There She Goes

小説(?)

ラブ・ストーリーは突然に / #There She Goes #53

自己ベスト

自己ベスト

 

……彼女と初めて出会った時のことを彼は思い出す。驚かされたのは、彼女が辞書を抱えていたことだった。英語なのかドイツ語なのか、そこまでは確かめていないがともあれそんな重いものを携帯していたのだ。彼も、人から見て不気味に思われるくらいに本を携帯する癖がある。だから彼女を初めて観た時にそのインパクトにやられてしまったのだ。一目惚れ、というやつだろう。それから果たして語られる彼女の話は、凄まじいものだった。少女時代は内村鑑三を愛読していた、立命館の院卒で IQ は 156 ある、等など……。

彼は一応早稲田の第一文学部英文学専修を出たのだけれど、調べてもらったところ IQ は 120 だった。だから、彼女の方が賢いことになる。それで、彼は知的なところがある女性に惹かれる傾向があるので好きになってしまったのだった。ラブ・ストーリーは突然に……あの集いで彼女に会わなかったら、彼はどうなっていたのだろう。彼女は? 彼女は彼との初対面で、相貌失認――ざっくり言えば顔をなかなか覚えられない、という障害だ――を抱えているのが自分だけではないことを知り、泣いたそうだが……彼女とそうやってやり取りし合って二年になる。彼女はこの町に戻って来た。またイオンあたりでエンカウントするのかもしれない。

彼女に告ったことも書くべきだろうか? 彼女は彼の告白にあまり良い印象を抱かなかったようなのだ。そして、「良いんですよ。どの道時間は取り戻せませんから」と言って彼を退けた。そこに彼は、サディスティックな素質を見抜いたのだった。彼はマゾヒスティックなところがあるので、ますます彼女を好きになってしまったことは言うまでもないだろう。今度の日曜日、彼女がホストとなって英会話を発達障害当事者の会で行う予定だ。彼は英文科卒の(TOEIC は受けたことがないのだけれど)キャリアを活かせないかと考えている。

彼女の企画には、しかし協力者として名乗りを上げることはしなかった。彼女が一方的な彼のアプローチを嫌がるかもしれない、と考えてのことだ。恋愛は相手の気持ちがあってこそ……ここはスイッチをオフにして、彼女の仕切るがままに任せようと考えたのだった。なにか有用なアプリなどあれば、それを紹介したいと考えている。Engly なんてどうだろう。彼はこのアプリを使って英語の勉強に励んでいる。彼女が彼のことを一目置くことになれば、活躍出来ればと思っているのだけれどどうだろう。勘が言っている。今回はオブザーバーに留まれ、と。

小田和正のベスト盤を聴いている。小田和正……大嫌いだった歌手だ。食わず嫌い、というやつだ。ラブ・ソングなんて、恋愛ととんと無縁だった彼になんの意味があるのだろう、と。しかし「ラブ・ストーリーは突然に」を聴き、恋/愛の気持ちが彼の中にまだ残っていたことを思い知らされる。そしてそれは続くかもしれないし、いずれは結婚、なんてこともあり得るのかもしれないのだ。未来のことなんて誰に分かる? 言えることは、今この瞬間を精一杯生きようということくらいだ。だから日曜日を楽しみに待っている。

「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら」……もし、あの集いに彼が出席していなかったら。もし、辞書を携帯する彼女に(前に電子辞書をプレゼントしたが、やんわりと断られた)出会わなかったら……ラブ・ストーリーは始まらなかったわけだ。運命の出会い、というやつはあるのだなと思わされる。もっとも、彼女はリケジョなので文系で本能のままに動く彼とは水と油とも言えるので、もどかしいのだけれど……一体彼らはどうなるのだろうか。話が噛み合えば、フランクに話し合えれば、と思う。雑談……というのは発達障害者には難しいのだけれど。

そして、彼は今日は休み。タイヤがパンクしていたので、それを修理してもらっているところだ。小田和正の声が心地良く響く……「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま」……当たり前のフレーズだ。陳腐、とさえ言える。だけども、この端的な事実が彼には興味深く感じられる。見知らぬ二人のままだったかもしれない彼らは、しかし出会ってしまったのだ。事件、と言っても良いだろう。こんな事件が起こり得るとは……プリファブ・スプラウトは「人生は驚きの連続だ」と歌っている。それは正しかったわけだ。

英語の勉強……昨日も英会話教室に行き、そこで先生に無茶振りをしてしまい大恥をかいた。だけれども、トータルで見ればスローライフを送っているとも言えるわけだ。昼食は相変わらずアンパンと爽健美茶。だけど、こんな人生も悪くない。また彼女の声を聴きたい……そう彼は思っている。