There She Goes

小説(?)

Whatever / There She Goes #32

タイム・フライズ・・・1994-2009

タイム・フライズ・・・1994-2009

 

五年後はどのように生きているのだろう? 彼はそんなことを考える。五年後……去年まで、彼は彼女と会うなんてことを想像していなかった。彼女の母親ともお会いするなんてことも想像していなかった。プリファブ・スプラウトではないが、人生は驚きの連続だ。いつどのようなことがどのような形で起こるか分からない。これはまあミクロな話なのだけれど、マクロな話を取っても日本という国がどのように変化しているのか、さっぱり分からない。世界情勢がどのように変化しているのかさえも分からない。分からないことだらけだ。

はあちゅう氏の『「自分」を仕事にする生き方』を読んで、五年後も自分の人生において続けたいと思えるような仕事を探そう! と語られているのを読んで唸らされてしまった。彼はどちらかと言うと刹那的にしか物事を考えない。五年後自分がどうなっているかなんて考えてもしょうがないじゃないかと思ってしまう。五年前に自分がシェアハウスで独り立ちするなんてことが起こるなんて、夢にも思っていなかった。酒を止められることさえ出来るとも思っていなかった。ずっと飲んだくれで、カフカが亡くなった 41 歳という年齢で亡くなるのだと思ってばかり居た。

今もそれは変わっていない。今年の年末のことさえも分かっていないのに来年のことなんて、増してや五年後のことなんてどうなるのか予測不可能だと思う。もしかしたら――甘過ぎる見方だとは思うが――ライターとして腕を発揮出来ているのかもしれないし、今の職場で活躍出来ているのかもしれないし、彼女と仲が深まっているのかもしれない。だがそれは全てが巧く行ったらの話なので、そのあたりのことは分からない。父親や母親と死別している可能性も高い。今の内に巣立ちという形で親孝行出来ればと思っている。

堀江貴文氏の話はしただろうか? 『しくじり先生』という番組で、「過去にとらわれず、未来に怯えず、今を生きよ」と語っておられるのを聞いたのだった。「今」ベストなパフォーマンスが出せているか……仕事においてもそうだろうし、読書やオフの過ごし方についてもそうだろう。「今」をどのように生きるか……そんな風にしか物事を考えないので、五年後十年後のことなんて全く考えない。あるいは考えられない。病気や事故で取り返しのつかないダメージを負っていることだって考えられ得る。悩むだけ損ではないだろうか?

デヴィッド・フィンチャーベンジャミン・バトン 数奇な人生』の中で「なりたい自分になれば良い」という言葉が語られているのを記憶に刻みつけている。人生はこう生きなくてはならない、というルールはない。今やニートの方が本を書く時代。彼が拘っていた一日八時間勤務という常識は崩れつつある。彼の今のライフスタイルのままで生きて行ける道があるのだとしたら、それを探るのも悪くはない……そうして、「コネクト」して他の方に助けを貰って試行錯誤に乗り出し始めたところだ。先は長い。ワクワクする。『ショーシャンクの空に』のラスト・シーンのように。

断酒会に入って一年か二年した頃に、なにも考えておらずにただ散歩していた時にふと「あ、自分の人生って自由自在に生きられるじゃないか」と悟った――というのは大袈裟だし不正確だろうが、他の言い方が見つからないので――ことを思い出す。自分の力で、自分の意志次第で自由自在に道を切り開けるじゃないか……断酒会では壮絶な体験談を一杯聞いた。これはもう書いただろうか? 仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った、もっと酷い人は健康を失った……酒が脳に回って呂律が回らなくなった方が、必死に断酒してどう立ち直ろうとしているのか語っておられた。呂律が回ってなかったのでなにを語っているのか分からなかった。ただ、言葉を超えてビンビン伝わるものを感じた……人生腹を括れば立て直せる。その事実を噛み締めた。

逆に言えば自分の人生の主導権を他人に売り渡して、他人が示すがままに彼は大学を選び職場を選んだというわけだ。ロボットのように従順にハイハイと聞いていればそれで右肩上がりの人生を保証されていた……今はもちろんそんなことはない。自分の人生の手綱は自分で握らないといけない。それを骨身に沁みて感じている。だから、自分のあなりたいものになっても良いんだ、なんにでもなっても良いんだ……そういう、プレッシャーから開放された希望が沸き起こる人生を生きているように感じられる。もちろんお金はないけれど……。

これからの人生を決められるのは自分なんだ。そう思い、昔なら彼女にアプローチするなんて出来なかっただろうけれど、彼は思い切ってしてみた、それがどう出たのか彼には分からない。世の中がどう変わろうとも、「私が」その現実をサヴァイヴして行く覚悟は常に必要なのだろう。そう思い気を引き締めたところだ。オアシスの「Whatever」という曲を思い出す。「I'm free to be whatever I / Whatever I choose ./ And I'll sing the blues if I want」。そう、選ぼうと思えばなんにだってなれるのだ。そこに希望を託したいなと思う。『ショーシャンクの空に』を観直すべきだろうか?