There She Goes

小説(?)

そっと運命に出会い運命に笑う / There She Goes #11

空中キャンプ

空中キャンプ

 

ふと、長編小説を読んでいて楽しいのはきっとその小説を読めば読むほど「小説」の中の「世界」が変容して行くことを味わえるからではないか、と彼は思う。いや、たった一日のことを長編にしたものだってある。未確認だが、例えばマルカム・ラウリー『火山の下』がそういう小説だったはずだ……だが、作品世界に流れる時間のことを言いたいわけではない。大河ドラマであれたった一日の内であれ、「世界」が変容する小説を読みたいと彼は思う。いや、「小説」でなくても良いのかもしれない。「言葉」が「世界」を変容させる……そういうものでなければ触れる価値などないような気がする。

逆に言えば、読んでも読んでも彼なら彼の中の「世界」が変わらないもの、安定したものなど読んでもなんの価値があろう。それはしかし、大袈裟な SF でなくても良いしマジック・リアリズムでなくても良いはずだ。ミニマリズムの手法を採ったものであっても、こちらの脳裏に強烈に焼きつく小説を書く作者だって居る。彼自身さほど読めていないので保留しなくてはならないだろうが、例えばアリステア・マクラウドなどがそんな作家だろう。「冬の犬」の微細な描写から浮かび上がるドラマ。非日常を「日常」にしてしまう筆力……そういったものに彼は惹かれる(だったら長編であることにこだわらなくても良いのだが、例えば未読のマルセル・プルースト失われた時を求めて』に彼は惹かれるものを感じる)。

いや、逆なのかもしれない。「日常」を非日常にしてしまう、という……そんなことを問い始めたらなにが「日常」でなにが非日常なのか、もっと言えばなにが正常でなにが異常なのか分からなくなってしまう。なにが狂っていて、なにがまともなのか。完全に正気を保った人間など――チェスタトンを引くまでもなく――存在しないに決まっている。病みながら、病とともに生きやがて病を癒す身振り……例えば『ラースと、その彼女』がそういう映画だったことを彼は思い出す。とある個人の狂気を、彼につき合うことで「治療する」のとは違ったやり方で、共存可能にして行く……。

なんの話をしようとしていたのだろうか……彼の話なのだった。彼の「特別な感情」もまた「治療する」ことに依って癒されるものではあるまい(仮にそれが「恋の病」だというのであれば、なおのこと「治療」につき合う医師など居まい)。それと「共存」を図ること……それこそが難しいのだけれど。今日も彼はヒマだった。世の中忙殺されている人々が多い中、『ユリイカ』の最果タヒ特集号を読み、そして沈思黙考する……ヒマであることを罪悪感のように感じてしまうことがある。持て余した時間がそれだけ罪悪感となって跳ね返って来るかのようだ。

そして、これも周知のことだが他人とはヒマ潰し相手となるような存在ではないのである……今日も彼は LINE などで迷惑を掛けてしまった。完全に独りぼっちで居られる技法を探すことは難しい。これまでなら器用にこなせていたはずの「孤独」を耐え抜く作業をこなす力が彼からはからっきし欠けてしまったかのようだ。これまで、「孤独」を埋めるために彼はあらゆることを試みた。例えば彼の眼前に映る「世界」を変容させるための読書……結局のところは彼は本を通して眼前の「世界」を、想像力を繰り広げることに依って自在に歪めて楽しんでいたのだ。さながら 3D の映画を観るように。

逆に言えば、「世界」それ自体を巧く生きられる人々の方が彼にとっては不思議でならない。彼は不器用だからこじれた自意識を抱えて生き、「世界」を読書や音楽や映画に依って歪めることで生き続けて来た。そんなものがなくても生きられる人々……あたかも(と留保しなければならないが)「世界」を柔軟に受け容れ、それを吟味し尽くす人々。彼にとっては「世界」がそれ自体単体としてあることが苦痛だ。そして、とある社会学者はそうした苦痛な「世界」を「日常」として受け容れ、「意味」を問うのではなくその時々の「強度」を味わい生きろと説いたのではなかっただろうか。

話が散漫になってしまった。今の彼の話に戻ろう。彼は今日も差し当たってなにも受け容れられないまま、本も読めずなにも出来ず「世界」を生きた。その途方もない無意味を……あるいは空疎を生きた。彼は働くことが好きになって来ている。ともあれ仕事は空疎な時間を埋める最適な、そして有意義な営みであるからだ。逆に言えば仕事から解放されたあとの時間は無意味として残る。彼にはアルコールという手段も禁じられてしまった。残るのは途方もない無意味……それをしかしどうやって受け容れろというのだろうか。結局のところこの「特別な感情」に引きずり回されて、差し当たって「アンニュイ」を生きるしかないという……彼女はどうやって生きているのだろう?

これを書いているのは夜中だ。女友達がメールの相手をしなくなってしまったようなので、眠ってしまったのだと判断する。彼も眠らなければならない。「規律化された言葉ではない、深層からの衝動によって壁に穴をあけろ」と彼は Facebook で言われたのだった。そのために詩を読み、書くことを薦める、と……だから彼はこうした文章を書き連ねる。これらはしかし「深層からの衝動」なのだろうか。自分にはそんなエゴなどないような気がする。彼の内面は途方もなく空疎だ。その空疎を空疎のまま誤魔化してきたツケが回って来たようだ。アルコールも書物もなく、差し当たって単純に享受出来る快楽もなく……それよりも濃密な存在として、彼女の言葉がそして佇まいがある。

近々彼女と会える……その事実が彼を喜ばせるかというと、それはそれで微妙なところがある。彼女と言葉を交わし、本音を語ることが彼の「特別な感情」をどう変えてしまうか分からないからだ。病はいよいよ解決されるのかもしれないし、余計にこじらせてしまうことにも繋がりかねないだろう。どちらに転んでも危うい、と彼は思う。それまで無傷で完全だった自我が壊れてしまうということ……しかし、それもまた彼の「日常」の中に呑み込まれて、いずれは癒えるという確信を抱くことは出来るだろうか。彼は遂に狂ってしまうのではないだろうか。分からない。言えるのは結局、これまでになかったような体験が訪れるということだ。彼をこれまで以上に揺さぶる何事かが。「そっと運命に出会い運命に笑う」……そんな歌詞がふと頭の中に浮かぶ。これも「運命」なのか。それを「笑う」ことは、果たして可能なのか……。

センチメンタル / There She Goes #10

フェイクファー

フェイクファー

 

彼は自分の中に感情というものがあるような気がしない。感情というもの……いや、ないわけではないのだろう。あると言えばある。怒り、悲しみ、喜び……ただどんな感情も結局は一時的な痛み――あるいは蚊に刺されたような痒み――にも似た他愛のないものとして処理してしまう。だから残存するのはぼんやりとした、この世の中全体に対する憎悪だ。例えば黒沢清『CURE』に登場する間宮のような……自分というものが酷く空疎に出来上がっているような気がしてならない。彼はあるいは生きていること自体が苦痛なのかもしれないし徒労なのかもしれないのだけれど、それを自分で掴めているとは言い難い。

彼は時々「疲れてる?」「しんどそう」「頑張ってるね」と言われる。そうなのだろうか? 苦しいのだろうか。そういうわけではないのだけれど……どちらかと言えば他人からそういう言葉を貰うことの方が――むろん、労いの意味があることは分かっているのだが――彼は疲れてしまう。その言葉に依って彼は初めて「自分が疲れているのかもしれない」ことを考えてしまうのだ。そうすると、突然自然な呼吸が出来なくなるように苦しくなる。だから顔に苦痛を出さないように気をつけているのだけれど、彼の佇まいは彼より正直なのかもしれない(あるいは、彼より饒舌なのかもしれない)。

前にも書いただろうか? 外部から与えられたモノを取り入れて、それを咀嚼して吐き出すだけのこと……彼が書いているものも生きていることも、突き詰めて言えばそういう素材を提供するためなのだろうと思う。おかしな言い方になるが、ある種の職人として……クリエイティヴィティ/独創性というものをなんら持たない、コピーのコピーのそのまたコピーのようなものを産み出すために存在するだけの人間。そういう人間は突き詰めて言えば自我がないということにも通じるのだろう。自我、つまりプライド……自我があってこそ生じるプライドが、それ故に彼には存在しないのだ。

彼は「ある種、内面が空白のような部分がおありだなあと感じることがあります」と言われたことがある。「空白」……自分というものを追い求めて行けばしかし何処にたどり着くというのだろう? 何処にも行けないのではないか……外部に自分が偏在するという考え方を彼は(何故か)採らない。自分自身は自分の例えば脳内や心臓や……といった場所にあるのだ、と考える。極端に言えばそれは点として存在するのではないか、とも。自分は確かにここに居る。彼はそう考える。だけれど、それは恐らく世界の側が彼に働き掛けて来るから(話し掛けて来るから、書いて来るから、送ってくるから云々)生まれるのであって、森羅万象がない場所で自分が居ることを彼は考えられない。

彼は良く「変わっている」と言われる。「変人」である、と。もっと言えば「個性的」だとか、酷い表現も様々……彼女と出会ったのは発達障害当事者と家族の会(もっとユニークな名前があるのだが、流石に明かすわけにはいかない)でだったのだけれど、彼女の佇まいに惹かれたのは多分彼女が「変わっている」からだったのだろう、と思う。伸び伸びとしていた、と語ると彼女に失礼だろうか。彼女もまた彼のように「変わっている」と言われもっと酷い表現を投げ掛けられたのだろうと思う。彼が彼でなくなりたいと思うのと同様の、こんな「空白」の自分をどうにかしたいという(丸ごとイニシャライズしてしまいたいという)思いを抱いているのかもしれない。

でも、と思う。そうなってしまったら/彼女が彼女でなくなってしまったとしたら、一体なにが起こるのだろうか。とどのつまりそこからは、前にも書いたかもしれない掛け替えのない「一個の宇宙」が消滅してしまうことを意味するのではないか。彼女がそのままそこに居てくれるだけで世界は神秘的だとさえ思わせるような、独特のオーラを持つ存在が消えてしまうことではないか、と(誰もが知ることだろうが、世界は神秘的なものが存在するから素晴らしいのではない。世界それ自体が神秘的で素晴らしいものなのだ)。

彼は彼が「変わっている」とは思わないし(周囲の方が理解不能だ)、それどころか「彼自身がそこに居る」とも思わないのでそこにくっきりとした存在感を備えた彼女が居ることの重みを感じる。彼自身が誰かにとってそんな風な人間であるのだろうか、ということをも考える。彼は色恋沙汰らしきものに巻き込まれたこともあるのだが――それは女性からの一方的な幻影の投影に過ぎず、彼はどれほどの痛痒も感じずそれどころかそんな心理を誰かから寄せられることの意味をも感じなかった――今回のような経験は慣れていない。ただそこに居るだけで尊い誰かを思う……これが恋なのだろうか?

彼の書くものが堂々巡りをしていることを彼は自覚している。気分を切り替えて是枝裕和『空気人形』を観るつもりだったのだけれど、それも遂に出来なかった。このような心理状態は、しかしいずれ終わるものなのだろう……いや、彼は一体幾つになったと言うのだろうか? だが彼と同い年の女友達は、それを自然なものであると語る。幾つになっても変わることがない感情……そうなのかどうなのか、それは彼には分からない。だが、ともあれこの感情を持つことの辛さ(この感情が「辛さ」をもたらすものであることは彼も認めざるを得ない)を抱え込みつつ、日々を暮らさねばならない。

もう一度、己に向かって問い直す。これは恋なのだろうか? それとも、病理の一種に過ぎないのだろうか? 分からない。分からない……なんなのだろう? 「あなたに分からないのなら私にも分からない」と、二度目にこんな感情を抱いたことを伝えた相手は語ったのだが……今度の彼女はそれを整理してくれるのだろうか? 理知的に、そして明確に……。

Beyond / There She Goes #9

coctura(remix album)

coctura(remix album)

 

言葉に依って物事の本質を捕まえられるかというとそうでもない。言葉とは本質的に人間の外部に属するものだからだ。言葉は異物として現れる。彼らはそれを「学ぶ」。難しいことを書いているだろうか? いや単純なことだ。誰も「言葉」を外部との接触の中で獲得するという、至極当然のことを書いているに過ぎない。その意味においては、喋ることや書くことは外在する言葉で内在する自分の気持ちや思考などを表現するということに繋がる。そんなことが容易く出来るものだろうか? 出来ないからこそこの世の中は誤解や嘘や誤魔化しで成り立っているのではないだろうか?

ここで舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』を引こう。「祈りは言葉でできている。言葉というものは全てを作る。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる」。そう、「言葉」が織り成すのが「物語」である。彼が今編んでいるのもある意味では「物語」なのだろう。とある女性をめぐるいざこざに関する「物語」……それをしかし書き連ねることは幸せに繋がるのだろうか。彼女との「特別な感情」はそれで癒やされるのだろうか。

職場で彼の奇行が取り沙汰されるようになり、プライヴェートでも色々あって行き場を失ってしまったような気がした状態で、彼はこのどうしようもなくぶっ壊れたテクストを書き続ける。聴いているのはマトリョーシカの『コクトゥーラ』というリミックス版。どのリミックスも良いのだけれど、個人的に彼が愛好するのはヘッドフォンズ・リモートに依る「Beyond」のリミックスだ。それを聴きながら、彼は昨日起こったことを整理してみる。昨日も活字が頭に入らなかった。どんな本を試してみても無駄だった。波多野精一『時と永遠』、舞城王太郎、そして『ユリイカ』の最果タヒ特集号……諦め掛けていたところに最果タヒの『グッドモーニング』が入っているのを見つけ、読んだ。貪るようにして読んだ。

それから彼は彼をそれなりに知る女友達とメールをした。ウォン・カーウァイ恋する惑星』を観ることを薦められた。「恋をすると、人間変わるよ」……この「特別な感情」が「恋」なのかどうなのかは差し当たって脇に置いておこう。『恋する惑星』。彼の(嫌いというわけでもないのだけれど)そんなに好きというわけではない映画……今観直すと印象が変わる、とのことなので近々観てみようと思っている。「恋愛映画」を観るように薦められたのだが、だとしたら今借りている是枝裕和『空気人形』は「恋愛映画」なのだろうか、と考える。

女友達……彼女の人生にはそういう「女」「友達」と呼べるような存在、つまり「特別な感情」抜きでつき合える人が多い。彼だけではないのかもしれないが、彼の人生を変えてくれる存在はいつだって女性だったような気がする。初めて書いた小説を読んでくださった女性、初めてチャHというものを教えてくれた女性、そして彼女……彼女は彼になにを教えるのだろう。彼の内部は空洞だ。彼から彼女に捧げられるものはなにもない。パトリック・ベイトマンのように空虚な存在……いや彼は誰も殺しはしないのだが。あるいはムルソーのようにのっぺりとした存在としての彼をも想起する。

昨日は断酒会だった。他に喋ることもなかったので体験発表としてこの話をした。「特別な感情」を抱いている人が居るということ。なにも手につかないということ。彼女のことを考えればそれが自然となってしまうのではないかと言われたこと、等など……結局は「その気持ちを愉しめば良い」という話になったので、彼は昨日は最果タヒ『グッドモーニング』について感想文を書いた。心に突き刺さって来るフレーズについて考えた。「わたしは考えるとき文字にしなければならないと思っています」(『会話切断ノート』)……不安定な感情で苦しむ彼にとって最果タヒの言葉は身に沁みた。

突き詰めて考えれば、彼は「こじらせ」た人間なのだろうと思う。恋愛感情なのかどうか分からないが「特別な感情」をこの歳になってもなお味わい続けている男……その悩みは「可愛い」と言われ、あるいは「恋をしているなら自然だ」と言われる。さて、どうなのか……本が堆く積み上がった部屋を眺め回して考える。巷で書かれている恋愛小説がさほど面白くないのはこの「特別な感情」を「整理」されてしまった形で表すからだ、と彼は思う。「こじらせ」た人間が「こじらせ」た形で表現している「小説」……そんな「小説」を探しているのに。あるいは「言葉」を探しているのに。

「過去について祈るとき、言葉は物語になる」と舞城王太郎は書き、最果タヒは「私の体とこころを作っているのは明らかに過去の私であって、だからこそ、過去の私は永遠に私を痛めつける存在でいてほしい」と書く。彼は過去を持たない。過去の記憶は雲散霧消してしまっている。下手をすれば「昨日のことさえもずっと昔みたいに」……ここで不意にフィッシュマンズを持ち出してしまったことに彼は驚く。フィッシュマンズ……いや、彼らについて書く余裕はないだろう。いずれにせよ「過去」について考える事の出来ない彼に、「過去」が今を作ることを再確認する作業は酷くリアリティがない。彼は「過去」のテクストを残さない。いつだってこれだけのことは書けるさ、と思って書き記している。だから「過去」のブログの記事もローカルに保存したまま眠らせてある。

「過去」の自分を越えて今の自分があり未来がある……未来の自分は過去の惨めな(その程度の記憶ならある)自分を弾き返すだけの力を備えているだろうか。酒抜きでやり過ごさなければならないこの焦燥感……今日もまた取り留めのない記述で終わってしまった。『グッドモーニング』を暫くは読み返す日々が続くのだろう。

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Let Me In / There She Goes #8

モンスター

モンスター

 

「厳密にいうと、ぼくたちはいつも同じことを書いている。きみは病気じゃないかとぼくがたずね、同じぐあいにきみがたずねる。ぼくは死にたいと願い、きみもそうだ。ぼくが切手を望むと、きみも望み、少年のようにきみの前で泣きたいぼくと、少女のようにぼくの前で泣きたいきみと。一度ならず、十度ならず、千度ならず、ずっとずっときみのそばにいたいし、きみも同じことを言う。もう十分だ」

これはフランツ・カフカがミレナという女性に宛てて書いた手紙の一節である。カフカがフェリーツェ・バウアーという女性と二度結婚し二度破局を迎えていることは、カフカに少し関心のある方ならあるいは周知のことかもしれない。だが、その後にミレナという翻訳家とも交際しており、フェリーツェもミレナもカフカから受け取った手紙は保管していたのだった(カフカは彼女たちから受け取った手紙を焼いたか、あるいは散逸させてしまった)。彼女のことを考える時に、彼はふとこの一節のことを思い出したのだった。

他愛もない思いつきに身を委ねる……例えば彼女はスーパーカーの音楽を聴くのだろうか、というような(彼は他のアルバムも持ってはいるのだが『Futurama』しか聴かないし、それで充分だと考えている)。人間の思考の中には一個の宇宙がある、というようなことを誰か――中井久夫だったと思うのだが――語っていたことを思い出す。従って人を殺すことは一個の宇宙を消滅させることである、と……彼は彼女の中に広がる「宇宙」について思い至る。彼女の中にもきっと「宇宙」があるのだ。外見はごく小さな個体でしかあり得ないが、内部は遥かに広大だ。

同じものを聴いても同じものを観ても、同じことを感じても人に依って感想が違うということ。それはなんと「Wonderful」なことだろう! 彼女の中に映る世界を彼は観たくなるし、彼女が聴いている音楽を彼も聴いてみたくなる。だが、割れた陶器を組み立て直すようにして彼らが噛み合うことはないだろう。そこには必ず違和感やすれ違いが生まれる。そう簡単に人間は「ひとつ」になんてなれない。それは分かっている。そして、と彼は思う。だからこそ面白いのではないか、と。それ故にこの「特別な感情」には意味があるのではないか、と。

フェリーツェのことを彼は書こうとしていたのだった。頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』で、頭木はこのようなことを書いている。正確な引用ではないが――「巧く生きられない人間は巧く食べることが出来ない」と。つまり外部の物質を巧く自分の中に取り込めないからこそ巧く生きられないのであり、あるいは巧く生きられないから巧く外部と関われないということだ。しかしそれなら、と彼は思う。それは読書においても言えるのではないだろうか、と……彼は相変わらず活字が読めない生活を過ごしているのだけれど(森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』を読もうとして、数ページで投げ出してしまった)、活字もまた外部の物質である。それを巧く取り込めないことが、彼の生きづらさと繋がっているのではないだろうか、と。

カフカがフェリーツェに惹かれた理由を、頭木はフェリーツェが当時としては珍しいキャリア・ウーマンだったことにあるのではないか、と分析する。カフカは巧く生きられない薄給の官吏でしかなかった。だからこそ、逞しく生きるフェリーツェに恋焦がれたのではないか、ということだ。これに関してはカフカが実際にフェリーツェに宛てた手紙を読むしかないのだが、『ミレナへの手紙』を読んで果たしてそういうことだったのだろうか、とも考える。フェリーツェは「巧く生きられる人間」だった、のだろうか、と……キャリア・ウーマンだったからこそ「巧く生きられない人間」だったのではないか、と。『ミレナへの手紙』におけるカフカとミレナの生きづらさの共有を読んで、そう考えるのだ。

彼が恋焦がれている彼女が高知能を有していることをは既に書いた。その意味で彼は彼女の中に「巧く生きられる人間」の姿を見出してしまう。カフカがフェリーツェを見たのと同じように……だが、彼女もまた「巧く生きられない人間」であったことを彼は体験談として伝え聞いている。湖に身を投げてずぶ濡れになって帰宅した、首吊りを試みた……「巧く生きられる人間」の中に「巧く生きられない人間」が混在していることが魅力的で矛盾した細部となって彼を魅惑する、と書けば怒られるのだろうか。これ以上は『フェリーツェへの手紙』を読むしかあるまい。

聴いている音楽に自分の思いを投影し、逆に言えば聴いている音楽から自分の現状を推測する癖がある、と彼は書いたことがあっただろうか? 今彼が聴いているのは R.E.M. の「Let Me In」という曲である。カート・コバーンの死を偲んで R.E.M. のメンバーが演奏した曲……悲痛さが胸を打つ楽曲だ。これを聴きながら、あるいは「巧く生きられない」から大量の活字を読み、そしてそれ故に(?)なおのこと生きづらさを抱え込むことになってしまった二階堂奥歯のことを思い出す。『八本脚の蝶』……彼女の遺稿には恋や愛には収斂され得ない「男」への思いを綴った「女性」としての二階堂奥歯の姿が剥き出しとなっている。

だが、今日はこれ以上書く余裕はないようだ。この駄文もそろそろ切り上げなければならない。しかしなにを書いて終われば良いのだろう……そう考えて、彼はふとポール・オースター『孤独の発明』から一節を選び抜く。あるいはこれから語ることにこの言葉が関連して来るかもしれないし、しないかもしれない。単なる抜き書きだ。「なぜなら彼は信じているからだ――もし真実の声があるとするなら、真実などとおいうものが本当にあってその真実が語りうるものだとするなら、それは女の口から出てくるはずだと」(p.202)。むろん、この表現に問題がないとは言わない。むしろ悪い意味で男臭い一節かもしれない。だが、今の彼に妙な後味の悪さを残すものとしてこの言葉を記すに留める。

言葉がウォッカのように透明な場所でなら / There She Goes #7

キューピッド&サイケ’85

キューピッド&サイケ’85

 

帰宅後戯れに、恋と愛の違いについて考えたくなる。そして教わったポール・オースター『ムーン・パレス』の、愛についての定義が語られる箇所を開く。

「僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた。僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。 それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ」

……あるいは舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』を開き、しかし今日は読み返す時間がないので冒頭の「愛は祈りだ。僕は祈る。」という言葉を噛み締める。愛について書かれた小説はしかし、彼にはピンと来なかったものではないだろうか。『好き好き大好き超愛してる。』が舞城王太郎の小説の中でもさほど面白いものだとは思えなかったのは、結局彼が恋愛というものにそんなに興味を持てなかったからなのではないかと思う。舞城王太郎がつまらないわけではない。恋愛小説がつまらないのだ――少なくともかつては。

「言葉がウォッカのように透明な場所でなら、忘却が僕らを近づけてくれるのだろう」という内容の歌詞を思い出す。「Where the words are vodka clear / Forgetfulness has brought us near」……どうとでも読める箇所だ。ただの飲んだくれの男の戯言でもあるのだろうし、深遠な意味を読み取ることだって可能なのだろう。「ウォッカのように透明な」「言葉」……80 年代に作られたどんな音楽にも増して(マイケル・ジャクソンやプリンスにも増して、ジーザス・アンド・メリー・チェインやザ・スミスにもペット・ショップ・ボーイズにも増して、等など……)美しいこの曲を聴きながら彼はこの手記を書く。

彼が語る言葉はビールのように濁っている。あるいはビールを飲み過ぎて放たれる小便のような異臭を放っている。だから、なかなかポール・オースター舞城王太郎のような気が効いた言葉を語れない。リアルの会話は、単に歯ブラシを一本買うことでさえ彼にとっては苦痛の連続だ。喋ろうとするとテンポが早くなり過ぎるか遅くなり過ぎる。吃り、つっかえ、そして噛む……彼女の喋り方についてはもう書いた。歯切れの良い口調、ロジカルな言葉、落ち着いたトーン……彼女はなんと美しいのだろう。二度しか話したことのない彼女の言葉こそが、彼には「ウォッカのように透明な」「言葉」に聴こえる……。

彼女を見ているのだろうか、それとも彼女の言葉を見ているのだろうか? 彼女の端正な言葉に幻想を抱くあまり、彼女自体を歪んだ意識で見てはいないだろうか? ここで手詰まりとなり、積んだままの大澤真幸『恋愛の不可能性について』という本をパラパラとめくるのだけれど、ふと「情熱とは、言うまでもなく、感情の高揚を含意しているが、情熱愛において興味深いのは、それが、苦悩への高揚であった、ということである。つまり、情熱愛においては、他者を享受する快楽が、純化された苦悩と合致してしまうのだ」というフレーズが目につく。これもなんでもないような言葉だ。

純化された苦悩」……彼自身が抱える恋の病(?)とはつまり、そのようなものなのだろう。つまり「愛」の「快楽」があるから故の「苦悩」、逆に言えば「苦悩」なくしては存在し得ない「愛」……それを平たく言えば、恋をしているのであれば恋の病(と、差し当たり語っておこう)を抱えることは必須であり、恋の病の中に恋の本質があるということなのではないか……と。今日のメモは引用で終わってしまいそうだ。それでなにが悪いというのだろう、と彼は思う。ここで撒き散らされた種が、いずれ花を咲かせることもあるのではないか。だから今日は散々種を撒き散らすことにしよう。

「Every time I see you falling / I get down on my knees and pray / I'm waiting for that final moment / You say the words that I can't say」というフレーズも頭をよぎる。さっきとはまた違ったグループの曲。試訳するなら「いつだって君が落ちる時/この僕は跪いて祈るんだ/最後の瞬間を待っている/言えない言葉を君が放つのを」となるだろうか。これも 80 年代に生まれた曲の中では抜群に好きな曲だ。「言えない言葉を君が放つのを」……ぎこちない訳文になってしまったことで、結局過去に翻訳家となることを諦めて正解だったことを知り、彼は恥を感じる……。

「言えない言葉」……彼女の口から、きっと永遠に放たれることがないだろう言葉が飛び出すのを想像する。それはざっくり言ってしまえば、「あなたを愛している」という言葉なのだろう、と。彼女の歯切れの良い喋り方が、彼にそう告げることを彼は待ち望む。だが、それは叶わないことを彼は一番良く知っている。どうしたものか……彼に出来ることは結局「祈る」ことでしかない。「祈る」……それは他者を攻撃しないことだ。自らの内でなにかを念じる……ラース・フォン・トリアー奇跡の海』で妻がひたすら祈ったように、彼は彼の中の彼と対話を重ねる。今日の駄文も、そんな彼自身の「祈り」の産物に過ぎない。

「Each time I go to bed I pray like Aretha Franklin」……また違うフレーズを思いつく。アレサ・フランクリンのように祈る……いつもベッドに行く時は。だが、これ以上考えるのはもう止めよう。彼は疲れている。

Unknown Pleasures / There She Goes #6

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

 

戯れに山崎浩一『男女論』のページを繰ってみると、こんな記述にぶつかる。「ぼくたちは、本当に恋愛という厄介でのっぴきならない〈関係〉を引き受けることを求めているんだろうか。単に『私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材』を求めているだけなんじゃないだろうか。『私に素敵な思い出をくれるだれか』だけが欲しいんじゃないんだろうか。(中略)だとすれば、『他者』なんぞという厄介な相手と恋愛なんぞというしちめんどくさい手続きをするまでもなく、情報資本主義のショーウィンドウにいくらでも揃っているのだ。ほら、ここにも、ほら、あそこにも。世界は『恋愛』でいっぱいだ!」

彼はこれまで十数回は読み耽って通り過ぎたはずのこの箇所に今更ぶつかり、思考を重ねる。「情報資本主義」は「恋愛至上主義」とも読み替えられるのだろう。「恋愛至上主義」……つまりあたかも恋をしなければならないかのような風潮を彼はひしひしとこれまでの人生で感じて来た。以前にも書いたかもしれないが、彼は恋愛感情というものがどのようなものなのか分からない。そういう感情を「持たない」わけではないことは分かって来たようなのだけれど、そういう感情を「どう位置づけて良いのか」には困ってしまって今悩んでいるところである。

山崎浩一のコラムの中で引っ掛かる言葉が「私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材」というところである。「人生を」「物語にしてくれる素材」……恋愛とはもしかすると人が「物語」を生きるための「素材」なのかもしれない。だというのであればそこに本来なら他者との関係を重んじなければならない「恋」の本来あるべき姿とは随分倒錯しているように感じられる。人は「恋」をしたいのではなく、「物語」を生きたいのではないか……と思うのだ。そして、その「物語」を生きたいという気持ちは彼にも分かるのだった。

敢えて言えば、人間の人生は「物語」としては出来上がっていないのだろう。いや、スティーブ・ジョブズ的に言えばあとになって過去に自分が行ったことを、点と点を結びつけるようにして一本の線という「物語」を組み立てることが出来るのだろう。あるいは、起こり得たことに意味があるのかどうかという側面からも見てみよう。そうすれば佐々木敦未知との遭遇』で語られて来たようにあらゆる出来事は「そう来たか!」と自分自身が練り上げる人生という「物語」の中に位置づけることが出来る(ここで千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』に触れられないところが彼の限界である)。つまり、人は自分が作り上げた「物語」を生きている。ライフヒストリー……大袈裟に言えばそういうものだ。

人はそのようにして「物語」を織り成し、そしてその中で生きている……例えばそれはなにも自分が自分の「物語」を織っているのではなく、人に語らうことで自分の体験を「物語」化し浄化するという試みだって変わりはあるまい。例えば村上春樹アンダーグラウンド』で村上春樹が人の言葉を聞いてヒーリングを施したように……なんてことはない。自分でも整理のつかないことを語ることに依って整理をつけて治すというたったそれだけのことだ。その意味では人は「物語」を必要としている。「物語」の中に自分を統合させ、そしてそれに依って順序立てて何事かを語ることが出来た時に人は癒しの作業を終えているのだ。

だが、ここで一片の疑問が起こる。書物なら、あるいは映画ならそれを「物語」の中に導入することは容易いのだろう。折に触れてこんな本を読みこんな映画を観て来た、等など……だが、今度は人の居る事柄である。彼女についてなんと説明すれば良いのだろう。「僕の『物語』を完成させるための素材になって下さい」? それはしかしかなり乱暴な事柄に入るのではないだろうか? 彼女の存在がこの小説らしきものを書かせていること自体は確かだ。だが……と思う。何処まで彼女のことを「物語」を完成させるための素材にして、何処からそんなちゃちな「物語」を壊すための異物として受け容れなくてはならないのか……。

人は中置半端に出来上がった自己だったか自我だったかを壊すために恋愛をする、あるいは恋愛は中途半端に出来上がった自己や自我を壊す、と橋本治は何処かで記していたことを思い出す(『89』だっただろうか?)。だというのであれば、彼女の存在をヤワな「物語」の中に取り入れて「これは『恋』だ」とすんなり受け容れることだけは断じて慎まなくてはならない。それは思考におけるある種の怠惰さの現れだ。どう整理しようが位置づけを拒むものとして彼女を「他者」として受け容れること。それが彼に求められる最大の誠意なのだろうと思う。

「恋」として安直に受け容れるのではなく、それが「恋」なのかどうかという疑問を保持し粘りに粘ること……例えば(冒頭しか読んでいないので分からないのだが)マルセル・プルースト失われた時を求めて』が教えるように濃密なまでに感じられた感情を味わい尽くすこと…… 今の彼に求められているのはつまりそういうことなのだろう。この恋の苦しみを「エンジョイ」すること……読みたくなったものを読み、聴きたくなったものを聴き、語りたくなったことを語ること。裏返せばそう出来ない事柄についてはなにもしないこと。これもまた最大の誠意なのだろう。

だから、これは結局は「特別な感情」なのだと彼は自分に向かって言い聞かせる。これは「恋」なんかではない、と。だけど、彼女はどう受け取るのだろう? 「これは『恋』ではないかもしれません。僕にとって『特別な感情』なのです」……と語られて、彼女はその言葉の含意を読み取れるのだろうか? それはなにはともあれ彼女に任せることにしよう。この「これは恋ではない」感情に関して彼は幾らでも書けそうだが、差し当たりこのあたりで一旦筆を休めて暫く静かに考えることにする。少し歩くのが良いのかもしれない。そうすればなにかが氷解してしまうのかもしれない。

「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」 / There She Goes #5

New Adventure

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金井美恵子『道化師の恋』で、「そうなんだ、あたしは恋をしている!」という不意の啓示(らしきもの)に登場人物が打たれる場面が登場することを、彼は思い出す。「恋をしている!」……この箇所のこと以外『道化師の恋』の内容はほぼ忘れてしまったのに等しいので、自分の記憶力の減退を感じて溜め息を吐きながらしかし初読の頃の自分の感想を思い出そうと考える。この箇所があるからこそ自分はこの小説をずっと記憶し続けられていたのではないか……いつぐらいから読み返していないのか分からないが――きっと彼が高校生の頃に読んだきりなのだろうと思うのだが――この箇所に彼にとって重要な意味があるような気がしたから覚えているのかもしれない。

「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」……この言葉の不自然さに彼はずっと引っ掛かっていたのだった。いつになれば人は「今恋をしている!」などということに気づくのだろうか、と。彼には「今恋をしている!」と自覚出来た瞬間はない。いや、「恋」をしたことはこれまでの人生であったのかもしれないが、それを「恋」として自覚し自分の中で落とし込んで整理出来たことはない。途方もない感情の揺さぶりが到来し、そして浮ついた気持ちになりあるいは落ち込む……その感覚をしかしどうしたら「恋」と呼べるのだろうか。

「恋」とは、例えばこんなことではないかと彼は考える。丹生谷貴志加藤典洋を批判した文章で丹生谷は「現場において『理念』の下に戦い死んで行く者などいない」と記している。「なるほど人は『理念』 のために戦う決意はするだろうが」「例えば(誰だっていいのだが)カントが詳細に分析したように、実践現場の者は次々に現れる『出来事』 の中に解体して行くのであり、そこに訪れる『死』 は文字通り『理念』には決して還元され得ない出来事である」 と。しかしこれは「恋」にも言えることなのではないだろうか?

「恋」とはつまり「理念」などではない。世間一般的に言われている「恋愛のディスクール」に染まり、例えばフローベールボヴァリー夫人』のように「恋に恋する」人は現れるのかもしれないけれど実際に自分の身に個人的に起こってしまう出来事はそんなに、通説通りに「あたしは恋をしている!」という形で腑に落ちるものとして現れないのではないかということだ。出来事は――なんなら明日訪れるかもしれない私の「死」にしたって――敢えてこんなことを書けばもっと散文的な、ドラマ性に収斂されない何事かであるのではないか、と。

「恋」は文字通り「理念」には決して還元され得ない出来事である……それが「恋」なのだろうか。つまり、これが「恋」であるとは語り得ないものこそ/までもが「恋」なのだろうか? だというのであれば「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」という言葉は一種のネタ/ギャグとして――金井美恵子の小説は本質的に「ギャグ」だろう――読むべきなのだろうか? 「恋」というものは遂に分からない「出来事」であり、彼はその「次々に現れる『出来事』の中に解体して行く」存在でしかあり得ないからだ。だというのであれば、彼は「恋」という感情を恐らくは「恋愛のディスクール」とは異なる場所で体感していることになる。

……いや、だというのであれば彼は何故それを「恋」として納得するのだろう。それはきっと、彼が感じていることが多くの人々から「恋」ではないか(その不可解さ、唐突さも含めて)と指摘されたからであり、かつ『道化師の恋』を想起したように――別にそれは『眠れる美女』でも『ノルウェイの森』でも、『痴人の愛』でも『好き好き大好き超愛してる。』でも『ロリータ』でもなんでも良いのだが――「恋」を描いた物語の登場人物に己を照らし合わせることが出来るからに他ならない。彼が「恋」なのかどうなのか分からないことが、世間では「恋」という言葉で整理づけられるのだ。たとえそこに僅かな違和感や感情的綻びを感じようとも……。

散文的な「特別な感情」は、こうして「恋」という曖昧な(詩的な?)概念の中に位置づけられる。だとすればこれまで彼に生じたことも、これから彼に生じることも基礎的には「恋」のもたらす現象として整理づけることが出来る……職場で喋り過ぎて叱られること、活字が頭に入らないこと、なにも手につかないこと、等など……言葉に依るラベリングはしかし、「恋」だというその感情がもたらす奇行を抑えるものなのだろうか。むしろ「恋」なら「恋」がもたらす狂騒状態に拍車を掛けてしまうことに繋がりはしないだろうか? 書くことが病を癒す場合もあるだろう。だが、書くことでこじれてしまう病もあるのではないか? と書きながら彼は考える。

だとしたらどうしたら良いのだろう……分からない。だが、ともあれ書くことが揺らぐ彼の心理を観察させることに繋がるのなら、シュレーディンガーの猫の逸話が教えるようにその「書く」という営み自体も「恋」のあり方を歪めてしまうことだろう。そんな経験は唯一無二である。四十代の男が「恋」のことについて書きながら/考えながら「恋」をする……そんなことが日常的に起こることなのだろうか? そう頻繁には起こらないだろう。あるいはこれは 10cc の「I'm Not In Love」の歌詞が教える通り「馬鹿げた過渡期の戯れ(It's just a silly phase I'm going through)」なのだろうか。分からない……。

人は絶望すらも楽しむことが出来る生き物である……ワールズ・エンド・ガールフレンドの音楽はそんなことを彼に教えてくれた。今彼は My Little Lover の歌詞のことを考えている。「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」……彼が差し当たって感じているものが絶望としての「恋」なのか希望としての「恋」なのか、それは彼には分からない。分からない、分からない……書けば書くほど彼の中には謎が残る。恐らくは、言葉が何故通じているか分からないのに言葉を使うのと同じように、「恋」とは何故それが「恋」でなければならないのか分からないまま使われる言葉なのだろう、そう彼は思う。