There She Goes

小説(?)

Well every day my confusion grows / There She Goes #20

ブラザーフッド【コレクターズ・エディション】
 

今日は彼は午前中、これから引っ越しする予定の家屋を掃除するのを手伝った。帰宅後やることもないので、酒に逃げるわけにも行かないので South というバンドがカヴァーしているニュー・オーダーの「Bizarre Love Triangle」を延々と聴き続けた……「Every time I think of you / I feel shot right through with a bolt of blue」……「君のことを思うだけで電流を撃たれたような気分になるんだ」? 相変わらず拙い英語の翻訳しか出来ないことを歯痒く思う……ニコ動で見事に翻訳されていたこの曲の字幕を眺めたりしながら溜め息をついた。この曲しか今日は聴く気になれなかった。

月が綺麗だったから告白した……そんなニュースが流れて来た。思うところは色々ある。綺麗な月を見上げたら Instagram で拡散したいとか考える彼は無粋なのだろう、と。そして彼女のことを考えた。彼女は彼にとっては月ではなかった。直視するのが眩しい、太陽のように輝く女性……彼女自身が彼女の魅力――と彼は思うのだが――を持て余して、自分自身でなくなってしまいたいと考えているとしても彼には彼女が必要なのだ。彼女の言葉が、彼女の存在が……触れるものなら触ってしまいたいとさえ思うのだけれど……火傷するのだろうか? なにしろ太陽だから……。

混乱する日々の中、ふと二階堂奥歯の日記を読み直したくなってしまった。そして読んだ(彼は活字が頭に入って来るようになって来たのを感じる)。「選択の余地も与えられず強いられた暴力に対して出来ることは、自分が楽しんでいると思い込むか、それとも自分は人間ではなく使用されるための物体であるという事実を受け入れるかのどちらかなのである」……これはまさに今の彼のために宛てられて書かれた言葉のようにも感じられた。「選択の余地も与えられず強いられた暴力」……それが例えば「恋」や「愛」であったとしても、それは「暴力」なのではないか?

そこで考えを中断して山本太郎編『ポケット日本の名詩』を読み終える。久々に読書が片づいた。いつもならこの詩集を読み終えた感想を書くところなのだけれど、書く気になれない。だから相変わらずニュー・オーダーを聴き続けた。巷は下らないニュースで溢れている。それで日夏耿之介の訳したエドガー・アラン・ポーの詩を読もうかなと思ったのだけれど脳がバテてしまったようなので、それ以上読書が捗らなかった。豪華絢爛な言葉で綴られているポーの詩集を、明日の彼なら読めるのだろうか? それは彼にも分からない……。

「I do admit to myself / That if I hurt someone else / Then I'll never see just what we're meant to be」……「僕は認める。誰かを傷つけてしまったら僕らがそうなるのが運命だなんて理解しないだろう」……これも誤訳だろうか。切ない South の音楽を彼は延々と聴く。彼自身彼女を傷つけたくなんてない。だけれど、異性関係において極めて鈍感な彼にどんな触れ方が出来るというのだろうか。抱きしめれば握り潰してしまうような、彼女はそんな存在のような気がしている。だけれども彼女を失ったら彼は彼では居られないのだろう。

彼自身どうしようもない感情の中で混乱している。「Well every day my confusion grows」……彼女のことを結びつけて考えてしまう。彼女に彼が出来ることと言ったら言葉を捧げることしかないのだった。直接伝えられるわけではないので家族にメッセージで LINE で伝えるのだった。佐野元春の「そこにいてくれてありがとう」というフレーズ、そして彼がこよなく愛するフィッシュマンズの「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔のそばにいたい」というフレーズ……そんな教養しか持ち合わせていないことを彼は悔やむ。

誰だって個別の出来事を体験しているのだった。発達障害者はひとりひとり症状の現れ方が違う。それを一緒くたにして「発達障害」(どうでも良いが、彼は「障碍」「障がい」という言い換えを嫌う。そこにどんな意味がある?)と押し込めてしまうことは、生きやすさを感じさせるだろう。マニュアル的なものがあり、それに沿ってプランを立てて生きて行けば良いのだから。だが、彼がぶつかる困難/障害は結局彼が自分で解決すべきものなのだ。誰も彼の人生を生きることは出来ない。自分で切り開かなくてはならない。

チャック・パラニュークの言葉は引用しただろうか? 「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」……彼がどうなりたいのか彼には分からない。だけれども、と思う。この気持ちに正直に生きるしかないのだ。彼は嘘をつくのが極めて下手だ。そのせいで何度も騒動を起こして来たし、これからもそうだろう。やれやれ、と彼は思い結局最後まで自分に嘘をつけなかった二階堂奥歯のことを考える。

彼は今日は疲れているようだ。彼は自分がポーカーフェイスであることを密かに苦しく思っている。「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」がないように見える……それは苦役のような人生を潜り抜けてズタズタになりながら自分を守って来るしかなかった彼なりの処世術なのだ。だから彼は苦痛を快楽と感じる/変換するマゾヒストになってしまった……彼はチャHでしばしばSの傾向のある女性とMとなってプレイに興じる。こんなことも書くべきだろうか? これ以上のことは明日考えよう。もうこれ以上書くのも限界なのだ……。

The Wrong Child / There She Goes #19

Green

Green

 

彼は秋が好きなので九月になったことを喜ぶ。九月になれば読書が捗る。今日は岩波文庫版の芥川龍之介『歯車』を読み進めた。既に持っているはずの薄っぺらい文庫本なのだが、あいにく部屋の何処かに散逸したか捨てたかで失ってしまったので古本屋で買い求めたのだった。「玄鶴山房」を読み、その不穏な空気にやられてしまった。そして思ったのである。現代において例えば芥川龍之介をリスペクトし続けている作家は誰だろう、と。又吉直樹を思いつくだけで、それ以外には誰も居ない。いや、島田雅彦も芥川に関するエッセイを書いていた(『偽作家のリアル・ライフ』に収められていた)ことを思い出す。

芥川……高校生の頃は見向きもしなかった作家だ。十代の頃を思い出してしまう。当時は村上春樹ばかり読んでいた。村上春樹もまた(全ての優れた作家はそうだろうが)オールドスクールな文学から影響を受けたことを知らずに、芥川なんて古い作家/終わった作家として見做してしまっていたのだった。あとは高橋源一郎も読んでいたかもしれない。高橋源一郎もまた優れた文学、当然芥川を含む様々な文学を吸収した作家だ。しかし彼らが芥川をリスペクトするのを無視していたのだった。今『歯車』が頭に入るのは幸か不幸か、それはどうなのか分からない。

高校時代の思い出……机の中にある日所謂ラヴ・レターが入っていたことを思い出す。「好きになってしまいました」……云々。文面はもう忘れた(彼は二十年以上前のことは殆どなにも覚えていない。だから先述した村上や高橋の思い出もどうだか怪しいが……)。ともあれそんなものを貰ったことがなかった彼は戸惑い、自分が「愛されている」ということをどう受け留めて良いのか分からず、プレゼントとしてタンブラーを買ったのだった。それを自分の机の中に入れて返事を添えて渡した。返事とタンブラーは失くなっていた。そして、ラヴ・レターの続き自体も来なくなってしまった。また彼の心が固まってしまった……。

本と音楽だけを友だちとして生きて行こう。そう考えて彼は本と音楽の世界の中に没入した。それが今の彼を形作っていると言っても良い。逆に言えば彼の思い出の中に「友だち」は独りとして登場しない。誰と何処へ行った、なにをやった、どんな楽しい思い出を作った……そんなことは一切ない。同窓会に呼ばれることはあったが一度たりとも行ったことがない。その内に呼ばれることも失くなったので居心地が良いとも思っている。誰にも葬式に来て欲しくもない。今更義理で来られたところでこちらが居心地が悪いだけだ。

思い出すこと。放送部に入部した時のこと。彼が部室に入る。メンバーの中に緊張が走る。彼にはそれがよく分かる――というより「メンバー」がそうした緊張を最早隠そうとしていなかった。隠さないことも一種のゲームの規則であり、攻撃の手段だったから。メンバーが全員立ちあがる。そして彼に行き先を告げることなく、出ていく。彼は部室に取り残される。ぼんやり部室にいる彼がふと外を見ると人影がそこにある。或いはクスクス笑いと囁きが漏れ聞こえる。

外に出るとそこには誰もいない。だが廊下の曲がり角の彼から死角となるところに何人かの人間が存在する気配は感じる。彼はそちらを向く。また部室に戻る。そして人影を感じ部屋を出る。そして遂に、その人影こそが他でもない「メンバー」だったことを知る。あるいは、面と向かって「帰れ」と言われたこと。最後には彼が話し掛けても誰も彼がそこにいないように振るまい、カードゲームに興じていたこと。彼は退部した。それ以来部活はやらなかった。それで良かったのだ、と思う。死んだふりをして十代後半を過ごした。それで良かったのだ……。

それを虐めと呼ぶのが相応しいのかどうか、彼には分からない。世の中にはもっと壮絶な虐めだってある。腐るほどある。だから陳腐な話だ。それを特権として振りかざすつもりはない。だが、彼が感じた苦しみはそんな「陳腐」のひと言で癒されるものではない。彼が切実に感じた痛みや傷を、どんな言葉が癒せるだろうか。だからこそ人の痛みにデリケートになれた……というわけではしかし、ないのだった。いや、彼は人の痛みに鈍感になった。彼が感じた痛みの深刻さが――それが「陳腐」なものであるにしろ――過剰だったせいで、他人の感じているべき痛みの深刻さを「なにを程度の浅い」「誰にでもある」と考えるようになってしまったのだ。

不幸自慢……みっともない。そんな話は書きたくない。だから彼女のことを考えよう。彼女も今日、会社に出社したという。意を決したそうだ。彼女もまた痛みを抱えている。「痛みを抱えている者同士なら分かり合える」というテーゼが嘘であることを彼は知っている。発達障害者同士の痛みの分かち合いが不幸の増幅に繋がり破綻に終わることを彼は体験したことがある。文字通りの絶縁だった。彼女を理解しようとすればするほどその先に待っているのは、やはり「絶縁」なのかもしれない。しかし、彼女が居なければ彼は生きていけないのだ……。

彼は今日そば蜂蜜を買った。いつも行き着けのカフェの方に差し入れ的な意味を込めて渡したのだった。半額シールがべったりと貼られていたそのそば蜂蜜を見てカフェの方は笑った。またスットコドッコイなことをしてしまった。彼が関わると物事はどうも捩じ曲がった方向に向かうようだ。彼を嘲笑したかつての部活の仲間たち(!)も、彼を持て余したに違いない。彼自身彼を持て余している。彼は改めて自分を恥じる。誰にだってあること……そんなことあるもんか! この痛みが誰にでもある痛みだというのであれば、彼の人生自体「誰にでもある」取り替え可能な人生でしかないことを意味するではないか! 彼は掛け替えのない人生を生きているというのに!

邪悪なものそして花たち / There She Goes #18

evil and flowers

evil and flowers

 

「The boy with the thorn in his side / Behind the hatred there lies / A murderous desire for love」……彼の好きな曲のフレーズ。訳を収めた本が手元にあるはずなのだけれど、それが様々なモノが散乱した部屋の中で見つからない。なので彼は自分で訳すことを試みる。「心に茨を持つ少年/憎しみの影に存在するのは/殺意にも似た愛への渇望」……ダメだ、しっくり来ない。中川五郎氏はどう訳しておられただろう? いずれにせよこの歌詞が示す通り、かつてそこには独りの少年が存在していたことを記録しておく必要がある。彼は「愛への渇望」を抱いていたのだ、と。

彼は「恋愛小説」らしきものを書いたことがある。彼は一時期筆で食って行きたいと思っていたのだった。だから彼は「恋愛小説」を読み漁った。フローベールボヴァリー夫人』、村上春樹ノルウェイの森』、等など……しかし彼はそれらの小説で描かれている男女の遊戯が「恋愛」なのかどうなのか、遂に分からなかった。エンマと直子がそれぞれ「恋愛」をしているのか、彼女たちの相手になる男が「恋愛」をしているのか。『ノルウェイの森』に関してはトラン・アン・ユンに依る映画版を観たこともあったが、スットコドッコイな映画だなという印象しか抱かなかった(最近観た『ラ・ラ・ランド』に関してもそんな「スットコドッコイな映画」という印象しか感じなかった)。

だけれど、「恋愛」を書けなければベストセラーにまで登り詰められるような作品は成立しない。なので彼は必死に小説の登場人物に「恋愛」らしきことを真似させようとした。場合に依っては彼自身体験したことのないセックスまで体験させた。「Confusion Is Sex」……セックスという関係の中に落とし込んでしまえばそれでインスタントに「恋愛」は成り立つものだと思っていた。『ノルウェイの森』なんて殆どがセックスの話ばかりなので、「恋愛」の副産物としてセックスが成り立つことはあれどセックスの副産物として「恋愛」が成り立つとは考えにくかったのだった。

だから、彼の書くものは結局ポルノグラフィに終わってしまうのだった。酷く安っぽい……彼は性欲を感じることはあった。だから辛うじて彼自身は自分の性を(あるいはアイデンティティを)「ヘテロセクシュアル」と位置づけることが出来たのだけれど、性的な意味においてそれをオープンにさせることは出来なかった。それどころか拗れてしまった。自分がマゾヒストであることを彼は恥じている……この話題についてはこれ以上触れるのは今は止めておこう。どうしても必要であるなら話すことにして、本題に戻りたい。

彼女のことを考える。彼自身は彼女とセックスしたいとは思わない。彼女のことを、例えば(下品な言葉になるのだが)「そそる」女だと思ったことは全くない。彼女はむしろ清らかな女性だと考えている。性愛抜きにそういう「恋」という感情が成立し得ることに彼は驚きを感じている。あるいは彼女の賢さ/賢明さに彼は逆に畏怖を覚えているだけなのかもしれないのだが……知的に割り切れる感情とは必ずしも限らないのが「恋愛」の要諦なのだとしたら、彼が抱えるこのモヤモヤをどう考えれば良いのだろうか。性欲とかそういうのではなく、「言葉」をこそ欲するというような気持ち……。

二階堂奥歯という、自殺で自分の生を閉じた女性の日記のことを思い出す。二階堂奥歯は自分を一冊の書物になぞらえたのだった。生まれた日数以上の本を読んで来たと豪語する彼女の言葉に相応しいと思う(そう思い、彼は部屋の中を見渡すが遺稿となった日記『八本脚の蝶』はやはり探しても見つからない)。彼が好きになった彼女もまた彼にとって読まれるべき一冊の書籍であり続けている。書籍と女性を一緒にする……怒られるのかもしれないが、それはなんだかある意味ではヴァルター・ベンヤミン的な発想のようにも思う。

セックスの話から自殺の話へ……そこに彼女が居るだけで尊いということを、しかしどう彼女に伝えれば良いのだろう? それが綺麗事などではなく、彼女が自分で命を絶ってしまえば本当に彼にとって大事なものがごっそり持って行かれるような経験を意味するということを……分からない。彼は今 LINE のグループで自殺に関する記事を投稿したところだったので発想は取り留めもなくセックスから自殺の話へと変わってしまう。自殺したいという渇望とセックスしたいという渇望……このふたつは似ているのだろうか?

「Is there any reason not to die / If this love I feel must always be denied?」……彼はまた新しい歌詞を連想する。「僕が感じているこの『love』がいつも拒絶されるのであれば/死なない理由など存在するのだろうか?」と彼は試訳を試みる。「この『love』が」……不自然な言葉になるが「love」を「恋」と「愛」とどちらと訳して良いのか分からないのでこんなぎこちない訳になってしまった。彼が感じているこの感情は「恋」なのか「愛」なのか。それとももっとおぞましい「欲望」に過ぎないのか……ダメだ。手詰まりだ。違うことを考えないと。

彼の精神状態を示すかのように部屋は混沌としているので、仕方がないので手当たり次第に読んだ本は捨てることに決めて彼は彼女に伝えたい言葉を考える。「そこにいてくれてありがとう」……これ以上の言葉を彼は結局考えつかない。彼はその言葉が自分から放たれることを滑稽に感じる。彼は自分が必ずしもモテる人間だと思わないので……邪悪な人間だとさえ思っているので。邪悪なものがしかし花に手を伸ばしたとして、それはしかし決して虚しいことではないはずだ。それが虚しいことなのだとしたら、この世に虚しくないことなんてあるだろうか?

そこにいてくれてありがとう / There She Goes #17

フルーツ

フルーツ

 

例えば六本指のピアニストが居るとしたら、その人物は五本指のピアニストのために作られた音楽を弾くように指示されて戸惑うのではないか、と彼は考える――アンドリュー・ニコル監督の映画『ガタカ』を思い出しながら。五本指のピアニストのために作られた曲を弾くにあたって、六本目の指は邪魔になる。でも、指が一本多いことは利点になりはしないだろうか。六本指のピアニストのために作られた曲を弾けば良いのだ。そんな曲を作ってしまえば良い……ただ、そんな曲を五本指のピアニストが弾けるわけがないので需要はないのだろう。そこが悩ましい。

彼の話をしよう。彼は自分が過剰な存在であることを常に恥じている。「恥の多い人生を送って来ました」……太宰か。今日図書館で借りたのは芥川龍之介の『年末の一日・浅草公園』と『芥川追想』だったのだが。芥川も太宰も(太宰は芥川賞を遂に貰い損ねた作家であることを思い出す!)結局は自死した。彼らもまた過剰な存在であったこと、自意識を拗らせた作家であったことは疑うべくもない。彼らにとって文学というものは果たして救いだったのか、それとも病を更に拗らせる媒体だったのか。いずれにせよ彼らは彼らにしか書き得ない作品を書いた。それだけは確かだろう。

過剰な存在であることを恥じている、という話に戻ろう。彼は自分の喋り方を恥じている。声が低いこと、籠もり気味であること(カラオケで歌えば「ルー・リードみたい」と言われる、と書けば想像がつくだろう)を恥じている。だから、彼は喋ることがあまり好きではない。先日、彼自身の喋り方をネタにされることがあって彼はそのことを酷く気にしていた。彼の喋り方をネタにした人間に悪意などなかったのだろう。そう彼は信じる。だけど、悪意がないとしたらそれで全ては許されるのだろうか。彼だって人間なのだ。

彼は自分が異性から必ずしもモテるタイプの人間であるとは思っていない。逆だろう。毛深く、小太りで背も低く、酷い近眼で運動神経も良くない。力持ちではない。色白でインドア派で……子どもの頃から彼は女性に散々嫌われたことを思い出す。キモいという言葉こそ当時はなかったけれど、そんなような言葉で散々罵られた思い出……中学生の頃がピークだったな、と思う。ブラスバンド部で女性ばかりの部活動の中、先輩からも後輩からも「帰れ」と罵られたことを思い出す。思い出すとキリがなくなる。恥の多い人生……。

そんな彼はだから、居心地が良いという気がしない。戦時中を潜り抜けて来た人間が平和に馴染めないように。清岡卓行の詩文を思い出す。「愛されるということは 人生最大の驚愕である」……彼はいじめ(と言ってしまおう)を潜り抜けて来た。散々なディスコミュニケーションを体験して来て、異星人やロボットのように扱われて――彼自身もどちらかと言えば道化師のように振る舞えば周囲と馴染めると考えてしまったので――自意識を過剰に研ぎ澄ますようになってしまったのだった。「ひとがわらたり友だちがなくてもきげんをわりくしないでください。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです」……彼の好きな一文だ(また別の作品からだが)。

過剰に自意識を拗らせた人間。それは喩えるなら「What else should I be? / All apologies」と歌うような人間なのだろうと思う。誰も謝れと言っていないのに謝る人間……ここで「生まれてすみません」という言葉をまた思い出し、今日は太宰尽くしだなと彼は独りごちる。彼は必ずしも太宰が好きではない。三島よりは優れていると思うが、芥川のことを考えたい(芥川の方が優れている、と彼は彼らの作品をさほど読んでいないのに考える)。なにはともあれ、彼らに文学があったことは救いだったのかもしれない。それが自殺の引き金になったにしろ。

今日の彼の考えは、と書いてみて考える。結局自殺へと辿り着いてしまう。だとしたらエリオット・スミスを聴くのも良いのかもしれない。でも、と彼は思う。彼もまた自殺未遂を繰り返した人間なのだけれど――六年ほど前にオーヴァードーズの末に胃洗浄まで体験したことがある――今の彼は自死に依って人生を閉じることを考えたくない。それは結局彼女が居るからなのだろう。彼女が彼のことをどう思っているか、それは今はどうでも良いことだ。彼女もまた彼に石を投げる側の人間なのかもしれない。でも、彼は彼女を愛している。

彼女を愛している……彼女が居るから彼は生きていられる、そんな気がしている。人がただそこに居てくれるだけで、それを有難いと思える。それは「愛」と呼ぶに値しないだろうか。彼の大好きなシンガー・ソングライターの曲のタイトルを思い出す。「そこにいてくれてありがとう――R・D・レインに捧ぐ」。彼はこの言葉を彼女に向けて語り掛けたいと思う。ともあれ彼は彼女に会うまでの月日を耐えようと考える。今日はもう遅いから悪いことばかり考えてしまうのだ。明日のことを考えるとする。明日ジュンク堂書店で『黒沢清の全貌』を買おう、と。

彼女が彼女自身のことを嫌っているのかどうなのか、彼は知らない。彼女もまた自殺未遂を繰り返したと聞く。だというのだとしたら、掛け替えのない命が失われようとしたその危機は如何ほどのものだろうか、と……素敵な女性だと思うのに。彼女がその「素敵」を抹消しようとしただなんて。彼は彼女を、その自己嫌悪から守りたいとさえ考える。彼女を消すものから、彼は守りたい。それがなんであれ――それが世界の悪意だとしたら世界の悪意から、彼は彼女を守りたい。彼女は孤独ではない、そう彼女に伝えたい。彼もまた独りぼっちだったのだから。

ただ、独りぼっちだった人間、「恋」や「愛」を知らないで育った人間に果たして「恋愛」が出来るだろうか、と彼は考えてしまう。与えられたことのない承認を彼はどう彼女に対して与えたら良いというのだろう。その過剰な善意で、卵を握り潰すように抹消してしまうのではないだろうか……今日もまた書き切った。続きは明日書こう。

博士の異常な愛情 / There She Goes #16

Dr.Strange Love

Dr.Strange Love

 

一週間なにも書かなかった。だからと言って忙しかったというわけでもない。書こうと思えば書けたのである。「書こうと思えば」……問題はそう思えなかったというところにある。彼は書く気が起きなければ書かないのだ。毎日継続してなにかを書き続けるということは到底出来そうにない。だから一日一時間であっても書くために――トルーマン・カポーティは四時間費やしたことをふと思い出すのだが――時間を割くことを面倒に思う。書かなくては巧くならない、というのであればそんな「巧さ」という要素は彼は要らないと思っている。書けるのであればとことんド下手に書きたい。ペイヴメントの音楽のように。あるいは彼は気に入らないが、ソニック・ユースの音楽のように。

彼女のことを思い出す。彼にとって彼女は、その彼女らしさを用いて自在に世界を切り開いて存在しているパイオニアのような存在だった。彼女がそこに居てくれるだけで勇気を貰えた、と書くと大袈裟に過ぎるだろうか。彼女自身、そうありたくて彼女であるわけではないのかもしれない。それを過大に評価してしまうと逆に失礼というものなのかもしれない。彼が彼らしくあることを彼自身が嫌がっているように……でも、彼は彼女が彼女らしくあることを受け容れたい。そういう感情に相応しい言葉なのであるのだとしたら、彼女を「愛」したい。そう思っている。

読書は遅々として捗らない。山本太郎編『ポケット日本の名詩』を読んでいるところだ。日本の詩のアンソロジーを読むのは何冊目になるか分からないのだけれど、色々な本の冒頭に載せられる島崎藤村の「初恋」から始まるこの本を手に取り、「初恋」という詩について考える。甘ったるい詩としか思えなかった「初恋」が、何故か彼の心理にフィットするように感じられる。七五調に整えられた詩のリズムの美しさ、そして「まだあげ初めし前髪の」というイントロの美しさに、ベタと言えばベタなのに何故か無視出来ないものを感じる。当面はこのアンソロジーを読むことになりそうだ。

彼は子どもの頃に、「君の口調は大人っぽい」と言われて笑われたことがあるのを思い出す。それが不条理に感じられてならなかった。彼は大人から学んだ言葉を使っていたのである。英語を喋っている家庭に生まれ育った子どもが日本語圏の環境であれ英語を英語らしく発音したところでなんの不思議があるだろう。子どもは大人たちに依って成り立った世界――ラカン、あるいは斎藤環風に言えば「他者の語らい」の中――に生まれ落ちてそこから言葉を外部に位置するものとして取り込んで大人になるのである。その言葉が大人っぽいものになったとしたとして、不思議はないだろう。

彼女のことを思い出す。彼女の喋り方の一種のクセ、独特の個性……個性という言葉で片付けるのは乱暴に過ぎるかもしれないのだけれど――彼も、自分の風変わりな箇所を「個性」という言葉で片づけられるのを思うと恥じらいの念を覚えるのだけれど――そのひとつひとつが忘れられないものとして残っている。あの言葉を聞くために、歯切れの良い喋り、理路整然とした語りを聞くためにならもう一度お会いしたい……その気持ちもまた、「恋」なのだろうか。彼の考え方はそこで止まっている。これ以上掘り下げるのではなく、別の出来事を考えた方が良さそうだ。

別のことを考えよう。

一万以上のリツイートといいね。彼はそんなツイートをしたことがない。これからもないだろう。彼はそんなに大袈裟なことをツイートしたというのだろうか? このツイートの背後にあったのは彼が住む隣町で笹森理絵の講演会があった時のことを思い出したからだ。笹森の言葉から彼は、例えば数列が羅列されて書かれているプリントを見て絶句してしまいなにから手をつけて良いか分からなくなる発達障害者の障害児のことを考え、障害児にも分かりやすいように(つまり「ラクに」)問題を解く術はないかと思ったからである。

障害者が困難を乗り越えて頑張って……なるほどそれは感動的なことなのだろう。彼はここ数年24時間テレビを観ていない。その時点で彼はフェアではない(観てからツイートしろよ、と言われたが彼自身そんなに深刻に構えてツイートしたわけではない)。彼は上述した観点から、障害者が如何に困難を乗り越えずに「ラクに」生きられるように環境を整えるか、それを考えたかったのだ。だからそんなツイートをしたのだ。するとあっという間に拡散された。本当にあっという間だった。為す術もなくあっという間に……。

彼女のことを考えた。彼女ならこんな局面においてどう振る舞うだろう? 彼女はこの意見にどう意見を語ってくれるだろうか? それを考えてみたのだけれど、特に考えが捗るわけでもなかった。活字がやっと頭に入るようになったと思った途端にこれである。本当に人生において、なにが起こるかは未知数である。二年前、あるいは三年前に彼は自分が酒を止めているとは思っていなかったし、まして恋(?)に落ちるとも思っていなかった。恋の病(?)に苦しむとも、あるいはそれを楽しむとも……彼女にはしかし彼女の恋路があるし、人生がある。それを邪魔するわけにもいかない。

グレイス・ペイリーの短編集の邦訳が出たということで、これまで積んでしまっていた二冊の短編集の文庫版にも手を伸ばさなくてはならないと思っていたのだった。今日、彼は自分の喋り方をバカにされた。大嫌いな「善意」。彼はしかしそれで世を拗ねてしまうのにも飽きた。ミサイルが飛んで来たという歴史的な今日みたいな日に彼が書くのがこんな他愛のないことというのも妙な話だが、他に書くこともないのだから仕方がない。彼はただひたすら今出来ることをやる。それだけだ。彼女と会うまでの待ち時間を、例えばボードレールを読むとか……。

Smells Like Teen Spirit / There She Goes #15

ライヴ・アット・レディング

ライヴ・アット・レディング

 

彼は音楽を聴くのだけれど、そこに教養を求めたことはない。それなりに色々な音楽を聴いてきたつもりなのだけれど、だからこそ余計に「BABYMETAL を聴いている人間はヘヴィメタルを分かってない」とか、「Perfume を聴いているやつは耳が腐っている」とか「やっぱり渋谷系の時代の方が幸せだった」なんて戯言、吐く気にはならないのはもちろんのこと、聞く気にもならない。地獄のような視聴体験をして得られる付け焼き刃の「教養」など、なんの役に立つというのだろう。聴きたいものを人は聴けば良いのだ。例えばナース・ウィズ・ウーンドであれ乃木坂46であれ。

そういうわけで、今日の彼の気持ちを代弁してくれる音楽を探したのだけれど色々試してみた結果、これまで全然頭に入らなかったニルヴァーナの『ライヴ・アット・レディング』がしっくり来るようなので聴いている。ニルヴァーナも「教養」となる時代……彼はニルヴァーナをリアルタイムで通らなかった。バカ売れしているバンドが居る、という程度の認識だったのだ。それは今もそんなに変わりはない。彼らはバカ売れした。そしてその仕事は「バカ売れするに相応しい」ものであった、と思うだけだ。良いにせよ悪いにせよ。

どちらかと言えばブラーやオアシスといったブリットポップに目移りしてしまい、社会現象としてグランジなるものを巻き起こしたニルヴァーナを彼は過小評価してきたきらいがある。今改めてライヴ音源を聴くと、彼らの音楽に漂う痛切さは一方ではあの時代ならではの(もっと言えば、カートの自殺というロック史に残る――本人は恐らく不本意かもしれないが――「事件」の予兆の)不穏さを知らないと理解しにくいところがあるだろうなと思う。つまり、その意味での普遍性はないかな、と。ただ、今のリスナーを――ビートルズジョイ・ディヴィジョンのように――新たに虜にするだけの生々しいなにかは浮き上がっているように思う。そのあたり評価しづらいのがもどかしい。

「教養」を越えた体験としてロックを聴くということ……単純に「意味」を過剰に帯びせてしまうのではなく、音楽それ自体が持つ濃密な「強度」をこそ味わうこと……と書くと古臭く聞こえるのだろうか(あるいは、「意味から強度へ」との某社会学者の発言はニーチェを誤読しているという批判もあるようだが……?)。だが、ともあれこの「意味から強度へ」、つまり体験の「意味」を問うのではなく体験それ自体が楽しいかどうかという「強度」を問うという考え方は彼の中で今でもひとつの指針として残っている。人は要するに楽しいと思うことをやれば良いのである。どうしたらラクになれるか。

「どうしたらラクになれるか」……それを問うことはしかしなかなか難しい。人間の中に主体がある人は良い。自分の意志で決められる人――流行りの言葉を使えば「自分のアタマで考え」られる人――はまだ良い。そうでない人、つまり主体性というものを持たずにピンボールのように放浪して来た人はどう生きれば良いというのだろうか。例えば車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を思い出してみれば良い。あの主人公のように出来事と出来事の間を右往左往している内に漂流して堕ちるところまで堕ちた人のズタズタに傷ついた心はどうすれば良いというのだろう?

分からない……だがともあれ彼がこれまで酒に溺れつつも辛うじて生きて来られたひとつの理由が、この世に音楽があったからだという事実が端的に存在する。カート・コバーンが幾ら死にたくて――そして、周知のように人は「死にたい」と思う時こそ猛烈に「生きたい」と思っているのだ――鳴らしたにせよ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が今なお彼の心を打つように、彼は音楽によってこの世の中に神秘があることを知り、崇高ななにかに触れられたのである。マイケル・ギルモアが『心臓を貫かれて』で語るように、彼はロックの中にある種のコミュニティ/共同性を見出したのだ。

なんの話をしたかったのだろう……今日も仕事だった。仕事が終わり LINE でやり取りしながらメールを送受信し、なおかつ Twitter のリプライの返事を溜めながら小説を書くという難業(!?)をこなしていたら脳が熱くなってしまった。気散じとして始めた小説を書くことがこんなに苦しいとは……逆に言えば現代人(というか定型発達者)はどのようにしてこの難局を乗り切っているのだろうか、と不思議に思ってしまう。仕事をしながらなおかつ天気の話と政治の話を同時にする……気が狂うのではないかと思われるほどだ。彼はそういうチャンネルの切り替えが苦手なのだ。

また彼は疲れてしまった……音楽の話から恋の話をするつもりだったのだ。恋という(これを本来なら「特別な感情」と言い換えたいところなのだけれど、もう面倒なのでやらない)厄介な感情がしかし、彼にとっては世界を新しく開く切っ掛けとなったことを……神秘に触れられた思いがしたことを。しかし、そんな余裕はないようだ。十代の頃に女性に蛇蝎の如く嫌われまくった彼が今――人と比べたことはないが――女友達に恵まれているというのも不思議な話だが、まあ、そんな人生があっても良いのだろう。流石に限界が来てしまった。

彼はここで脳を休めることにする。出来れば Twitter から LINE からメールから……切り離した方が良いのだろう。溜まっている返信だけ過集中でやってしまおう。明日のことはまた明日だ。ここで彼は『妄想代理人』の登場人物の台詞を思い出す。「きっときみはつかれてるんだよ。もうやすみなよ」……例えば、カート・コバーンが『妄想代理人』を観たらどんなことを思っただろうか、と考えてしまうのは悪ノリが過ぎるというものだろうか? カートならゲラゲラ笑いながらあのアニメを観たように思うのだけれど……。

人生は上々だ / There She Goes #14

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

 

グスタフ・ヤノーホが自分自身が青年期だった頃に晩年のカフカと交際した記録を綴った『カフカとの対話』という書物がある。そこから戯れに引いてみる――「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、見物人となって、弄ばれているのがわれわれだということを忘れることにあるのです」……そういうものなのだろうか。何度も何度も読み返したせいで表紙がボロボロになってしまった『カフカとの対話』を眺めながら彼はそう考える。カフカ自身がユーモアのセンスを備えていたことがあのような作品を生み出したのだ、と考えてみる。

もう本は買わないと決めたはずなのだけれど、彼は三冊本を買った。島崎藤村『藤村詩抄』『藤村随筆集』そして太宰治走れメロス』……藤村の詩は甘くて、普段ならこんな甘ったるい詩なんて受け容れられないはずなのに今の彼には七五調のリズムもあってか心地良く入って来た。これも恋なのだろうか……それを女友達にメールしたら「そうかもね。」と六文字の返信が帰って来たのでまた彼は恥じ入りたい気持ちになったのだ。ともあれ彼からはそれ以上詫びのメールを入れていない。『恋する惑星』を観てからまたなにかあれば書こうかなと思っている。

例えば太宰治『ダス・ゲマイネ』に登場する冒頭のフレーズ。「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった」……その言葉が彼を戸惑わせる。太宰と言えば『晩年』から読み始めないといけないという強迫観念があった彼は、その『晩年』が読めなくてだから太宰を読めていないのだけれど、新潮文庫版の『走れメロス』を買いそこから太宰に入ろうと思うようになった。「女生徒」を読みたかったのだけれど他にも面白い短篇が乗っているようなので、読むのが楽しみだ。藤村をそして太宰を読めるということはまた、彼の中で変化が起こったのだろう。

彼は自分の中で変化が起こりつつあるのを感じる。結局彼は「自分自身から逃れることはできない」。だというのであれば彼は「見物人となって」彼自身を観察するしかない。それがこのテクストということになるのだけれど、彼は何処まで自分自身を観察しているのかについて考えてしまう。彼の身に起きたことを、彼ではない人間として観察すること――なかなか難しい問いだ。ともあれ彼は彼の身に起きたこと、考えていることを描写し始める。描写し始めると次々と変化していく事象を捉えにくくなるのだけれお、それでも彼はそういう営みを止めようとしない。

刻一刻と変わり続ける自分、「恋する男」としての自分の変化を微細に描き切ろうとすること。例えば今日彼は島崎藤村の詩を読めるなんて思ってもいなかった。どんな言葉も受けつけない精神状態で、藤村の詩だけは例外的に読めたのだ――どんな時にもそんな心情を代弁してくれる言葉というものはあるものだな、と彼は思う。だとすれば彼はまだ絶望するには早過ぎる。結局一生を棒に振るとしても、彼は彼の心情にフィットする言葉を探したい。例えば活字が読めなくてしょうがなかった去年の夏にたまたまカフカ高橋源一郎『虹の彼方に』を読んでハマったような経験をまた味わいたい。彼はマラルメとは違う。まだ読めていない本は沢山ある。

彼女のことを考える。彼女はどんな本を読んでいるのだろう? 彼女自身は早熟な読書家だったと聞くが……例えばポール・オースターは読んでいるだろうか? 彼は読書量を誇れるような人間ではないのだけれど、例えば『ガラスの街』(再読が必要だが)について彼女はどう考えるのか知りたいと思う。彼女は彼女の個性、という言い方が不適当だとしたら批評眼を以て彼に言葉を語ってくれるだろう。そうして語り合いたいと思う。サイレント・ポエツの歌詞が身に沁みる。「In The End Our Talk Is Toy」……結局言葉はオモチャなのだろう、そのオモチャを自由自在に使いこなしたいと彼は叶わぬ夢を見ることになる。

彼の気持ちは既に来月にお会い出来る(かもしれない)彼女のことで一杯だ。「未来はねえ 明るいって」……ここでまたフィッシュマンズを持ち出すのは我ながらどうかしていると思いつつ、しかしそれが彼という人間だから止めることが出来ない。古本屋で買った件の藤村の『藤村詩抄』を読みながら、ふと島崎藤村をきちんと読んでみるのも悪くはないかなと思っている。『破戒』程度なら読んだことがあったのだが、この機会に『夜明け前』まで読み進めてしまいたいなと思ってしまっている。むろん頭の中に入るかどうかは心許ないが、やってみようと思う。

恋する人(?)とお会い出来ないという苦しみ……それを浄化しようと思って(あるいは逆に病をこじらせているだけなのかもしれないのだけれど)彼は藤村や太宰を読み、そしてこの文章を書き続けているのだった。滑稽なことだろうか? 社交辞令を言われるまでもなく、彼は自分の書いているものに満足出来ていない。巧い作家の面白い作品ならカクヨムにも幾つも転がっている。彼が書きたいのはそんなスマートな「小説」ではない。高橋源一郎阿部和重との対談で語っているように、「文学」に似ていない「小説」を探している。これが、出来栄えはどうであれそういう「文学」に似ていない作品であれば良いなと思っている。

これを書いているのは午前四時半。ふと目が覚めて、パソコンの電源を入れてから小説(?)を書いていないことに気がついたので書いているのだった。これからもう少し寝ないといけない。藤村の詩を暫くは読むことになりそうだ。あとは池澤夏樹編集『日本文学全集』で「近現代詩歌」を借りて読むとか……甘い詩が今の彼の中に入って来るというのは彼にとっての変化なのかどうか? ここで問いは堂々巡りを始める。書くことが自分の混沌を整理するプロセスだというのであれば、彼は混沌の中に溺れてしまわないように、混沌の中で自分を見失わないようにするのに精一杯だ。この「感じ」……そこで彼は千葉雅也氏の次のような言葉を思い出す。