There She Goes

小説(?)

戯れてるだけ 空の下で / There She Goes #23

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

 

ジル・ドゥルーズ論として知られる千葉雅也『動きすぎてはいけない』という書物を彼は二日掛けて読んだ(また読書が捗るようになって来た)。とは言え彼はフランス語はおろか英語すら出来ない体たらくなので――英文学を学んでいたのに!――この本の内容を何処まで読み込めたか甚だ自信がない。様々な話題を詰め込んだ本なので必ずしも一面的に「こういう本だ」と受け取るのは賢明ではないのだろう。読むごとに姿を変えるような、鵺のような本……久々に面白い本と出会ったと彼は興奮してしまった。いずれ再読することがあるだろう。

この本の読書で興味深い箇所を見つけてしまった。それはドゥルーズフェミニストたちに対して女性「である」ことにこだわるのではなく「同一性から逃走」することを薦めたことに依って顰蹙を買った、というエピソードだ。この箇所を彼は自分の過去と結びつけて読んでしまった。彼自身自分が発達障害者であることに拘泥していた時期があった。今のように発達障害がホットなトピックではなかった時代だ。生きづらさを解決させるための唯一の概念……それに縋るしかなかったのだ。例えば誰かが「民族性」「性別」「血縁」に縋るように。

今はそんなことは考えていない。発達障害者と定型発達者の間にはそれほどはっきりとした壁がないことが科学的に明らかにされているからでもあるし、拘泥することが逆に生きづらさを増すという逆説を理解したからではないかなとも思う。自分を縛りつけるのが自分である、という……ドゥルーズの例を引き合いに出せば発達障害に囚われない「自分らしさ」(≒「差異」)をこそ、「こうあるべき」という軛から解き放つ概念として説明したということになるだろうか。金子みすゞではないが「みんなちがって、みんないい」と言うべきか。

それからこんなことを考えた。

つまり、障害が障害となるのは他者との関係性に依ってなのである。他者が居なければ、どんな異常な思考/嗜好を持っていたとしてもそれは「異常」とは見做されない。病んでいたって構わない。そのあたりのことを考えると「病んでいない人なんて居るのだろうか?」という厄介で陳腐な問いに立ち戻ることになるわけだが、ともあれ「ビョーキ」はそれ自体単独としては存在せず、他人との関わり合いに依って生まれるものなのだ。だが他人と関わらなければ人はそれこそ生きて行けない。「With Or Without You」。

彼はふと彼女のことを考える。彼女もまた生きづらさを抱えているのだろう。彼女が自分をどう認識しているのか彼には分からないが、彼が軛から(取り敢えず)解放されたように彼女もまた解放されれば良いなとは思っている。そんな話を出来れば……そして発達障害が「ビョーキ」なのではなく彼ら/彼女らなりに秩序を持った言葉を喋り論理を練り上げていることを巧く伝えられればと、最近読んだ『発達障害の世界とラカン精神分析』という本のことを思い出して考える(この本についても今度の集会で語れるとしたら語りたい)。

彼はそれからラカン精神分析について考える。ラカンの解説書を読んでいるところなのだけれど、イマイチ呑み込めていないところがある。だが、こういうことなのではないかと考えているのは基礎的に人は万能な存在ではなく、言葉というワケの分からないものを与えられて――その「言葉」の中でウィトゲンシュタインよろしく認識の限界に辿り着くわけだが――それ以外の手段で世界に触れることを許されない。ラカンは色々なことを諦めろと語っているように彼には思われる。母に愛されたいという欲望、父に認められたいという欲望、世界を体感したいという欲望……全てを諦めろ、と。

我田引水もここまで来るとそれこそ病気だろう。彼は哲学も文学も結局自分の「人生」に引きつけてしか語れないのだった。「自分語り」というやつである。あまり自分のことばかり話す人からは人は遠ざかって行く、と信頼出来る方から忠告されたことを思い出す。まだ発達障害者であることに拘泥していた頃……今のように生きやすくなっていなかった時代の話であり、酒に溺れていた時期の話でもある。まあ、あの当時は祖雨生きるしかなかったのだとこれもまた諦めにも似た境地を感じている。今は今を生きる、それで精一杯じゃないか……。

また彼女と出会える。その時にどんな話をしたら良いのだろうか。彼女はラカン精神分析ドゥルーズの哲学に興味を示すだろうか? 彼は一応彼女の人生の先輩になるわけだが、こんな無様な姿を晒して良いものか……彼は自分の容姿をあまり好きではない。トラウマを植えつけられたことが軛となっているのだろう。解決するには己の病を見つめて、それを分析して学ぶことにある。彼が依存症から立ち直ろうとしているのもまさにそういうことなのだ……と國分功一郎『中動態の世界』を読みながら思う。今の彼は落ち着いている。

また言葉が彼の頭の中に入って来るようになった。それはそれで良いことなのだろうと思う。彼女に語るべき言葉を彼は用意する。用意を整えて……彼自身病んでいる人間として、彼女を受け容れられたらと思う。だが、それは奢りというものではないか……と一抹の不安を抱きながら。