There She Goes

小説(?)

グルーヴ・チューブ / There She Goes #43

ヘッド博士の世界塔

ヘッド博士の世界塔

 

廣瀬純 『蜂起とともに愛がはじまる』の読書が捗らない。戯れにアントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』やニーチェ善悪の彼岸』、舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』などを手にしてみるのだけれど、やはり活字が頭に入らない。諦めて黒沢清『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観た。そのようにして一日を終えた。

やることも失くなったので丹生谷貴志を読み返すーー。

しかし、ビシャにおいて構図は変容する。わたしたちの体は刻々と死んでゆく微細な組織、細胞(そして思考)の集合体に他ならない。身体は死に抵抗する組織ではなく、速度の違う無数の死によって組織された「過程」に他ならない。生体は死に抵抗し、そして最後にはそれに敗北することになるだろう弁証法的戦いの大地ではなく、無数の死の偏差によって組織された崩壊の過程なのである。

ーー丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』

……二十代の頃に何度となく読み直した文章。ここに例えばフリッパーズ・ギター「世界塔よ永遠に」の「僕はゆるやかに死んでゆく」「言葉などもうないだろう」という歌詞をつけ加えたくなる。彼らは死んでゆく……いや、逆かもしれない。今まで生きていたのだ。なにはともあれ(ソウル・サヴァイヴァーの逆襲!)……今まで生きていた人間が、ある日突然倒れて帰らぬ人となる。それだけ……その死をしかし嘆かず、またメロドラマ化することもなく引き受けること。ドゥルーズの死生観とはそんなものではなかったのか? いや、即断は出来ない。彼はドゥルーズを読んでいないのだ……。

心臓がドクドクと脈打っているのを感じる。温かい魂がここにある……この心臓が止まってしまえば同じなのだ……ある意味では自ら死を選んだとも思われる車谷長吉の死を思い、アパルトマンから飛び降りたドゥルーズを思い、自殺で亡くなった人々の死を思う……彼自身もまた自殺を選ぼうとして死に切れなかった人間なのだ。彼の前にも今まで生きていたの壁が立ちはだかる……「壁」? こんなことを書いてしまうのは廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』で引かれるゴダールの言葉が影響しているのかもしれない……「一〇時間ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくることになります」……。

『壁』と言えば安部公房なのだけれど彼はあいにく安部公房を読んでいない。だからここで思考は止まってしまうのだが……そしてひと息。この瞬間にも彼は自分の身体が「刻々と死んでゆく」のを感じる。好きな歌詞を借りれば「Dust To Dust / Ashes To Ashes / Soul To Soul」……無秩序だったものが仮初めに秩序を得て、また無秩序へ戻って行くだけ……そう考えれば生きることは幾分かはマシになるのではないだろうか? 「人生ってやつはウィニー・プーだけのマグカップ・コレクション/独り善がりの Fun Fun Fun」……。

あらゆる人々は今まで生きていたのだ。たまさか……それは善意に依ってかもしれないし悪意に依ってかもしれない。慈悲に依ってだったからかもしれないし無念に依ってだったからかもしれない。ここで小泉義之『弔いの哲学』を引きたくなるのだが、無秩序な引用も悪ノリが過ぎるとお叱りの言葉もあるかもしれない。彼女も今まで生きていた。そしてこれからも今まで生きていたを続けるだろう。ずっと……そこで奇蹟のように(いや奇蹟そのものと言うべきか?)彼と彼女の人生はクロスしたのだった。今まで生きていたことがもたらした僥倖!

そう考えると、人生捨てたものではないということが分かって来る。今年もまた桜が咲き桜が散る。知られる通り桜の花はそれ自体はひとつとしては決して大きなものではない。ミクロな花が、花弁や雌蕊や雄蕊が連なることに依ってひとつの巨大な集合体を生み出している。文字通りのミクロコスモス……私たちひとりひとりの人生、そしてそれが集合して織り成す世界もまたミクロコスモスだ。そこで人々は不意に出会い、そして別れ、そして恋をして、恋に敗れて、夢を懐き、夢を諦めて、そして生きて行くのだろう。そこにどんな過剰な意味をも見出さず認めること。その勇気……それこそが彼には必要なのだ。

……とまあ、冗言はこのくらいにしておこうか。見つめ続けたことと言えば、差し当たっては死であり今まで生きていたという事実である。『散歩する侵略者』……いや黒沢清作品が死や今まで生きていたを淡々と描き続けるように、彼もその世界のデタラメさを見つめてここまで辿り着いた。それだけのことなのだ。彼の人生と彼女の人生はこれからどうクロスするのか分からないが、お互いの今まで生きていたが実り多いものになれば良い……(≧∇≦)b そんなことを考える。