There She Goes

小説(?)

I don't say that life's not sad and death is not the end / There She Goes #36

Timelords

Timelords

 

不思議と死のことを彼は考える。死にたい……そう思った時期があることを彼は思い出す。今は彼はそう思わない。今はどちらかと言えば生きたい。ただ、いずれ死は訪れる。運命はその意味では残酷だ。望んでいる時には来ないけれど、望まない時に限って不幸というものは訪れる。

彼女は自殺未遂を繰り返したという。水没、首吊り……彼自身オーヴァードーズを三度やったことがあるので、彼女の気持ちが分かる……と言うと嘘になる。そんなこと分かるものか。分からないからこそ彼女の気持ちというものは尊いのだ。だから安直な共感は彼女に依って拒否されるのがオチだろう。それで良いと彼は思っている。

ポール・オースターの『孤独の発明』の冒頭を彼は思い出す。疾病の予感もなく、人が突然死ぬ……それからライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』のことを思い出し、村上春樹ノルウェイの森』のことを思い出す。どの作品も Sudden Death について語られている。なんの予兆もない突然の死……。

いずれ彼自身なんらかの形でこの人生にけじめをつけなければならない。それは受け容れなければならない。そうだな……命の宿った肉体から再び物質へと自分が還元されて(?)行く……それが人生なのであればなんと切ないものなのだろう。なんの意味があったというのだろう。

彼はある時期にとある男性と交際していたことがある。というより、彼のウェブサイトをその男性が見つけて――まだブログをやる前だった――感激されたのだった。その後 mixi の時代が訪れて、彼はその男性を誘おうと招待メールを書いたのだった。遺族の方から、彼はその男性が自死を遂げたと告げられた。そのメールを読んだ時に、彼は世界の底が抜けたような妙な感覚に襲われた。不思議と涙は出なかった。遺族の方が残されたその男性の日記の自費出版を持っていたはずだが、何処へ手放してしまったのだろうか……。 

魔法の笛と銀のすず

魔法の笛と銀のすず

 

日記というと二階堂奥歯の日記を思い出す。彼女もまた自死で自分の人生にピリオドを打った人物なのだった。その日記『八本脚の蝶』も読み応えのある日記だった。それも何処へ手放したものか残っていない。ギリギリまで自分を問い詰めた彼女の苦悩の吐露はこちらを圧倒させるものがある。だからこそ生きていて欲しかったのだが……。 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

自死に依って先立った人物たち。あるいは望まない形で死を選ばされた人物たち。彼らと彼の間を分けるものはなにがあるのだろう。彼は何故生き残らなければならなかったのだろう。彼の自死の試みが成功していたらどうなっていたのだろうか。彼もまた、彼を覚えている人間に依ってこのように語られるのだろうか。

薄れ行く記憶の中で彼は亡くなった人物たちのことを思い出さざるを得ない。忘却されることの方が、あるいは死者にとって幸福なことなのだろうか。いつまでも自分のことが記憶となって、軛のような形で残ることを死者は嫌がるだろうか。だが、死者は太陽のように燦々とこちらを照らし続ける。ここで古井由吉氏を引こう。

例えば一日の天気のことを考えても、よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく、いや、その場合でも、表現として「私」が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。多くの死者たちが体験していろいろ残した言葉や情念を動員しているわけです。特に風景描写とか天気のことを書くと、「私」が相当に死者を含んでいるという感じがするわけです。(『小説家の帰還』より)

死者が残したものを私たちは受け継いで今に至る……それは言葉であり文化でありあるいは財産である。そしてそれを私たちは次の世代に託して行く。死者がなければ私たちは生まれて来なかったはずであり、私たちが死ななければ次の世代は生まれない。ここで例えばこんな言葉を引くのは頓珍漢だろうか。

惧れるな。アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。

これは大江健三郎氏の『新しい人よ眼ざめよ』の末尾で引かれるウィリアム・ブレイクの詩句である。この言葉で連作が閉じられるのは、なんだか希望を与えられるではないか。彼よりもひと回り若い彼女のことを思う時、この言葉のように彼は考える。それもまた傲慢というものなのだろうか。