There She Goes

小説(?)

Midnight In A Perfect World / There She Goes #33

Endtroducing

Endtroducing

 

英語の勉強を始めることとなった。一応大学では英文学を学んだのだけれど、なにかを学んでいたらこんな人間になっていないはずなので、そのあたり忸怩たる思いを感じなくもない。それで英語を使わなくてもなんとかなった環境で過ごしていたわけだけれど、ここ最近になって英語を使うべきと判断して泥縄式で勉強しているのだった。

これは「仕事」というところまで至っていないのだけれど、和文英訳を頼まれたのだった。それで資料に目を通してみたのだけれど、これが非常に悪文なので直訳するとややこしいことになる、彼なりに噛み砕いて翻訳したのだけれど、それが良かったのかどうか? そのあたり、判断を仰ぐしかない。

本格的な「仕事」ではなく書類をワンセンテンス訳しただけなので、言わば試験的な試みになる。彼の英語力はお粗末なものなので「ペンパイナッポーアッポーペン」よろしく「This is a pen.」「That is a cat.」「There is a mountain.」……式の言葉を並べるだけである。

例えば「接客応対」という言葉。これをどう訳したら良いのか思案していたのだけれど、「Service」で充分通じることが明らかになった。つまり「That store's service is bad.」これで通じるのである。彼の英語力なんてそんなものである。決して威張れたものではないのだった。なんて書くと彼女から「自分のことをボロクソに言い過ぎ」と呆れられるかもしれないけれど……。

一年前、いや半年前まででさえも自分が英語の勉強を再び始めるとは思っていなかった。「人生は驚きの連続だ」とプリファブ・スプラウトのパディ・マクアルーンは語っているが、彼女とお会い出来るなんてことも考えていなかった。まだお会いして半年、相変わらず既読スルーにこれもまた忸怩たるものを感じているのだけれど、まあ LINE は貰ったメッセージに返信しなくてはならないという決まりはないので、鷹揚に構えるようにしている。

臨機応変」は「play it by ear」……ネットで手に入れた知識なのでネイティヴの方からどう聞こえるのか分からないが、学校のテストと違って間違っていても良いのである。「in」「at」「on」の使い分けなんて未だに分かっていない。そのあたりあやふやだったのだけれど良かったのかどうか。

まあ、恥を恐れていてはなにも出来ない。英語について書かれた本を幾ら読んでも意味がない。カンフーについて書かれた本だけを幾ら読んでもそれでジャッキー・チェンの粋に達しないのと同じようなものだ。日々の鍛錬がものを言う。なので英語学習用のサブ垢を作って、それを使って英語の勉強をしているところである。要は使うことだ。学ぶことではなく。

そんなお粗末な体たらくなのだが、ともあれ手伝いは出来たということで喜んでいる。ルーク・タニクリフの本を読んだりして勉強しているところなのだが――むろん、日々使っているつもりなのだけれど――長年の怠慢はやはり響いている。昔はポール・オースターの小説を読んでいたのだけれど、そんな気力も失くなってしまった。

ただ、そんなことを言っても居られないので今はジュンパ・ラヒリのエッセイ集と格闘しているところなのだけれど、上手く行くかどうか……まあ、ダメ元で(そんなに損はしないんだから)挑んでいるところである。彼女のことを思い出す……常にテキパキ、ハキハキと論理的に整理して行った彼女の姿を……。 

Interpreter of Maladies

Interpreter of Maladies

 

そのようにして英語を enpower する傍ら、マルセル・プルースト失われた時を求めて』の読書はすっかり止まってしまい、ではなにをしているかというと映画『愚行録』の鑑賞もさっぱり進まないので、ココ・シャネルの名言集を読んで励まされているところなのだった。

ココ・シャネルは働く女性が珍しかった時代に無学な身から独学でファッションを学びブランドを立ち上げた人なのだった。つまりイノヴェーターというわけだ。女性としての弱みを強みに変えるべくどう奮闘しているかが本書の名言集で語られている。例えばこうだ。

欠点は魅力のひとつになるのにみんな隠すことばかり考える。欠点はうまく使いこなせばいい。これさえうまくいけば、なんだって可能になる。

まあ、良くある処世訓の類と言ってしまえばそれまでだ。だが、発達障害であるという「欠点」を「使いこなせば」「なんだって可能になる」……そういう言葉に彼は惹かれたのだった。自分の欠点をどう活かすか? それを知るためには自分のトリセツを作らないといけない。面倒だけれどやってみようかと思っている。

ココ・シャネルの言葉は例えばスティーブ・ジョブズのそれにも似ている。もちろん編集者が大胆にカットしたからだと言われればそれまでだが、潔くシンプルで分かりやすく、なおかつこちらのツボを突く言葉に満ちている。女性向けの本を野郎が読んでいるというのも滑稽な風景だが、それはそれで味があるのではないかと思っている。 

ココ・シャネルの言葉 (だいわ文庫)

ココ・シャネルの言葉 (だいわ文庫)

 

Whatever / There She Goes #32

タイム・フライズ・・・1994-2009

タイム・フライズ・・・1994-2009

 

五年後はどのように生きているのだろう? 彼はそんなことを考える。五年後……去年まで、彼は彼女と会うなんてことを想像していなかった。彼女の母親ともお会いするなんてことも想像していなかった。プリファブ・スプラウトではないが、人生は驚きの連続だ。いつどのようなことがどのような形で起こるか分からない。これはまあミクロな話なのだけれど、マクロな話を取っても日本という国がどのように変化しているのか、さっぱり分からない。世界情勢がどのように変化しているのかさえも分からない。分からないことだらけだ。

はあちゅう氏の『「自分」を仕事にする生き方』を読んで、五年後も自分の人生において続けたいと思えるような仕事を探そう! と語られているのを読んで唸らされてしまった。彼はどちらかと言うと刹那的にしか物事を考えない。五年後自分がどうなっているかなんて考えてもしょうがないじゃないかと思ってしまう。五年前に自分がシェアハウスで独り立ちするなんてことが起こるなんて、夢にも思っていなかった。酒を止められることさえ出来るとも思っていなかった。ずっと飲んだくれで、カフカが亡くなった 41 歳という年齢で亡くなるのだと思ってばかり居た。

今もそれは変わっていない。今年の年末のことさえも分かっていないのに来年のことなんて、増してや五年後のことなんてどうなるのか予測不可能だと思う。もしかしたら――甘過ぎる見方だとは思うが――ライターとして腕を発揮出来ているのかもしれないし、今の職場で活躍出来ているのかもしれないし、彼女と仲が深まっているのかもしれない。だがそれは全てが巧く行ったらの話なので、そのあたりのことは分からない。父親や母親と死別している可能性も高い。今の内に巣立ちという形で親孝行出来ればと思っている。

堀江貴文氏の話はしただろうか? 『しくじり先生』という番組で、「過去にとらわれず、未来に怯えず、今を生きよ」と語っておられるのを聞いたのだった。「今」ベストなパフォーマンスが出せているか……仕事においてもそうだろうし、読書やオフの過ごし方についてもそうだろう。「今」をどのように生きるか……そんな風にしか物事を考えないので、五年後十年後のことなんて全く考えない。あるいは考えられない。病気や事故で取り返しのつかないダメージを負っていることだって考えられ得る。悩むだけ損ではないだろうか?

デヴィッド・フィンチャーベンジャミン・バトン 数奇な人生』の中で「なりたい自分になれば良い」という言葉が語られているのを記憶に刻みつけている。人生はこう生きなくてはならない、というルールはない。今やニートの方が本を書く時代。彼が拘っていた一日八時間勤務という常識は崩れつつある。彼の今のライフスタイルのままで生きて行ける道があるのだとしたら、それを探るのも悪くはない……そうして、「コネクト」して他の方に助けを貰って試行錯誤に乗り出し始めたところだ。先は長い。ワクワクする。『ショーシャンクの空に』のラスト・シーンのように。

断酒会に入って一年か二年した頃に、なにも考えておらずにただ散歩していた時にふと「あ、自分の人生って自由自在に生きられるじゃないか」と悟った――というのは大袈裟だし不正確だろうが、他の言い方が見つからないので――ことを思い出す。自分の力で、自分の意志次第で自由自在に道を切り開けるじゃないか……断酒会では壮絶な体験談を一杯聞いた。これはもう書いただろうか? 仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った、もっと酷い人は健康を失った……酒が脳に回って呂律が回らなくなった方が、必死に断酒してどう立ち直ろうとしているのか語っておられた。呂律が回ってなかったのでなにを語っているのか分からなかった。ただ、言葉を超えてビンビン伝わるものを感じた……人生腹を括れば立て直せる。その事実を噛み締めた。

逆に言えば自分の人生の主導権を他人に売り渡して、他人が示すがままに彼は大学を選び職場を選んだというわけだ。ロボットのように従順にハイハイと聞いていればそれで右肩上がりの人生を保証されていた……今はもちろんそんなことはない。自分の人生の手綱は自分で握らないといけない。それを骨身に沁みて感じている。だから、自分のあなりたいものになっても良いんだ、なんにでもなっても良いんだ……そういう、プレッシャーから開放された希望が沸き起こる人生を生きているように感じられる。もちろんお金はないけれど……。

これからの人生を決められるのは自分なんだ。そう思い、昔なら彼女にアプローチするなんて出来なかっただろうけれど、彼は思い切ってしてみた、それがどう出たのか彼には分からない。世の中がどう変わろうとも、「私が」その現実をサヴァイヴして行く覚悟は常に必要なのだろう。そう思い気を引き締めたところだ。オアシスの「Whatever」という曲を思い出す。「I'm free to be whatever I / Whatever I choose ./ And I'll sing the blues if I want」。そう、選ぼうと思えばなんにだってなれるのだ。そこに希望を託したいなと思う。『ショーシャンクの空に』を観直すべきだろうか?

マイ・バック・ページ / There She Goes #31

GOODDEST

GOODDEST

 

昨日は彼の恋の病(?)を癒やすべく、彼女の母親とお会いした。彼が家計簿をつけているのを見て、食費を浮かすもっと良い手があるとアドヴァイスされた。ご飯を炊き味噌汁を作るというのだった。これなら栄養のヴァランスも取れるし安上がりでご飯を食べられる。素敵なアイデアではないか……ということで来週の水曜日にまたお会いして本格的にご飯の炊き方と味噌汁の作り方を教えていただくつもりである。シェアハウスに入ってから少しずつ、彼を取り巻く環境は変わりつつある。もう朝食のためにケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』よろしくローソンまで散歩しなくても良いわけだ。

そこで彼女の武勇伝(?)を幾つか訊いた。本来ならこんな話題は避けるべきかもしれなかったのだけれど、彼女の既読スルーの話もした。脈がないのかもしれない……彼女の就労状況についても聞かせて貰った。障害年金を貰って自立しているという話――もう書いただろうか?――も事細かに聞かせて貰った。プライヴァシーに関わることなのでこれは書けないが、なかなか助かる話だった。その方法が彼にも適用出来て、例えば障害年金二級を取得出来ればそれだけでかなり経済的に助かるわけだ。素敵なアイデアではないだろうか?

棚から牡丹餅が落ちまくる日々……「こんな手があるのか!」「こんな風に考えたら良いのか!」ということを次々と教わり、かつ実現に向けて周囲の方が動いて下さっているという状況。彼女のことを彼女の母親に話してスッキリするつもりだったのだけれど、結果的にはそんな風に「サポートしてあげよう」という話になったのだった。相手も相手で、発達障害者のサポートをしたという実績が欲しいらしいので是非力になれればということだった。むろん彼自身も力になれることがあれば(和文の英訳とか)受け容れることにするという助け合いが行われるわけだ。

その足で近所の au ショップに行きスマイルハート割引というものをして貰った。彼女の母親から教わったもので、精神障害者保健福祉手帳を見せれば料金が幾分か安くなるというのだった。加入していてお金が発生するというわけでもないしペナルティが発生するわけでもないので、善は急げと 1.5 km ほどある距離を歩いてショップに行き、障害者手帳を見せて手続きをして貰った。そうしてイオンに買い物に行き図書館に行き……そうこうしているうちに一日の徒歩の量が一万歩を超えた。『わたしは、ダニエル・ブレイク』よろしく歩きに歩いて得られた結果というわけだ。

彼は小太りだった。身長 165 cm で体重は 70 kg あったのが 62 kg まで痩せた。食べる量を減らして運動量を増やしたのだから当然と言えば当然なのだけれど、ぽっこり出ていたお腹も引き締まって来たように思われる。良いように変化していると感じられる。まあ、痩せ過ぎはまた問題があるだろうけれどそれはまたそれでなんとかすれば良いだけの話だ。痩身ということであればもっとスリムになる余地はある。お腹に贅肉はついている。それをなんとかしなくてはならない。腹筋を鍛えるべきだろうか。八つに割れた腹筋というのは彼にはまだ夢物語であるようだ。

これも書いただろうか? 書いた傍から忘れてしまうのが彼の悪癖であるのだが……十代や二十代は発達障害者であることが分からず、職場でも私生活でも虐めに遭ったり何処かトラブルを起こしたりしていた。何故なのか分からなかった。ある日友達が「発達障害者じゃない?」とアドヴァイスしてくれたので、「診断を受ける」と語ったら「まだ受けてなかったの!? そっちの方がよっぽどアスペルガー的だよ」と言われたのだった。結果心理テストを見たらグラフがギザギザだったので発達障害者だと分かったわけだ。その話も彼女の母親にした。

さっきも書いた。今では援助の手があちこちから差し伸べられている。発達障害者の支援グループの方も実績が欲しいからという実務的なこともあるのだろうけれど、それ以上に思いやりの問題もあるのだろうと思っている。彼を助けることで喜びたい。「It's my own pleasure.」……そういう思いやりの心から彼を助ける人が次々と現れて、戸惑っている。三十代は孤独に酒に溺れていたのだけれど、あの頃とは比べ物にならないくらい色々なことが生きやすくなって、幸せを噛み締めている。こんなに幸せで良いのか……料理に対しては前向きに取り組むつもりだ。

それで昨日は断酒会の日だったのだけれど、彼はしどろもどろになりながら自分の悩みがどう発達障害者当事者と家族の方の集いの場で生きているか語った。悩みは宝……断酒会で壮絶な体験を幾つも聞いたという話、「ここまで明け透けに語っても良いんだ」と目からウロコが落ちたという話がその集いの場で生きている。笑顔の話もしただろうか? 断酒会に通うようになってプレッシャーが取れて笑顔を浮かべられるようになったという話もさせて貰った。なかなか笑顔を作るのは難しいが、自然と笑みを浮かべられるようにはなったのではないかと思う。

彼が悩んで来たこと、苦しんで来たこと、自殺未遂をやってしまったことが、そんなしくじりが今では笑って話せる思い出になり、なおかつ他の方の助けになっている。そんな風に彼の悩みが他の方を助けるための悩みになり、断酒会で勉強したことが次のステップに生かせている。まだまだお尻が青い(断酒して二年半だから)ガキでしかないわけだが、そんな彼の体験談が生きている。自分は人を支えているし――もっとも、支えているなんて大それたことを考えては居ないけれど――人が自分を支えて下さっている。そんな風に悩みは循環して、解決の糸口が見えて来ている。今回は恋とはなんの関係もないことを語ってしまった。まあ、そんな日もあるだろう。

ボブ・ディランの言葉を思い出す。大まかに言えばこんな歌詞だ。「昨日の僕よりも今日の僕の方が若い」……二十代・三十代と苦しんでいた時のことが嘘みたいに、急に風通しが良くなって生きやすくなっている。彼の人生はこれから始まるのだ……そんな気さえしている。これもまた「縁(コネクト)」という奴なのだろう。

欲望 / There She Goes #30

スロー・ソングス

スロー・ソングス

 

「Is there any reason not to die / If this love I feel must always be denied?」……このフレーズはもう引いただろうか? モーマスの「1999年の夏休み」という曲からだ。「もしこの恋だと感じているものが常に否定されているとしたら、死なないでいる理由なんてあるのだろうか?」というような意味である。恋しているというこの感情が、なんらかの形で否定されるのだとしたらそれは死に値する……彼自身はこのフレーズを重く受け留め、そして彼自身がなにはともあれ「恋」だと感じているこの感情を整理したいと考える。

久しく更新して書き続けることのなかったこの小説(?)では同じことを繰り返しているかもしれないのだが、過去ログを探すのも面倒だしご寛恕願いたい。彼は彼女と再び会いたいという欲望に囚われている。彼女と面と向かってじっくり語らったあの時間、緊張感溢れるけれど、武士と武士が刀を戦わせて火花を散らしているような空気だったけれど楽しかったというあの時間を取り戻したい、また会いたい……そして彼に対する最後通告を聞きたい、と。告白したけれど結局彼女とは LINE でもメールでも音沙汰がない。結局既読スルーということは空振りだったのかもしれない。それならそれで良い。きっぱりした拒絶の返事を聞ければ、それで諦められる……。

彼は情動に依って動く人間である。この「恋」という感情と二度戦ったことがある。二度とも女性に対して抱いた感情だった。一度目は彼女のことを告白こそしなかったけれどソウルメイトだと思って、ネット上で交際を始めたのだけれど好きという感覚が芽生えて東京まで赴いたのだった。そこで彼女から、実は自分は結婚することになったからという事実を聞かされ、そして今ではメール友達としてあるいは年賀状を送り合う仲としてキープし続けられている。旦那は居るので異性の友達といった感覚だ。これが一度目の「恋」である。

二度目の恋はネット恋愛。ネット上でどうしても気になるという方と Twitter で交際したのだった。だからリアルでは彼女は――バイセクシュアルということなので――彼氏か彼女が居るのだろう。ネット上では親密な交際をさせていただいている。これもまたひとつの異性の友達といった感覚なのだろう。異性間での友情は成立すると、この二度の体験を経て彼は考える。彼の身の回りには他にも「異性の友達」と呼ぶに相応しい人物が幾人か居る。「恋」には鈍感なくせにこういうことに関しては恵まれているのだった。

情動に依って動く……自分でもワケの分からないものに依って突き動かされる。自分でもワケが分からない。彼は論理で物事を考える人間なのだが、しかしその論理を成り立たせるものは非論理からである。不条理な衝動、情動、情欲、欲望……そういった物事を整理するために言葉を並べ立て、そして理屈を形作り動くことになる。それは発達障害(特に ADHD)とも関連があるのだろう。逆に言えば彼はそれだけ理屈を超えた情動の動きに弱いので、鬱や躁になったり天候のせいで精神的なコンディションが悪くなったりする。感じやすい、波があるというやつだ。

それにしても、と考える。いや、「恋」というやつについて考えていたのだがふとここで考えを改めて今考えていることを整理したくなったのだ。彼女に対する心理に関してはまたいずれ幾らでも書けるだろうから、それは言葉になるまで煮詰める作業を行いたい。彼は彼女と出会い、支援施設の方と出会い今があることについて考え始めたのだった。ここに来て人生は格段に生きやすくなっていないだろうか? 発達障害とはなんなのか分からなかったが故に苦しんで来た二十代、酒に溺れて依存症になってどうしようもなくなった三十代が嘘のように、人生はイージーモードに入ったような気がする。

シェアハウスの件といい、彼女の件といい、現在繋がらせて貰っているグループの件(断酒会と発達障害当事者たちの集いの会)といい、そこからサポートの手が差し伸べられ、こんなに生きやすくなるための方法があるのかと目からウロコが落ちる日々が続いている。人から「いや、そこまでして支えて貰わなくても」と思ってしまうような、そんな環境である。四十代にして、棚から牡丹餅が次々と落ちて来始めているようなそんな状況……そこでならどんなしくじりも笑って受け容れられる。彼自身のしくじりをひとつ書くことだって許されるだろう。それを書いて今日の更新を締め括りたい。

彼は、自力で髭を剃ることが出来るようになるまでに四十年掛かった。電気剃刀で髭を剃っていたのだけれど、口元の硬い髭は剃れるのに頬の柔らかい髭は剃れないで困っていたのだった。おかしい、なにかがおかしい……『ノルウェイの森』を読んでも『コインロッカー・ベイビーズ』を読んでも、『ボヴァリー夫人』を読んでも『罪と罰』を読んでも髭の剃り方まで書かれていない。ある日シェービングジェルを塗ってT字剃刀を使うという方法を思いつき、物は試しで挑んでみたらツルッと剃れたのだった。こんな簡単な方法があるのだ……これもまた目からウロコだった。

この話をしたら、それはハイパーレクシアではないかという話になった。過度に活字に依存する人間のことをそう称するらしい。それについては調べていないので詳述は避けるが、これもまた発達障害故の特性なのだという説明がつく。今となっては笑い話として書けるが、困っていた時期があったのだ……なにもかもが遠い過去の話のように思われる。簡単な方法があるのだ。誰もが同じような悩みごとを抱えて、そして助け合って知恵を出し合って生きているのだ……その有難味をしみじみと噛み締めながら、この拙い文章を締め括りたい。

I'm Not In Love / There She Goes #29

The Original Soundtrack

The Original Soundtrack

 

われわれが恋と呼んでいるものは、それがある女性を対象としているかぎり、さほど確たる現実ではないのかもしれない。

――マルセル・プルースト吉川一義訳『失われた時を求めて』第四巻

シェアハウスに移って一ヶ月以上経つ。この話はしただろうか? 彼は当初、シェアハウスでの孤独な生活に耐えられるようにと思ってドストエフスキーを持ち込んだのだった。『罪と罰』は既読だったのでそれ以外の『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』……それらを読もうと思っていたのだった。彼はなんでも読めるというタイプの人間ではない。活字が頭に入らない時はとことん入らない。裏返せば冷蔵庫のマニュアルであっても、活字が頭に入る時はスラスラと入って来る。だから、ドストエフスキーの作品はシェアハウス向けに良いのではないか……そう思っていたのだ。

しかし、そうはならなかった。彼が今読んでいるのはマルセル・プルースト失われた時を求めて』なのだった。ドストエフスキーがイマイチ気乗りがしなくて部屋の片隅をサッと見たところ(本棚を、ではない。彼の部屋は本が散乱している)、吉川一義訳で岩波文庫から刊行されているものと高遠弘美訳で光文社古典新訳文庫から出ているものと二巻、置かれていた。プルーストか……そう思ってふと手にして読んでみたところ、三十代の頃に苦吟して一ページ読むのも苦痛だったのが嘘のようにスラスラと頭に入って来る。だから、どうせヒマなのだしと思って読み進めることにした。現在吉川一義訳で邦訳の第四巻に挑んでいる。むろん、読み飛ばしているところは多々あるだろう。だが、読書百遍ではないけれど再読すれば良いだけのことだと思い読み進めている。

昨日は発達障害当事者と家族の方の集いがあった。彼女と一緒に話を出来る機会があればと思っていたのだけれどそんなことにはならなかった。一ヶ月前に告白したのが嘘のように、相手からはなにも語って来ずこちらもお茶の準備で忙しくて結局なにも喋れず……で終わってしまったのだった。告白したのがなかったかのように……結局彼女にとって彼のことなんてそれだけの仲だと言うことなのだろう。告白して玉翠したことは彼女の中でノーカンなのかな、と思うとますます人がなにを考えているか分からなくなって来た。彼女も彼も発達障害当事者なのだけれど、当事者同士でも分かりにくいことはあるのだなと思った。

シェアハウスに住むようになってから、シャワーは毎日浴びるようになったし歩くようになったしでだいぶ痩せた。七キロは落ちたのではないだろうか。税肉の塊だった男が少しずつ「男前度が増した」と言われるようになった。喜んで良いのかどうか分からない。まあ、喜ぶべきことなのだろう。職場の方からは特に変化はないと言われるのだけれど、見えないところで少しずつ彼に変化は起こっているようだ。食事も満腹になるまで食べないと気が済まなかったのが、ご飯は一膳で済ませるようになったせいか食生活も変わってビンボーなりに充実して生きられるようになった。

それで昨日は彼の生活をどうするかという話になったのだった。障害者雇用で働いているので、あとはシェアハウスに移ってから障害年金を貰って本格的に自立するという手も検討してみてはどうかと薦められたのだった。そのあたり、戸籍をまだ移していないので古い住所の役所に行って相談をしなければならない。必要に応じて戸籍を移すなりなんなりしないといけない。それで一月九万ほどの月収で田舎暮らしでなんとか生計を立てられないものか……その試行錯誤で頭を痛めているところである。今日は恋とはなんの関係もないことを書くが、たまにはそういうこともあるのだと許していただきたい。

彼は良く、この環境下に置かれていることを「頑張っているね」と言われる。彼自身は頑張っているつもりは全くないのだった。発達障害と分からなかった二十代、酒に呑まれていた三十代と比べると人生はむしろイージーモードに入ったような気がする。困った時は困ったことを打ち明ける場があるし、支援施設の方が助けて下さるし一緒に例えばこれから自炊をどうするかという話で協力して下さるという話になって来るし……頑張っているというのであれば、昔の方が頑張っていた。今は自分に向いた生活を手軽に探せる。三人よれば文殊の知恵……ではないが、他の方が知恵を出して下さる。だから棚から牡丹餅が落ちて来ているような状況なのだった。

恋とはなんの関係もないことを語ってしまった。また彼女と歓談出来る場を設けて貰うべきだろうか? そのあたり自分がなにをやりたいのか分からないし気を遣ってしまうのも発達障害者(受動型)の悲しい性である。彼女は彼のことなんてアウトオブ眼中なのだろうけれど、それならそれで良い。困りごとや思い出話(高校の先輩・後輩関係であることが判明した)をするというのも、お薦めしたサウンドガーデンの曲をどう聴いたか訊いてみるのも一興かもしれない。早くも来月に至るのが楽しみである。ただ、彼女はやはり彼にとって眩し過ぎる。活躍している彼女を見ると、彼は自分が無能なようなそんな気がして来る。

そういうわけで、ここの更新もそんなに頻繁にしていないだろうということなので新しいブログを作ってみた。こちらのブログはそんなに文字数は書かない。ひと記事千文字弱かというところだ。内容も気軽に思いついたことを並べるだけという感じなので、読みやすいのではないかと思う。要はここの縮約版だと思っていただきたい。次から次へとブログを立ち上げて、読者の方がどれほどフォローされているか心許ないのだけれど(もう、独りかふたり読んで下さる方が居られたらそれで良いと思っている)、読みたいという方が居られたら是非読んでいただければと思っている。

負けず嫌い……そのことも書いておくべきだろうか。賢さということで言えば彼女の方が格段に上だろう。自分はそんなに知識もないし賢くもない……こんな口ぶりが彼女からするとダメだということになるのだろうか。このことも彼女に告白するべきなのだろうか? それとも LINE のグループトークで語るべきなのだろうか。取り敢えず彼女とは会えないし LINE で連絡しても梨の礫なので、困りごととして自分のことを語るかどうか悩んでいる。そこで決められない時に思い出す台詞があるのだ。是枝裕和『海よりもまだ深く』での「勝負しろよ勝負!」という言葉である。ここは勝負に出るべきなのかもしれない、

ONCE AGAIN / There She Goes #28

マニフェスト

マニフェスト

 

彼は今年で 42 歳になった。世間一般の四十代と比べると随分違った人生を歩んでいるものだと思う。年収は百万円台。その代わり随分ヒマな人生を歩んでいる……これはしつこく書いた通りだ。世の中働き過ぎて死ぬ人も居るのに自分と来たら……と書くと彼女は「また自分のことをボロクソに書いている」と呆れるだろうか。しかし罪悪感は消えることはない。メンタル面の問題を抱えて、それに加えて発達障害という重荷を背負って生きているのだけれど、これで精一杯だと思う反面もっと働ければと思うこともある。長時間労働を目指して頑張っているつもりなのだけれどなかなか上手く行かない。

なにかのウェブサイトで読んだのだけれど、発達障害者で働けているという人は――一般就労のみならず、作業所で働いているという人も入れても――四割だという。六割がなにもしていない。まあ、ニートか引きこもりか精神疾患かいずれかの理由で働いていないのだろう。しかも四割も安泰かというとそうではない。離職率が高い。キャリアが点々として続かないのが発達障害者の特徴となるらしいので、彼のように一箇所の会社で二十年近く続いている人は珍しいというのである。その言葉に甘えてしまって酒に溺れてダラダラと過ごしていた時期のことを考える。そんな自分が恥ずかしい。

過去は取り戻しようがないので「今」を生きるしかない……そう思い、やり直しの効かない人生だからこそ「今」を一生懸命生きているつもりだ。出来るだけのことをやろう……「今」最高のパフォーマンスを出せているか、「今」出来る限り沢山の本を読み映画を観て、仕事をしているか。それが未来を形作る。そう思い、たった五時間の仕事を完全燃焼する勢いでこなしている。そしてヒマが出来た場合その時間を映画や本に当てている。ムダにはしたくない。だから「今」という時間を満喫しているつもりで居る。将来のことはあまり考えていない。

政権は自民党が握るらしい。多分彼を待っているのは老後も年金生活なんて遠い夢の話になるのであって、年老いても働かなくてはならないようなそんな未来なのだと思う。それについて考えると暗澹としてしまうのだけれど、例えばフランク・ダラボンショーシャンクの空に』でアンディが頭の中のモーツァルトを鳴らして刑務所生活を乗り切ったように彼の頭の中にもプルーストが入っていればそれだけで人生捨てたものではないのではないかと思っている。あるいは舞城王太郎でも良いし阿部和重でも良いのだけれど、そういう作家たちの優れた本が入っていればそれで乗り切ることも出来るのではないか、と……。

彼女のことを話しただろうか? 彼女は彼が住んでいる町でいずれ起業するつもりらしい。彼も彼女の会社で働くことが出来れば……そうとまでは行かなくても彼女となにか出来ればと思っている。彼女とは LINE の連絡先やメールアドレスを教わったので、彼からなにかアプローチが出来ればと思っているのだがなかなか上手く行かない。いずれにせよ、未来はどう転ぶか分からない。去年の彼は彼女と出会うことなんて想像もしていなかったし、彼女との出会いが彼をこんなにも変えることもシェアハウスのことも想像していなかった。これだから人生は分からない。

彼は自分の人生のことを考える。さっきも書いたように 42 年の人生を生きて来た。振り返れば子どもの頃から彼は自分が進歩していないようにも感じられる。俗に言う「42歳児」……幼稚園や小学校時代から彼は変わっていないように感じられる。大人になりそこねた、幼稚な人間……子どもの頃の延長上で本を読んだり音楽を聴いたり、あるいは四十代になってから映画を観たりし始めたりしているのだけれど、こんなになにも変わらない人生で良いのだろうかと思ってしまう。立ち居振舞いは変わったのかもしれないが、本質は変わらないままだ。

遥か昔、四十代は自分にとって手が届かない位置にあった。自分が四十代まで生きることを想定していなかった。四十代半ばで酒に溺れて死ぬのだと思い詰めた時期もあった。今はそんなことは考えていなくて、差し当たっては生き直すつもりでシェアハウス暮らしを始めているのだったが、むしろ人生はこれから始まるのではないかという気さえしている、もう高度成長期やバブルの時代は終わった。右肩上がりの人生なんて続かない。彼はもう若くないが、人生における可能性はむしろ広がったような気さえしている。なりたいものにはなれないだろう。だが、高望みさえしなければまだまだ生きられる……。

子どもの頃、彼は大人になるということがどういうことなのかイメージ出来ていなかった。「なりたい職業を書きなさい」と言われてもなにを書いて良いのか分からなかったので「お父さん」と書いて笑われた思い出がある。今は大人になってしまったわけだが、「大人になった」と言えるかどうかと考えると甚だ心許ない。もしかしたら彼は今でも子どものままの、外見だけが中年男になってしまった人間なのではないかと考えることがある。いつまでも若いつもりで居るというのも考えものだ。年相応の振舞い方というのもあるのだろう。彼はしかしそれを身につけられていない。

台風の夜。彼は夜中に起きて映画を観始める。オリオル・パウロ監督の『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』という映画だ。そしてそれにも飽きて来たので一旦中断してこの小説(?)を書いている。枕元のランプを買わなくてはならないなと思いながら……あとペイヴメントの『クルーキッド・レイン』のデラックス・エディションを実家から持って来なくてはならないなと思いながら。これまでの人生はこれまで。限られた選択肢の中を精一杯生きて来たから今がある。だから今からは悔いのない人生を精一杯生きようと思う。自分の人生のルールは自分で作る……そう思いながら。

ヒマの過ごし方 / There She Goes #27

WILD FANCY ALLIANCE

WILD FANCY ALLIANCE

 

世の中働き過ぎて死ぬ人も居るのだ。そして彼は働き過ぎていない。鬱だった頃に――というか今でも基本的に――こんなにヒマに過ごしていて良いのかと考えたことがある。当然年収/月収はそれなりで、シェアハウスの家賃とスマホ代を払ったらそれでだいぶもぎ取られてしまうので贅沢な暮らしなんて出来ないのだけれど、他の人が喉から手が出るほど欲しいであろう「ヒマ」は手に入れられている。彼からすればやり甲斐のある「仕事」が欲しいところなのだけれど、そんなものは手に入れられていない。だから彼は今日もヒマな一日を過ごした。

彼はヒマをかつて酒で潰した。そして今は酒に逃げることも出来ない。ある時から彼はヒマを自分のやりたいことで潰すことに決めた。やりたいこと……幸か不幸か彼が住む地域はど田舎なので娯楽施設はない。パチンコ屋とカラオケ店くらいしかない。そして彼はカラオケにもパチンコにも興味がないので、そういう手段でヒマを潰すことは出来ない。だからカネの掛からない娯楽といえばインターネットやスマホに触れることと、あとはレンタルした DVD やネット配信で映画を観たり、図書館で借りた本を読んだりすることくらいなのだった。

自分のやりたいこと……だから彼は本を読むのだった。それが立派な行為だからという理由でそうするのではない。教養を身につけるための読書を行うというのであれば彼はとっくの昔にプラトンソクラテスを読んでいるだろう。あるいはニーチェドストエフスキー漱石や鴎外を……しかし彼はそうしない。いや、出来ないのだった。彼の頭の中に入る活字というのは極めて限られた/マニアックなものなので、だから今の彼の頭の中に入るのはマルセル・プルースト失われた時を求めて』なのだった。読んでいて癒される……これは前に書いたことだ。

プルーストを読む……それも立派なことだから、見栄を張りたいから、教養を身につけたいから読むのではない。そうするしかないし、あるいはそうしたいから読むのだ。プルースト失われた時を求めて』を読んでいると脳内から心地良い物質が出て来るから読むのだ。もっと心地良い快楽を得られる手段があるとすれば彼はゲームに手を伸ばすだろうし、あるいはまた酒に逃げることも出来るだろう。だが、そうはしない。あるいはそんなことは「したくない」。これは純粋な快楽追求の問題であって、チンケな見栄の問題ではない。

かつてヒマでヒマでしょうがなかったことを嘆いたら、「そんなにヒマならトルストイを読めば良いじゃない!」と叱られたことがあった。彼もやってみようと思った。漱石を、鴎外を、ドストエフスキートルストイを……だが出来ないのだった。彼は音楽を好んで聴くが、実を言えば彼はビートルズのオリジナル・アルバムを聴き通したことはないのだ。どうしても脳が苦痛を感じてしまうのだった。鈍い退屈しか感じられないので、通して聴けない……しょうがないと諦めるべきなのだろう。これも彼の「個性」「特性」と関係があるのだろうか。

彼はそのせいで不勉強を指摘されることもある。だけれど、出来ないものは仕方がない。生き方がこの年齢になってしまうともう頑なになってしまって柔軟に変容させることは出来ないようだ。そして、肝腎な点はそれを誰も責めてなど居ないというところである。いや、かつてはそういう不勉強を指摘する人間ともつき合っていたこともある。自分の不勉強を克服するため……しかし、どうしても、どんなに努力しても出来ない。何度挑んでも出来ない。これはもう努力でどうにかなる問題ではないと思い、諦めている。読める時が来れば彼はいずれ、かつてどうしても読もうとして読めなかったプルーストを今読んでいるようにトルストイを読めるようになるのだろう、と。

だから、彼の知識はかなり偏っている。それに対して劣等感や自信のなさを感じることもある。カズオ・イシグロも読んだことがないし……手持ちの乏しい知識を飛び道具的に用いることで格好をつけているだけであって、彼は自分が教養があるとか学識が豊かだとか思ったことは一度もない。知っていることより知らないことの方がいつだって多い。それが彼の、彼に与えられたオンリーワンの人生なのだろうと思っている。誰も彼の人生を生きることなど出来ないのだから。彼は不思議な人生を、数奇な人生を生きるしかない。

前にも書いただろう。こんなにも引きこもりやニートが溢れている時代、親元から自立せず、しようともせずに「働いているだけで立派ではないか」と格好をつけていた時期があったということを……今はシェアハウスに住んでいるのでその格好に多少は箔がついたと言うべきなのかもしれない。そして、今では誰も彼の人生を責め立てる人間など居ない。だから誇っても良いはずなのだ。彼は一応は自立に成功したのだから。長く目指していたスタートラインにやっと辿り着けたのだから……ここからは全てが初めて、なにもかもが初体験だ。

自虐はもう止めよう、と彼は思う。だがしかし、例えば Twitter のタイムラインを見ていて日本人が働き過ぎていることがトピックに挙げられるのを見てしまうとやはりヒマであることに罪悪感を抱いてしまう。そんな罪悪感を拭い去ることはなかなか出来ない。彼女に相談すればこの罪悪感は治まるのだろうか? そう言えば、彼は太宰治も読もうと思って『人間失格』を読み、何処が面白いのかさっぱり分からなくてそれ以来読んでいないのだった。三島も読んだことがない。読んだことがない作家ばかり……そんな偉大な作家たちを放ったらかしにして――と書くとむろん失礼なのだが――金井美恵子吉田知子を読んでいる。それが彼の人生だ。