれるものなのだ。だが他人と関わらなければ人はそれこそ生きて行けない。「With Or Without You」。

彼はふと彼女のことを考える。彼女もまた生きづらさを抱えているのだろう。彼女が自分をどう認識しているのか彼には分からないが、彼が軛から(取り敢えず)解放されたように彼女もまた解放されれば良いなとは思っている。そんな話を出来れば……そして発達障害が「ビョーキ」なのではなく彼ら/彼女らなりに秩序を持った言葉を喋り論理を練り上げていることを巧く伝えられればと、最近読んだ『発達障害の世界とラカン精神分析』という本のことを思い出して考える(この本についても今度の集会で語れるとしたら語りたい)。

彼はそれからラカン精神分析について考える。ラカンの解説書を読んでいるところなのだけれど、イマイチ呑み込めていないところがある。だが、こういうことなのではないかと考えているのは基礎的に人は万能な存在ではなく、言葉というワケの分からないものを与えられて――その「言葉」の中でウィトゲンシュタインよろしく認識の限界に辿り着くわけだが――それ以外の手段で世界に触れることを許されない。ラカンは色々なことを諦めろと語っているように彼には思われる。母に愛されたいという欲望、父に認められたいという欲望、世界を体感したいという欲望……全てを諦めろ、と。

我田引水もここまで来るとそれこそ病気だろう。彼は哲学も文学も結局自分の「人生」に引きつけてしか語れないのだった。「自分語り」というやつである。あまり自分のことばかり話す人からは人は遠ざかって行く、と信頼出来る方から忠告されたことを思い出す。まだ発達障害者であることに拘泥していた頃……今のように生きやすくなっていなかった時代の話であり、酒に溺れていた時期の話でもある。まあ、あの当時は祖雨生きるしかなかったのだとこれもまた諦めにも似た境地を感じている。今は今を生きる、それで精一杯じゃないか……。

また彼女と出会える。その時にどんな話をしたら良いのだろうか。彼女はラカン精神分析ドゥルーズの哲学に興味を示すだろうか? 彼は一応彼女の人生の先輩になるわけだが、こんな無様な姿を晒して良いものか……彼は自分の容姿をあまり好きではない。トラウマを植えつけられたことが軛となっているのだろう。解決するには己の病を見つめて、それを分析して学ぶことにある。彼が依存症から立ち直ろうとしているのもまさにそういうことなのだ……と國分功一郎『中動態の世界』を読みながら思う。今の彼は落ち着いている。

また言葉が彼の頭の中に入って来るようになった。それはそれで良いことなのだろうと思う。彼女に語るべき言葉を彼は用意する。用意を整えて……彼自身病んでいる人間として、彼女を受け容れられたらと思う。だが、それは奢りというものではないか……と一抹の不安を抱きながら。

Hybrid Device / There She Goes #22

Hybrid Device

Hybrid Device

 

彼や彼女のような発達障害者は定型発達者と何処が違うのだろうかと考えてしまうことがある。今日気づきを得たのは、定型発達者と発達障害者の相違は WindowsMac みたいなものではないか、ということだった。もっと分かりやすく言えば AndroidiPhone みたいなものではないか、と……外見は同じパソコン/スマホだし、同じようなことが出来る。だが、構造というかプログラムが全く違った方向に機能するので、同じようには扱えない。彼らを繋ぐ「互換性」が必要だ。そして言うまでもないが AndroidiPhone の間に優劣など存在しない。あるのは使い手にとっての相性の良さ、それだけだ。

彼が得た気づきその二。彼女の手紙で読んだことなのだけれど、優生思想は逆に脆弱性を増しやすいという。逆に考えれば――犬や猫を思い出してみれば分かるように――「雑種」こそが淘汰に強いのだ、と……この意見を読んで、彼は自分のことを考えた。彼は自分が左翼であるとも思ったことはない。右翼だとも思ったこともない。リベラルだとも思わないし保守だとも思わない。どんな集会に行っても(もしかしたら発達障害当事者の会に行っても)彼は浮いてしまうのかもしれない。でも、と思う。それは彼が「雑種」である証だからではないだろうか?

彼は年収がここのところどんどん下がっているのを実感している。彼に見合うだけの収入がその程度ということなのかもしれない。稼げない……「底辺」という言葉を彼は嫌う。「底辺」という言葉は今では立派な差別語なのではないか、とさえ思う(だから言葉を狩れ、とまでは彼は思わない。そこに差別の意図があるかどうか文脈を読み取ることと、その言葉自体に差別性が現れているかどうかとは繊細な腑分けが必要だろう)。彼は自分が「底辺」なのだろうと思っているのだけれど、それを嘆いていたって始まらないので前向きに生きるしかないなと考えている。

彼女と三度目のリアルでの出会い。どんなことを喋れば良いのだろう? 三度目……初対面とは言いにくい。渡したスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』について語れば良いのだろうか。彼自身再読が必要だが……本のことを語る? 彼女は小学生の頃に内村鑑三を愛読していたと聞いている。彼は高校生の頃になってやっと村上春樹ノルウェイの森』に手を伸ばした程度なので、「勝ち目がない」と思う……彼は負けず嫌いであると、心理テストを受けた時に心理士に言われたのを思い出す。彼は下手なところで誰かと優劣を競ってしまう、劣等感の強い人間なのだ、と。

音楽のことを思い出す。高校生の頃、種ともこを聴き続けていたせいでフィル・コリンズだとかジョージ・マイケルだとかシンディ・ローパーだとかを聴いていたクラスメイトに散々バカにされたこと……だから彼はマニアックなフリッパーズ・ギターだとかヴィーナス・ペーターだとかを聴き始めるようになって、どんどんコアな音楽ファンになって行って……でも彼の知識は「音楽クラスタ」の方のそれとは少し違う。「映画クラスタ」でもないだろう。多分「発達障害クラスタ」でもないはずだ。彼は自分が何処かではみ出しているのを感じる……。

彼女にも「はみ出している」ところを感じている。彼女の思考が既存の枠に収まり切らないものであることを、彼は愛しく思う。だけれどそれを「個性」なんてちゃちな言葉では呼びたくない。「個性」……だというのであればどんな悪しき属性も「個性」になってしまうのだろうか? 彼が自分が発達障害者であることを持て余して来たように、彼にとっては邪魔でしかあり得ないこの「障害」(世の多くの人は「障碍」「障がい」と書きたがるが、彼は敢えて「障害」と書く)もまた「他者の肯定に依って」許されているような、そんな不遜さを感じるのだ。

とまあ、高校生の頃の虐めの思い出のことだとか不器用だった時代のことだとかそんなことを取り留めもなく考えていたのだった。彼が「個性」という言葉を使うとするならそれはどんな既存の枠組みの中に押し込めてしまっても否応なく目立つものである事柄を意味するのだ。彼らがセーラー服や学ランを着ていても、統一されたファッション/ユニフォームに身を固めていても彼女の「個性」は彼の目を引くだろう。それこそが彼女なのだ、彼女らしさなのだ……彼女がどれだけそれを持て余していたとしても。彼女の生きづらさを、例えばヴィム・ヴェンダースベルリン・天使の詩』の天使のように寄り添って共有することは出来ないだろうか?

ふと、こんな時に思い出すフレーズがある。フィッシュマンズの「それはただの気分さ」という曲だ。「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔のそばにいたい」というフレーズ。彼は「愛している」「I Love You」というような陳腐な言葉よりこんな言葉の方が恋人の心を動かすのではないかと考えている。残酷な歌だ。『新世紀エヴァンゲリオン』で有名になった「ヤマアラシのジレンマ」のような……だけれどもそんな不器用でぎこちない心理こそが、彼にとっては最高の「恋」の感情の発露なのではないかと思うのだ。

今日も筆が捗った。いつもこんなに長く書いてしまうのだけれど、彼とてルールを決めているわけではない。書くなら原稿用紙三枚分でも充分だろう。それ以上の数字の文字数を打ち込んでいる……書き過ぎは筆が荒れる、と言われている。でも、彼は一旦書き始めるとここまで書くことを止められない。これも恋の病(?)のせいなのかもしれない。彼はここで一旦筆を置いて――正確にはキーボードを叩く手を休めて――別のことをしようと考える。『シェイクスピアソネット』を読むのはどうだろうか? 彼の中に新たなる活字が投げ込まれ、彼という自我は更に混沌として膨らみ続ける……。