There She Goes

小説(?)

ヒマの過ごし方 / There She Goes #27

WILD FANCY ALLIANCE

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世の中働き過ぎて死ぬ人も居るのだ。そして彼は働き過ぎていない。鬱だった頃に――というか今でも基本的に――こんなにヒマに過ごしていて良いのかと考えたことがある。当然年収/月収はそれなりで、シェアハウスの家賃とスマホ代を払ったらそれでだいぶもぎ取られてしまうので贅沢な暮らしなんて出来ないのだけれど、他の人が喉から手が出るほど欲しいであろう「ヒマ」は手に入れられている。彼からすればやり甲斐のある「仕事」が欲しいところなのだけれど、そんなものは手に入れられていない。だから彼は今日もヒマな一日を過ごした。

彼はヒマをかつて酒で潰した。そして今は酒に逃げることも出来ない。ある時から彼はヒマを自分のやりたいことで潰すことに決めた。やりたいこと……幸か不幸か彼が住む地域はど田舎なので娯楽施設はない。パチンコ屋とカラオケ店くらいしかない。そして彼はカラオケにもパチンコにも興味がないので、そういう手段でヒマを潰すことは出来ない。だからカネの掛からない娯楽といえばインターネットやスマホに触れることと、あとはレンタルした DVD やネット配信で映画を観たり、図書館で借りた本を読んだりすることくらいなのだった。

自分のやりたいこと……だから彼は本を読むのだった。それが立派な行為だからという理由でそうするのではない。教養を身につけるための読書を行うというのであれば彼はとっくの昔にプラトンソクラテスを読んでいるだろう。あるいはニーチェドストエフスキー漱石や鴎外を……しかし彼はそうしない。いや、出来ないのだった。彼の頭の中に入る活字というのは極めて限られた/マニアックなものなので、だから今の彼の頭の中に入るのはマルセル・プルースト失われた時を求めて』なのだった。読んでいて癒される……これは前に書いたことだ。

プルーストを読む……それも立派なことだから、見栄を張りたいから、教養を身につけたいから読むのではない。そうするしかないし、あるいはそうしたいから読むのだ。プルースト失われた時を求めて』を読んでいると脳内から心地良い物質が出て来るから読むのだ。もっと心地良い快楽を得られる手段があるとすれば彼はゲームに手を伸ばすだろうし、あるいはまた酒に逃げることも出来るだろう。だが、そうはしない。あるいはそんなことは「したくない」。これは純粋な快楽追求の問題であって、チンケな見栄の問題ではない。

かつてヒマでヒマでしょうがなかったことを嘆いたら、「そんなにヒマならトルストイを読めば良いじゃない!」と叱られたことがあった。彼もやってみようと思った。漱石を、鴎外を、ドストエフスキートルストイを……だが出来ないのだった。彼は音楽を好んで聴くが、実を言えば彼はビートルズのオリジナル・アルバムを聴き通したことはないのだ。どうしても脳が苦痛を感じてしまうのだった。鈍い退屈しか感じられないので、通して聴けない……しょうがないと諦めるべきなのだろう。これも彼の「個性」「特性」と関係があるのだろうか。

彼はそのせいで不勉強を指摘されることもある。だけれど、出来ないものは仕方がない。生き方がこの年齢になってしまうともう頑なになってしまって柔軟に変容させることは出来ないようだ。そして、肝腎な点はそれを誰も責めてなど居ないというところである。いや、かつてはそういう不勉強を指摘する人間ともつき合っていたこともある。自分の不勉強を克服するため……しかし、どうしても、どんなに努力しても出来ない。何度挑んでも出来ない。これはもう努力でどうにかなる問題ではないと思い、諦めている。読める時が来れば彼はいずれ、かつてどうしても読もうとして読めなかったプルーストを今読んでいるようにトルストイを読めるようになるのだろう、と。

だから、彼の知識はかなり偏っている。それに対して劣等感や自信のなさを感じることもある。カズオ・イシグロも読んだことがないし……手持ちの乏しい知識を飛び道具的に用いることで格好をつけているだけであって、彼は自分が教養があるとか学識が豊かだとか思ったことは一度もない。知っていることより知らないことの方がいつだって多い。それが彼の、彼に与えられたオンリーワンの人生なのだろうと思っている。誰も彼の人生を生きることなど出来ないのだから。彼は不思議な人生を、数奇な人生を生きるしかない。

前にも書いただろう。こんなにも引きこもりやニートが溢れている時代、親元から自立せず、しようともせずに「働いているだけで立派ではないか」と格好をつけていた時期があったということを……今はシェアハウスに住んでいるのでその格好に多少は箔がついたと言うべきなのかもしれない。そして、今では誰も彼の人生を責め立てる人間など居ない。だから誇っても良いはずなのだ。彼は一応は自立に成功したのだから。長く目指していたスタートラインにやっと辿り着けたのだから……ここからは全てが初めて、なにもかもが初体験だ。

自虐はもう止めよう、と彼は思う。だがしかし、例えば Twitter のタイムラインを見ていて日本人が働き過ぎていることがトピックに挙げられるのを見てしまうとやはりヒマであることに罪悪感を抱いてしまう。そんな罪悪感を拭い去ることはなかなか出来ない。彼女に相談すればこの罪悪感は治まるのだろうか? そう言えば、彼は太宰治も読もうと思って『人間失格』を読み、何処が面白いのかさっぱり分からなくてそれ以来読んでいないのだった。三島も読んだことがない。読んだことがない作家ばかり……そんな偉大な作家たちを放ったらかしにして――と書くとむろん失礼なのだが――金井美恵子吉田知子を読んでいる。それが彼の人生だ。