There She Goes

小説(?)

皆笑った / There She Goes #13

月面軟着陸

月面軟着陸

 

彼は世界に対して憎しみを抱いていた。ほぼその日暮らしに近い経済状態で、だからなのか誰を見掛けても相手に対して無言で「死ね」「殺す」という憎悪をぶつけていた。一度この悪癖を断酒会で出会った先生に相談したことがあるのだけれど、「そうね……考えとくわ」と言われたのだった(中井久夫の文章を教えてくれた方だった)。その相談をした後に、先生は間もなく亡くなられた。それらの間に因果関係はないのかもしれない。ただ、この癖を誰かに明かすことだけは控えようと思うようになった。そして心がまた固まった。

今、彼は誰かに対して「死ね」「殺す」とは思わない。全く思わない。もちろん世界に対する憎しみが全く消えたわけではない。ただ、彼はむしろ世界そのものを肯定したいという気持ちが強まって来ている。この世で起こるありとあらゆる出来事を受け容れたい……少し前に佐々木敦未知との遭遇』を読んだ影響なのだろうか。「起きたことはすべていいこと」だ……なにが起こっても「そう来たか!」と乗り切りたいと考えてしまう。むろん、そんな風に思えないことがある。いや、沢山ある(先生との死別はその最たるものの内のひとつだろう)。

「ポジティヴ思考」ではない。そんな空疎なものではない。なにもかもポジティヴに捉えていたら破綻してしまう。ネタを割るがジム・キャリーが出演していた『イエスマン』という映画が教えるように……ネガティヴなものはそれはそれで是認する。受容する。痛ましさ、悲しさ、切なさ……しかしそういう痛みをそれはそれで――身が切られるほど辛いのだけれど――なおのこと是認したいと思ってしまうのだ。だがその現象をどう名づければ良いのだろう? これもまた「恋」のせいなのだろうか? 成就し得ない「恋」が彼の中に揺さぶりを掛けたのだろうか?

今日は彼は発達障害当事者と家族の会に参加した。そこで様々な話を聞かせて貰った。自分の身体から異臭が漂うのではないかと思って四、五時間風呂に入るほど悩み続けていた人が「恋」に依って立ち直ったという話。この話から演繹するに、「恋」が彼の「死ね」「殺す」という感情を――そんな病んだ心を――変えてしまったのだろうか? 今彼はピチカート・ファイヴ「皆笑った」を聴いている。「だけど恋してるなんて もう若くないのに 自分でもおかしいから 少し笑った」……こんな歌詞が沁みるのはそのせいなのだろうか?

世界に対して憎しみを抱いていた子が他人からの親愛に依って世界破滅を諦め世界を是認するという設定の SF を読んだことがあるのを思い出した(どんな作品なのかはネタをまた割るので書かない)。親愛……もっと言えば「恋」? 今日聞いたどんな話よりも――発達障害者の就労支援や、あるいは雑談をめぐる取り留めのない話題よりも――その逸話が心に残って離れない。「恋をすると、人間変わるよ」……かつて言われたことを思い出すのだった。この「特別な感情」が彼の歪みを正したのだろうか? それともこれは新しい形の憎悪なのだろうか?

皆笑った……今日は彼は多くの人々を笑わせた。「雷が凄かったですね」と言われて、「そう言えば雷からベンジャミン・フランクリンは電気を発見したんですよね」と言ったら話が途切れた……そんな話で盛り上がった。柔軟剤の列を見ていてどの柔軟剤を飲んだら発想が柔軟になるか考えたというような話……そんな会話。無意味な言葉。他愛のない思いつき……それを Facebook で書いたらそれもまた盛り上がった。彼はふと、「いいね!」の数を数えてみた。多くの「いいね!」を貰った。だとしたらそれはそれで良いことなのだろう。

笑わせた……彼の行動がしかし彼にとって「笑われた」と考えられないのはどうしてなのだろう。普段ならそう考えるのだけれど。そしてより一層世界を憎むだろうに……しかしそうはならなかった。会話というやつは結局のところはお互いが勝手に意志を発信し続け受信はされない、一方的なドッジボールではないかと考えている。粉川哲夫・三田格『無縁のメディア』が教えているように、会話は発信が主体で受信は介在しないものなのだ……ただ偶然それがなんらかの形で――発信に発信がリツイートのように乗っかるようにして?――成り立つからなのだ、と。

今日の彼も会話をドッジボールとして考えた。しかしそれで世界に対する絶望が増すということにはならなかった。笑っている人たちを見るのはなんだかおかしかった。『あずまんが大王』のアニメ版で榊さんが心を開いて笑顔を見せる場面のように、彼の心は世界に対して少し開かれたような気がする。その分多くのものをキャッチしてしまうのだろう。それで混乱しているのかもしれない。キャッチした大量のなにかに戸惑って、波乱が起きているから活字を巧く取り込めないのかもしれない。田島貴男が「夜をぶっとばせ」を歌っているのを聴きながら、彼は自分の混乱と向き合っている。

彼の世界に対する戸惑いに効く薬なんてないのだろう。一ヶ月彼女と会うのを待つしかない……彼はふと詩を描いてみようかと思う。幸いなことに詩作には既に先輩が居る。先輩を見習って無駄を極限まで削ぎ落とした詩を書いてみる……例えばパウル・ツェラン石原吉郎のような、もしくはポール・オースターの若き日の詩のような……でも彼には詩作の感性はからっきし欠けている。それは自覚している。散文でなら勝負出来る。止めどもなく溢れて来る言葉を、その奔流を流すこと。それなら出来そうだ。いや、あるいはそうしかやりようがない。

彼は今聴いている『月面軟着陸』をブックオフで買った。それは 1990 年にリリースされたものでだから奥田民生をゲストに招いた「これは恋ではない」が入っている。彼はそれを聴く。そして、また小西康陽のコラムを読み返そうかと考えている。彼にそれだけの与力があるのだとしたら、また明日試してみるのも悪くないかと……あるいはJ・G・バラードの短編を読んでみるのも良いかもしれない。ここで打ち切ろう。今日の彼はかなり疲れている……。