There She Goes

小説(?)

Hurtbreak Wonderland / There She Goes #4

Hurtbreak Wonderland

Hurtbreak Wonderland

 

突き詰めれば彼の身体は、あるいは精神は、誰かから与えられたものに依って構成されている。言葉が/思考が……彼がオリジナルで編み出したものなどこの世の中には存在しない。彼はむしろアイデンティティを持った存在として収縮して行くのではなく、会社なら会社、友人なら友人、家族なら家族といった多様な関係の中でアイデンティティを引き裂かれながら生きていることを意味するのだろう、といったことを例えばポール・オースター『ガラスの街』を読みながら考える。引き裂かれるアイデンティティ……他者との関係の間で無数に砕け散ってしまうアイデンティティに整合性などありはしない。自己は矛盾する。恐らくは彼が考えているよりももっと容易く……。

……というようなことも既に誰かに依って言われてしまっていることの後追いでしかないことに(要するに「スキゾ」と「パラノ」の話なのだろう!)気がついて、彼は改めて自分が凡庸な人間でしかあり得ないことに落ち込むのだけれど、「自己」なんてものがないと考えれば――「自己」とは要するに「他者」との関係の中でこそ立ち上がるものであることを考えれば、つまり「他者」が現れて彼/彼女とコミュニケートすることに依って初めて「自己」が生まれることを考えれば――それで幾分かラクになったような気はするのだ。「自己」が必ずしも整合性を備えていなければならないわけではない。それどころか、整合性がないからこそ「自己」は面白いのかもしれない……。

彼女との「特別な感情」――それを「恋」と呼ぶことだけは抵抗があるのだが――について考えながらワールズ・エンド・ガールフレンドの『Hurtbreak Wonderland』を聴いている。これまで何度も聴き通そうと思って聴けなかったアルバムなのだけれど、不思議と頭に入って来る。そうしながら彼は考える。彼の中で起こり続けている何事かの変化を……彼女のことを考える度に/あるいは彼女のことを考えなくとも、彼には変化が起こっている。いや、そもそも変化のない人間など居ないのだろう。人間のアイデンティティとはもっと動的なものであるはずだ。他者の矛盾する言動によって揺さぶられ、そうして安定を失い、そして取り戻す。その繰り返し……そうした揺らぎの中にこそ「自己」はある。

たまたま古井由吉『野川』について彼が自分で十年前に書いたメモを読んでいたのだけれど、その中に彼自身も忘れてしまっていたポール・オースターの次のような言葉が引用されていた。「物理的にどんなに孤立しても――無人島に置き去りにされても、独房に幽閉されても――自分のなかに他者がいることがわかる。言語、記憶、それこそ孤立感に至るまで、頭に浮かぶあらゆる思いは他者とのつながりから生じている」。「孤立感」も「他者とのつながりから生じている」……そのことを彼は考える。彼女が居ない今、彼女とどう足掻いても連絡を取れない今、彼はその「孤立感」について考える。自分ではどうしようもないものについて……。

「自己」は揺らぎの中にある、と書いた。揺らぎに依って生み出される「自己」は従って、個々人に応じて相当に違ったものになるのだろう。彼と彼でない人間の相違、「自己」と「他者」の相違……それを人は「個性」と呼ぶのだと教わった。「個性」……「自己」の、彼の私淑するコラムニストの言葉を使って言えば「ゆがみ」……その「ゆがみ」を確認する作業が彼にとっては文章を書くことであり、逆に言えば彼は彼の「ゆがみ」を書くことに依って初めて知るわけだが、その作用がフィードバックして来てまた新しい「自己」を作る。書くこともまた、自分という「他者」を通して始められるコミュニケーション……これもまた分かり切ったことだ。

「彼女ならどう答えるだろう?」と彼は考える。彼女らしい切り口でこの問題をどう答えるか……彼の中に棲みついた彼女が語ること。むろんそれはリアルの彼女が語ることではない。「彼の中に棲みついた彼女」と「彼女」は違う。彼が彼女を見ている時に、彼は「彼の中に棲みついた彼女」の像を増幅させて考えることは出来るけれど、「彼女」を見ているのだろうか? 突き詰めて考えれば主観以外の世界はあり得ない……やれやれ、これもまた陳腐な事柄に過ぎない。彼の思考が産み出すこと、そして書くことはそういった凡庸な哲学談義の域から遂に出られない。彼の知らない言葉を探す他ない。

彼は聴いている音楽に依って、読んでいる文学に依って自分のコンディションを把握することがある。活字が頭に入らない状態で辛うじて読めたものが、例えばストーカー男の小説(川端康成『みずうみ』)だったり「恋多き男の自殺願望」であったり(頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』)、あるいは「中年男の失踪」を描いた安部公房砂の女』やポール・オースター『ガラスの街』であったり……危うい状況に置かれているのが彼には分かる。だが、彼に相応しい答えは書物の中にはない。最終的に彼は油照りの中を待ち続けるしかないようだ。

彼は語る。喋る。それは常に周囲と齟齬を来す。それもまた彼の「ゆがみ」に依るものなのだろう。彼の絶えず変化し続ける「ゆがみ」という「自己」のあり方……それを彼女は肯定してくれるのだろうか? それはもちろん、彼を「恋人」として受け容れることではないだろう。彼の存在を包み込み、許容し、理解しようとすること……平たく言えば「友達」になること。それを彼は求めている。だが、それを決めるのは彼女なのだ。その決断の時が訪れるのを、「待つ」しかない……なんらかを「待つ」……例えば太宰治の小説の主人公のように? あるいはムルソーのように(ここでベケットを持ち出せないことが、彼の限界を示しているのだが)?

ともあれ、「待つ」しかない。それまでこの「Hurtbreak」を「Wonderland」の中で起きた愉快な出来事として、受け容れるべきなのだろう。そう、人は楽しもうと思えば、叶わない願いを抱く絶望すらも楽しめるのだ(そして、恐らくそれは「幸福」なことなのだろう……)。

Synchronicity / There She Goes #3

シンクロニシティー

シンクロニシティー

 

油照り、というのだろう。じりじりと焦がされて行くような苦しみ……一滴の水分すら補給し得ない状況に置かれているような感覚……今日は彼はサミュエル・ベケットの本を図書館で借りたのだけれど、読みながら活字が全然頭に入らなくて同じ日に残雪の小説を読みたくなって、読み進めた。すると何故か安部公房の小説を無性に読みたくなって、未だ読んだことがなかった『砂の女』を買い求めたのだった。そうしたらポール・オースター『ガラスの街』を読みたくなってしまい、これは図書館で借りて両者を併読する内に『ガラスの街』の主人公の孤独な佇まいに惹かれて彼の行動を追い求めることになってしまった。その後仕事の始業時間が来たので仕事に入った。

意識を止めたいと思うことがある。眠りだけが意識を止める唯一の手段だとするならば、この世はなんと残酷に出来ていることなのだろう。頭の中でひしめき合う観念……それは厳密に言えば眠りの中でも続いており夢として現れるわけだが、だというのであるならば意識は止められないものだと語るしかなくなる。止められない無限運動が続く意識を唯一止める方法があるとするなら、それは死ぬこと、あるいはその死のギリギリの地点まで意識を追い詰めてしまうことなのだろう。彼はそんな試みを三度行ったことがある。世間で言われるところの「オーヴァードーズ」というやつだ。三度……三度目は胃洗浄まで行ったというが全く記憶に残っていない。

頭の中が弾け飛ぶような体験……それを彼は三度味わった。三度だ。それはきっと人よりも多いのだろう。時間もなにもかもスキップしてしまうような体験……多分盤面に傷をつけて音を飛ばせて実験的な音楽を作るミュージシャンの気散じにも似た、戯れとしての自己破壊。彼はリストカットを行ったことは一度もない。自分の腕から血が流れるのを彼は正視出来ない。その程度の繊細さなら持ち合わせている。あるいはそれは臆病さなのかもしれないのだが、リスカに依って生まれるアドレナリンの快感といったものが彼には想像出来ない。そんなエミネムのリリックのような出来事がこの世にあるのだろうか、と沈思黙考する。

だから、強いて言うならば本を読むことは他人が産み出した思考のリズムに自分の思考のリズムをシンクロさせて行くことに依って、自分の思考を他者と同調させて意識を飛ばす――それは「フロー状態」と呼ばれるものなのかもしれないが――ことなのだと彼は考える。突き詰めて言えば、思考停止にも似た稼働。彼はそのようにしてこれまで他者の思考に自分を同調させて、他者の思考に憑依されて自己を放擲することを繰り返して来た。映画にも音楽にも感じられない快感……思考が織り成すものを伝える最も簡便な手段が言葉だとするのであれば、それは紛れもなく本だけが味あわせてくれるものなのだと思う。

彼女の話をした方が良いのかもしれない。彼女のことを好きになった理由、「特別な感情」を抱いてしまった理由が他でもなく彼女の言葉遣いだったと言えば、それは幼稚に過ぎるだろうか。不自然な敬語、しかし言い淀みのないソリッドな言葉。思考に例えばレコードの盤面の一分間の回転数を意味する BPM というものがあるのだとしたら、彼の 33 回転の思考と比べて彼女の 45 回転の思考はテンポが良く、次々と溢れ出て来る言葉にすっかり彼は魅了されてしまったのだった。言葉が棒のように語り連ねられる……というのはマックス・ブロートがフランツ・カフカを評して語った言葉だと聞くが、そんな感覚を彼も感じたのだ

彼女の言葉の歯切れの良さ……裏返せば(おかしな表現になるが)彼は彼女の言葉しか見ていない。彼は彼女を正視出来なかったのだから、彼女が彼好みのルックスなのかどうかさえ彼には分からない。そのようなものは、と彼は思う……淀みない言葉の魅力の前では、彼女がどのような姿態であろうと別に構わないではないか、と。それが重要なことなのだろうか。ルックスを重視するだけが「特別な感情」あるいは恋の必要条件ではあるまい。彼は彼女の佇まいのことを思う。白いブラウス。スカートの色までは忘れた。正座して、じっとメモを取りながら思いついたことを淡々と整理して行くその素振り/口振り……それが「特別な感情」を産み出すに充分な条件でないとしたら、一体なにが充分な条件だと言うのだろう。

彼は彼女と直接語らったことはない。以前にも書いたがスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』を渡した時に少し喋った程度だ。本を渡し、彼らしくない早口な口調で「読みたくなければ読まなくても良いから」と押しつけるようにして渡した、というのが彼が記憶するファースト・コンタクトだ。そのやり取りの中だけに既に彼は彼の下心を含ませる思惑があったわけだが、彼はそれだけのこと、つまり「本を貸す」ということだけの中に彼なりになにかを伝えられたらという思いを込めていたわけだ。それが伝わったのかどうかは彼女に訊くしかない。

彼女に会えるのがあと八日後……八日。その日々を油照りの思いで過ごさねばならないことは既に書いた通りだ。一体人は、恋の病(?)の中でどれだけのアルコールを摂取するのだろう。気散じとしてのお手軽なオーヴァードーズ……彼には諸事情がありそれも禁じられている。だから残された手段はスマホを開いて SNS を眺めたり、毛繕い的なやり取りをしたり(「宮迫博之のことどう思う?」といった、リアルとは無縁の話題だ)、せいぜいその程度だ。彼は興味が無いせいでテレビも見ないし漫画も読まないので、そんなことだけでしか人とコミュニケート出来ない。

世の中にはあらゆる情報が溢れている。あらゆる……しかし、人の経験知に依って出来上がった理屈はなかなか情報として流通しない。口当たりの良いサクセス・ストーリーや自己啓発本の類の中に溢れ出してしまい、それよりももっと肝腎なことは文学の中に埋もれてしまう……ここまで書いて、ポール・オースター安部公房の共通の主題である「失踪」というキーワードについてなにも語っていなかったことに気づくのだった。次に書ける時が来れば、そのことについて書くかもしれない。それまでに安部公房『燃えつきた地図』を読まなければ……。

F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. / There She Goes #2

パルプ・ヒッツ

パルプ・ヒッツ

 

今日も彼は一日を、どんな本を携帯するか考えるところから始める。むろん全て読めるわけではないのだが、マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』や古井由吉『仮往生伝試文』、そして昨日読み掛けて中断したスタニスワフ・レムソラリス』、最果タヒ『空が分裂する』『グッドモーニング』、カフカ『変身』といった本を携帯する……差し当たって「恋する男」である彼には今どんな活字を読みたいのか分からない。だから外出先で出たとこ勝負になるわけである。夏目漱石の『三四郎』を薦められたので、それを読むのもひとつの手なのかもしれない。

まだるっこしいことは嫌なので彼女の話をしよう。「彼女」……これまでに二度お会いしただけの人間に「特別な感情」を抱いてしまうことは当然のことなのだろうか。しかもそんなに親しく話し込んだことがない方である。二度目にお会いした時は彼はスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』という本を渡した。後に彼女の母親に会った時に談話したところ、熱心に彼女は読んだそうだ。気に入られたのか、と少し嬉しくなってしまった。

彼女とは発達障害当事者と家族の会で出会った。高知能を有しておられる方で、だからなのか彼女からはオーラを感じた。正視出来ないほど眩しい……それはしかし、彼女が高知能を有しているから惚れたとかそういう話にはならないはずだ。だというのであれば彼よりも高い知能を持っている方、読書の幅が広い方、映画の知見が広い女性は沢山居る……だが、彼女は彼女として取り替えの効かない存在なのだ。彼女を失ったからといって「では次の女性を探そう」という話にはならないはずだ。それでは安直に過ぎる。

極論を語るとしよう、彼女を失う。だとしたら彼女に幾ら似せたアンドロイドを作ったところで、あるいは彼女と同じクローン人間を作ったところで、しかし「でもこれは『彼女』ではない」という一滴の違和感が残ることになる。彼女は彼女でなければならない……欠点も美点も含めてありのままに愛するということ、それこそが恋の要諦なのだろう。逆を言えば、「欠点も美点も含めてありのままに愛する」ことを彼女が彼に対して行うことは可能だろうか(あるいは彼女以外の女性が彼に対する場合でも良いのだが)?

彼は自分が欠点だらけであることを感じる。安月給でみすぼらしい服装、読書しか取り柄がないこと(その読書の内実もお粗末であることは書いたかもしれない)。そしてルックス……彼はこれまでの少年時代を、女性から蛇蝎の如く忌み嫌われて育った。女性というものはアンタッチャブルな存在なのだ――だからミソジニーに行かなかったのが何故なのか分からないのだが、ともあれ歪んだ男女観を有していることは確かだ。これに関しては自覚がないので厄介なところなのだが……。

彼女を失う……彼女には既に彼氏が居るとのことなので、だというのであればこの「特別な感情」を伝えて友達としてでもつき合わせていただきたいと思っているのだけれど、いずれにせよ彼女もまた手が届かないところに行ってしまう……「There She Goes」……これまでの人生で彼は二度こんな「特別な感情」を味わったことがある。一度目はリアルでお会いした時にその方と「実は私、結婚する彼氏が居るの」という話になって「お友達」として接させて貰っている。小説を読んで貰ったり、年賀状のやり取りをしたり、云々。二度目はネット恋愛で即座に相手に気持ちを伝えることが出来た。今ではその方はバイセクシャルということなので彼氏や彼女が居られる一方で、これもまたメールの送信などで仲良くさせて貰っている。これが三度目なわけだ。

こういう場合女性はどう思うのだろう? 「ひとりでも多くの方に好かれたい」と思う方も居られれば「彼氏一途に振る舞いたい」という方も居られるということなので、そのあたり判別し難い。それは繰り返すが、「特別な感情」である。それはパルプの曲名を借りれば「F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E.」なのだろうか? 彼には恋愛感情というものが良く分からない。だから彼はそれを「特別な感情」と呼ぶ。

「『恋愛感情』というものが良く分からない」……他人にこの情緒不安定な状態を説明すると、「それか『恋』ではないか」と言われる。それが「『恋』なのかどうなのか分からない、と彼は答える。事実、分からないのだから……そうすると「恋は『これが恋だ』と明確に説明できるものではないと思います。『もしかしたら恋なのかもしれない』『でも違うかもしれない』と曖昧な状態に迷う、戸惑うのも、恋の一範囲……と捉えられるかもしれません」と言われたことがある。この戸惑いも「恋」なのだろうか。

それでここ数日読書が捗らなかった時に頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んで、「待つ」ことの重要さについて考えたのだった。突き詰めれば人生は「待つ」ことに依って費やされる。彼女との再会も「待つ」ことでしか凌げない。ただ、その「待つ」という過程が途轍もなく長く感じられるのはどうしてなのだろう。突き詰めて考えれば人生は「死」を「待つ」だけのプロセスである。なんらかの到来が訪れるのを「待つ」こと……「生きること」それ自体がある意味では「待つ」ことではないだろうか? そんなことを考えれば、恋人のリアクションを待てずに手紙を書きまくったフランツ・カフカのことを思い出す。

カフカは散文やメモや小説を自由自在に書いた。だからカフカの書いたものを読んでいると、カフカの世界に迷い込んだような気持ちになる。願わくばこの文章がそんな自由気ままなカフカの書きぶりと同じもの――むろん、質は違うが――であってくれたら良いなと思っている。この散文ともエッセイとも「小説」ともつかないものが、あなたの心を少しでも動かすものであれば良いな、と思っている……私もまたカフカを真似て、一文の得にもならない文章を書き、なにかが到来するのをカフカスタニスワフ・レムロラン・バルトを読んで過ごす……素敵なことではないだろうか?

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恋する男 / There She Goes #1

There She Goes

There She Goes

 

彼、の話をしよう。

と書いて、何故この文章は「彼」という三人称で書かれなければならないのかを考える。彼、でなくても良いのだ。「彼」でない人間……例えばヨーゼフ・Kやグレゴール・ザムザムルソー、竹原秋幸、あるいは――「彼、の話をしよう」と書いたこの一文の書き手が想定している――阿部和重アメリカの夜』の小説の主人公の中山唯生。そういった名前を持つ書き手であっても良いわけだ。なんなら「私」でも……だが、この文章の書き手は「彼」という三人称で語ることを欲している。「私」であってはならない。その理由は「彼」、「私」、あるいはこの文章の書き手にさえも分からない。

「彼」と呼ばれるのであるならば、当然のことながら肉体的には男か女かどうかを問わず、精神的には「男」であるべきである。あるいは、そうあるはずである……「彼」がそう呼ばれることを喜ぶかどうかは別として/もしくはそう呼ばれることが相応しいかどうかは問わず。兎に角この文章の書き手は、主人公を「彼」と呼ぶことを望む。そして、これから書き連ねられることは「彼」に纏わる何事かであるはずである。小説とはそういう風にして始められなければならない。

……と書いて、ここでまた逡巡する。「彼」は、あるいは「私」は(もしくは端的にこの文章の書き手は)「小説とはそういう風にして始められなければならない」と書いた。ということなのであればこれから繰り広げられることは「小説」なのだろうか。だというのであれば、それはどういう定義においてだろうか。さほど「小説」というものを読んだこともなく、ましてや読んだ量より遥かに少ない量の「小説」と思われる文章しか書いたこともない「彼」(や「私」や……etc.)の書く、ざっくり言えば「この文章」は、「小説」と呼ばれるに相応しいのだろうか。

だが、ともあれ書き始められたものは書かれなければならない。あらゆる書き手は恐らくこのような、一見すると斬新なようでありながら実は単に極めて陳腐でしかあり得ない問いを軽々と乗り越えて、書き進めて行くのだろう。「小説」を……彼には(もう「彼」という言葉をめぐるグルグルとした問いは繰り返すまい)そのような問いを追及するだけの根気はないし、またそれだけの教養もない。彼はサミュエル・ベケットでもなければフランツ・カフカでもない。あるいは松浦寿輝丹生谷貴志でも、ポール・オースターでも後藤明生でも、誰でも良いわけだが数多と居る、「小説」と「小説」でないものの境界線の上に立つ書き手でもあり得ない。彼は彼である。それだけは確かだ。

さて、今日起こったことを彼の視点から書くことにしよう。彼は午前中はピザトーストを食べた。そして午後に思いつく様々な本を手に取った。大西巨人神聖喜劇』、フランツ・カフカ『変身』、スタニスワフ・レムソラリス』、テッド・チャン『あなたの人生の物語』、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』……今の彼のような人物、差し当たっては佐野元春の歌の題名を借りれば「恋する男」のような人物、にも関わらずそれを――それが「恋」と呼ばれるべきものかどうかは後日また考えよう――伝えられない人物、だからあらゆる活字が頭に入らないで苦しむ人物には「それまで読んだことがないような作品が頭の中に入るのではないか」と薦められたからである。だから食わず嫌いで済ませていた SF を手に取り、ページを繰った……ページを繰るだけで終わってしまった。

それにも飽きたので LINE で知人とやり取りをしている内に「リアルで会わないか」という話になり、緊急にリアルで相互に話すことになった。彼が、彼の言葉を使えば「特別な感情」と呼んでいる感情、恐らくは「恋」と呼ばれるだろう感情の話をすると彼の相手は、「『恋する男』においてそうしたことは当然のことではないか」と語ったのだった。「恋する男」?……なにはともあれ「特別な感情」の持ち主は、その「特別な感情」を否定しようとするのではなく、受け容れて、それを楽しむようにと言われたのだった。

楽しんでやり過ごそう……ラカンジジェクに明るくない彼は「それは『享楽』なのだろうか」とこれまた陳腐な問いを思いついてしまったわけだが――村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』的なフレーズを使えば「踊り続けるんだ」と表現すべきだろうか? そんな心理の最中であっても――ともあれ(この「ともあれ」という言葉が頻出していることに読み手が嫌気が差していることは、駄文の最初の読み手である彼が一番良く分かっているが他に語彙がないのだ)その苦悩や焦燥、あるいはそれらを産み出す根源である「特別な感情」をエンジョイすることを薦められたわけだ。そして、言われたのだ。「『小説』を書いてみたら?」と。

青木新門という人物の言葉を思い出した。「人は自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる」……それで、「特別な感情」を体験した人、「少し前へ進んだ人」である彼の職場の先輩に仕事中に雑談としてこの出来事を語った時に(むろん、彼はこんなに巧く全てを説明したわけではなく拙く語ったに過ぎないが)、「兎に角その体験を楽しもうよ」と答えられたのだった。「先輩」としてのアドヴァイス……そして、彼は「『小説』を書いてみようかと思っている」と語ったのだ。そしたら「書いてみたら?」と同じ答えを与えられた。

「書いてみたら?」……というわけで、「彼」が取り敢えず書いているのがその産物である。ここまでの流れを読み直して、やはり、と思ってしまう。彼は……「これは『小説』か否か?」と。この文章を書かれるのが「彼」であるのか、この文章が「小説」なのか、この「特別な感情」が「恋」なのか。三種類の問いが残ることになる。この問いに取り敢えず留保の念を抱き続けること。この文章の書き手はそれをこそ、この文章の読み手であるあなたに対する最大の誠実さとしての枷として引き受けることにしよう。それに対する留保。もしかしたらこれから書く「彼女」の話が、そうした留保への返答となるのかもしれないし、ならないのかもしれない。

……戸田誠司の『There She Goes』を聴いている。

Communication = Noise

帰宅して以後ずっと Perfume の「FAKE IT」しか聴きたくならない。


[MV] Perfume 「FAKE IT」

突き詰めて考えれば、あらゆる会話は仕事の手を止める。だから会話はしないに越したことはない。ただ、適度な会話は脳の活性化に繋がる。それ故に喋った方が良い。ただ、そのヴァランスが分からないので必要最小限のことだけ喋り、そうでないことは喋らない。その中間に位置することはどうするか? を考えた結果、「紙に書く」という方法を考えついた。そうすれば「紙に書く価値があるか否か」で既に判断基準がハッキリして来るし、紙に書いて伝える価値があるかどうか迷ったらメールボックスの中に入れて冷却すれば良い。そして三十分か一時間経ったあとに伝えるべきだと思ったら伝えれば良い。

村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とセーレン・キルケゴール『誘惑者の日記』を交互に読む。脳が草臥れた……。 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

 
誘惑者の日記

誘惑者の日記

 

むしゃくしゃしているので、このまま「レーザービーム」を聴いて寝ることに。

川端康成

みずうみ (新潮文庫)

みずうみ (新潮文庫)

 

ここ最近全然活字が頭に入らなかったのだけれど、昨日はこの川端康成『みずうみ』という本を読み耽ってしまった。私自身読むつもりはなかったのだった。たまたま Amazon で『須賀敦子全集』第一巻を買ったあと箱がなにかガサゴソするなと思って調べたらこの本が入っていたわけである。その後 Amazon の履歴を調べたら私が注文したらしいので、忘れていたのだろう。

スジらしいスジなんてないような小説だ。その場で即興で考えたのではないかというほど叙述は取り留めがなく散漫なもので、銀平という独りの男が女性たちをしつこくつけ狙うその様子が、過去と現在を自在に往還する形で描かれている。と書くと、ラテンアメリカ文学的な高級な(?)ものを想像されるかもしれないが、全然違う。ひど筆書きで書いたような……と書くと伝わるだろうか。

それで、今日もやることがないのでヒマなので持っている川端康成の本を持参して何処かへ行こうかなと思っている。話を戻せば、私は川端康成の小説は数えるほどしか読んだことがない。『雪国』『伊豆の踊子』あたりは読んで、それよりも取り分け『眠れる美女』の方が上かなと思っているけれどその程度だ。『山の音』も読んだけれど全然記憶に残っていない。

色々生きづらいことがあって Twitter でもアウェイ感を感じてしまい、職場でも居た堪れなくなってしまったのでこの川端康成との出会いは僥倖と呼ぶべきだろうか。むろん『みずうみ』だけが特殊だったのかもしれないので別の川端康成の本が読めるかどうかは分からないのだけれど、他に選択肢もないので川端を読むことにする。

銀平の心理に私は、同じく恋心(なのだろう)を抱えて/こじらせてしまった自分の心理を重ね合わせた。あと津原泰水『ペニス』のような小説も連想させられた(幾ら川端とはいえ、『みずうみ』と『ペニス』を比べられたら私は後者を選ぶ)。こう考えて行くとサルトル『嘔吐』みたいな小説も自分には向いているのかもしれない。選択肢に入れておこう。持っていないので図書館で借りることになりそうだ。

今日は雨が降らなければ良いのだけれど。

世界の終わり

 

Last Heaven's Bootleg

Last Heaven's Bootleg

 

恋とはなんの関係もないのだけれど、たまにはそういうことを書いても良いのだろう。私は「世界の終わり」について考えている。こういうことを考えるのも一時的なことだと思うので、私自身書いたことを忘れて仕事をして帰宅して書いたことを思い出して驚くのかもしれないが、まあ書いておくのも一興だろう。


世界の終わり / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

「世界の終わり」と言えばまあミッシェル・ガン・エレファントの「世界の終わり」のこととか、あと池澤夏樹『楽しい終末』とか村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とかを思い出すのだけれど、あとはレディオヘッドの『キッドA』のようなアルバムを思い出す。「世界の終わり」が訪れた時に鳴っているべき音楽として思いついてしまうのかもしれない。

ネヴィル・シュートに『渚にて』という小説があって、これは買ったまま積んでいるのだった。これも「世界の終わり」について語られている小説なのだそうで、丹生谷貴志さんのエッセイを読んで以来読まなくてはと思っている。あとはJ・G・バラード『結晶世界』も積んだままなのだった。私の読書なんてそんなものである。

恋の(もう鍵括弧をつけるのが面倒なのでつけないが)こととか世界の終わりのこととか、あとは老いのことを延々と考えている。それで丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』を読もうかと思って手にしてみたのだけれど進まないので、職場で読むことにする。ちなみにこの本は面白い本で二十歳ぐらいの頃に十回は読み通した記憶がある。

老いのことを考える……四十代になってしまったせいか、老いのことを意識した時に「この人生ももうすぐ終わるのだなあ」と思って、ある種のクライシスを感じているから精神状態が只事ではないのかもしれない。それで混乱しているから、こんなことを書いているのかもしれない。

なんだか精神的に不安定なので考えが纏まらない。活字が頭に入る状態ではないのかもしれないが、今日は試しにバラードの『結晶世界』でも挑んでみようかなと思っている。そんな話なのである。オチなんてない。あるいは生まれた頃のことを思い出すのも一興なのかもしれない。これに関してはダニロ・キシュ『庭、灰』に挑んでいるのと、あとリルケ『マルテの手記』も読んでみるか……。

いや、考えを一本化した方が良いだろう。それで粕谷栄市さんの詩を続けて読んだ方が良いのかもしれない。とまあ、混乱しているわけです。考えが散漫になってしまうのでこんな風に迷走しているのかな。ともあれ、もうすぐ出勤の時間なので支度をしないといけない。こんなことを考えている、ということをメモ程度に残しておく。