There She Goes

小説(?)

うわのそら / Take On Me #4

シングル・マン+4

シングル・マン+4

 

放心することの幸福、「上の空」になること、空を仰ぐこと。天空を見つめること、雲の動きに心を奪われ、額に吹きつけてくる湿った風に雨の接近の匂いを嗅ぎ、遠い雷鳴にあれこれの土地や時間の記憶を辿り、凍りつくような夜気を透して見える星の瞬きにアンモナイト三葉虫の時代を想うこと。天空を見上げよ。空に向かって自分を投げよ。もしこの世に人を幸福にするものがあるとしたら、それは空だけではないか。(松浦寿輝『青天有月』p.229)

君は、自分は幸せだった、と思う。なんにせよとても辛い人生だった。いじめに遭い、同級生はおろか大人たちをも信じられない少年時代を過ごした。そして大学時代はそんな人間不信が祟って、せっかく友だちを作る機会があっても君の方から無下にしてしまった。就職で失敗して故郷に戻ってきてからも、会社でもうまく行かず……自殺未遂をして、生きる希望を失ったまま酒に溺れた。そして40代が始まった。君はもう、この人生いいことなんてなにもないと諦めていたのだった。だけれども、君はむしろ40代からワンダフルな人生の醍醐味を体験することになる。恋をした。友だちを作った。発達障害について知るきっかけを得て、人生が好転した etc...

閑話休題松浦寿輝の『青天有月』というエッセイ集をパラパラと読んでいたら、ロラン・バルトについて書かれた文章が目を引いた。「人は自分の欲望によって書く、そして私はまだ欲望しおえてはいないのだ」……とロラン・バルトは書いていた、と書かれている。『彼自身によるロラン・バルト』、を読んでみなくては。だが、ここで書かれている「自分の欲望」とはなんなのだろう。それは結局、君がただ単に好きだから書き続けるというその気持ちのことではないだろうか。好きだから、書き続ける……君の中から煮えたぎるもの、吹きこぼれるものがあり、それに急かされて書き続ける。

……そして、書いていて、君は「上の空」になる。これは確かなことだろう、と思う。ロクでもない人間だ。君は……汚い人間だ。毛深いし、背は低いし小太りだし、精神的にも怠惰で無気力で、鈍いし優柔不断だし(一部の人はそれを君の「優しさ」だと思うようだが)、どうしようもない中年男……君はそれをわかっているし、わかっているから自分でもこんな風にしか生きられないことを恥ずかしく思う。What else should I be? All apologies... そんな醜い自分自身から逃げる唯一の術が、おそらくは書くことなのだと。

「もしこの世に人を幸福にするものがあるとしたら、それは空だけではないか」。この一節に触れて、君は空を見上げてみる。グループホームから見える空。今日も仕事だ……空が人を幸せにするというのは、空が君を超えたところに存在しているから。空は君を超えて、君を幸せにしてくれるから。「この空だけがいつだって味方だったんだ」(フィッシュマンズ「すばらしくてNICE CHOICE」)。「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである」と大森荘蔵も語っている。世界の中に喜びや悲しみをもたらす素材はある……花の美しさが単に自分の心を越えて、咲いている花それ自体に属するように。咲いている花の崇高さは君という狭い心を超えて、花の中に確かなものとしてあるように。

君は毎日、自分が死んでしまうかもしれない、と考える癖がついてしまった。「たぶん、真の――このプラトン主義的な形容詞を用いることを恐れるまい――エクリチュールとは、『人生の半ば』を過ぎてからしか始まらないエクリチュール、すなわちそこには絶えず死の影が落ちているといった、そんなエクリチュールのことなのだ」(『青天有月』p.224)。「死の影」に急かされながら、君は書く。「人生の半ば」……君は45歳。ここが「半ば」なのか、もちろん君はわからない。未来のことなんて、誰にもわからない……。

君は、ともあれ沢山の本を読んだ。ロラン・バルトの本も『恋愛のディスクール』を読んだはずだ。また読み返してみようか……バルトから学んだことがあるとすれば(いや、優れた哲学書から学んだことがあるとすれば)、それは結局変態であること、かもしれない。変態であること、いびつな欲望を抱えた自分自身を肯定すること。なぜなら否定すればするほど、できあいの基準に自分を寄り添わせようとすればするほど、自分の中のいびつさが邪魔をして中途半端で終わってしまう、そういう宿命の下に生まれたのだから。

書きたいように書く……それを君は今日も実践する。そして、ここに記された文章を書く。それが優れたものなのか、君にはわからない。君は全然自分のことがわからない。ずっと、わからないけれど女性から嫌われてきた。今は女性から好かれる。少なくとも、憧れの女性からは好かれていることを感じているようだ。でも、どうして? なぜ、君は好かれるのだろう。わからない……なぜ子どもの頃あんなにも嫌われ続けたのかわからないように。