There She Goes

小説(?)

薔薇とノンフィクション / Take On Me #1

Here comes that awful feeling again...

またこの気持ちがやってきた、と君は思う。こんな気持ちを最後に感じたのはいつのことだっただろうか。そして、なぜまたこんな感情を再び感じないといけないのだろう、か……。

君はウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読んだ時のことを思い出す。ウィトゲンシュタインがこだわっていたのは、彼が感じる痛みをどうして他の人間も痛みとして分かるのか、という問題だった。難しい話ではない。君が例えば「歯が痛い」と言う。すると、他の人も「歯が痛いのは辛いよね」と言う。ここではコミュニケーションが成り立っている。みんな「歯が痛い」ということを分かっているわけだ。でも、当たり前のことだけれど、歯が痛いのは君であって他の誰でもない。痛みは、ごく個人的なものだ。どうしてそんな個人的な痛みを、他の人はその痛みを感じているわけでもないのに「痛い」として分かるのだろう。

ウィトゲンシュタインは、あるいは恋について書くべきではなかっただろうか。もし痛みの代わりに「恋」という感情について書いていたら、『哲学探究』は(いやそれ以上に『論理哲学論考』は)優れたチャーミングな哲学書になっていたんじゃないだろうか。なにしろ痛みは日常的に感じられる感覚だけれども、恋はもっとストレンジな、ワンダフルな感情でありそれ故にもっと哲学の素材として相応しいからだ。

ウィトゲンシュタインはどうでもいい。君の話をしよう。最後に君が振られてから一年ほど経った。振られたのはもちろん辛いこと。だけれども、それは良い経験だったと思っている。橋本治だっただろうか。恋愛は中途半端にできあがった自分をぶっ壊すために存在する、と語っていた。恋愛で自分自身はぶっ壊れる。秩序を保っていたと思っていた自分が混乱して、揺り動かされ、深く深く考えることになる。だからこそ、恋愛は尊いと言っていたのだった。君はその言葉を信じている――。

そして、君は再び恋に落ちているのを感じている。いや、この感情が恋なのかどうなのか、君には分からない。こんな気持ち、そうそう滅多に異性に対して感じることがなかったからだ。君はこれまで、三度こんな感情を抱いた。一度目は同人誌を作っていた頃知り合ったライターの方にこの感情を抱いた。東京まで行って、そこでその方が結婚することを知らされ、今では良い友だちだ。二度目はネット恋愛ドゥルーズや千葉雅也の哲学について語らう仲となった。三度目は……また機会があれば語ろう。

四度目のこの気持ち。人に話すとそれは恋ではない、と言われた。ただのインタレストだ、と。興味、と言い換えてもいいのかもしれない。そうなのかもしれない。彼女とはフェイスブックで知り合った。君がたまたま英語学習グループで彼女の投稿を読み、プロフィール写真を見て友達申請をしたら受け容れてくれたのだった。それから、時が過ぎた……君は彼女に、特別な思いを感じていることを自覚している。

しかし、それは恋なのだろうか? 君は何度も自分自身が、自分が恋だと感じているものを否定しようとした。酷い時は、ポール・オースター『ムーン・パレス』の主人公マーコ・フォッグばりの詭弁を弄して恋愛はフィクションである、つまり虚構の産物である、と主張しようとした。人間は恋愛などしなくても生きていける。下品な話をすれば日本人も恋愛などしなくても江戸時代は生きていけた。恋愛が今の様式を得たのはヨーロッパでの宮廷での貴族の戯れに端を発する。それが市民にも広まり、明治時代に「恋愛」という訳語とともに日本にも広まった。つまり、「恋愛」は近代的な概念であり西洋からの輸入品なのだ、と。

否定しようとした。あり得ない。間違っている――自分は「もう恋なんてしない」と。何度も、女性に関しては裏切られてきたはずだ。君はずっと、十代の時に女性に忌み嫌われる日々を過ごしてきたのだった。君が君であるというだけでこっぴどく嫌われる。だったら、恋なんてしない。恋愛とは無縁に、『ノルウェイの森』をこの上なく滑稽な夢物語として読みながら、生きていこう。そう思ったのだった。そして、それは成功したかに思えた。君は20代・30代を修行僧のように生きた。恋もせず、なにもせず、酒に溺れて生きたのだった。

そして、今……アランの『幸福論』から堀江貴文『多動力』まで、優れた哲学者は皆(ホリエモンも哲学者だ!)同じことを言っている。今を生きろ、と。今、ここからどう運命を切り開くか。動くことで人生は自在に変わる。ニーチェだって言っていることは同じ。今、生きる意志を煮えたぎらせて生きればきっと後悔はしない。だから、君は恋愛について再び書くことにしたのだった。