There She Goes

小説(?)

The Wrong Child / There She Goes #19

Green

Green

 

彼は秋が好きなので九月になったことを喜ぶ。九月になれば読書が捗る。今日は岩波文庫版の芥川龍之介『歯車』を読み進めた。既に持っているはずの薄っぺらい文庫本なのだが、あいにく部屋の何処かに散逸したか捨てたかで失ってしまったので古本屋で買い求めたのだった。「玄鶴山房」を読み、その不穏な空気にやられてしまった。そして思ったのである。現代において例えば芥川龍之介をリスペクトし続けている作家は誰だろう、と。又吉直樹を思いつくだけで、それ以外には誰も居ない。いや、島田雅彦も芥川に関するエッセイを書いていた(『偽作家のリアル・ライフ』に収められていた)ことを思い出す。

芥川……高校生の頃は見向きもしなかった作家だ。十代の頃を思い出してしまう。当時は村上春樹ばかり読んでいた。村上春樹もまた(全ての優れた作家はそうだろうが)オールドスクールな文学から影響を受けたことを知らずに、芥川なんて古い作家/終わった作家として見做してしまっていたのだった。あとは高橋源一郎も読んでいたかもしれない。高橋源一郎もまた優れた文学、当然芥川を含む様々な文学を吸収した作家だ。しかし彼らが芥川をリスペクトするのを無視していたのだった。今『歯車』が頭に入るのは幸か不幸か、それはどうなのか分からない。

高校時代の思い出……机の中にある日所謂ラヴ・レターが入っていたことを思い出す。「好きになってしまいました」……云々。文面はもう忘れた(彼は二十年以上前のことは殆どなにも覚えていない。だから先述した村上や高橋の思い出もどうだか怪しいが……)。ともあれそんなものを貰ったことがなかった彼は戸惑い、自分が「愛されている」ということをどう受け留めて良いのか分からず、プレゼントとしてタンブラーを買ったのだった。それを自分の机の中に入れて返事を添えて渡した。返事とタンブラーは失くなっていた。そして、ラヴ・レターの続き自体も来なくなってしまった。また彼の心が固まってしまった……。

本と音楽だけを友だちとして生きて行こう。そう考えて彼は本と音楽の世界の中に没入した。それが今の彼を形作っていると言っても良い。逆に言えば彼の思い出の中に「友だち」は独りとして登場しない。誰と何処へ行った、なにをやった、どんな楽しい思い出を作った……そんなことは一切ない。同窓会に呼ばれることはあったが一度たりとも行ったことがない。その内に呼ばれることも失くなったので居心地が良いとも思っている。誰にも葬式に来て欲しくもない。今更義理で来られたところでこちらが居心地が悪いだけだ。

思い出すこと。放送部に入部した時のこと。彼が部室に入る。メンバーの中に緊張が走る。彼にはそれがよく分かる――というより「メンバー」がそうした緊張を最早隠そうとしていなかった。隠さないことも一種のゲームの規則であり、攻撃の手段だったから。メンバーが全員立ちあがる。そして彼に行き先を告げることなく、出ていく。彼は部室に取り残される。ぼんやり部室にいる彼がふと外を見ると人影がそこにある。或いはクスクス笑いと囁きが漏れ聞こえる。

外に出るとそこには誰もいない。だが廊下の曲がり角の彼から死角となるところに何人かの人間が存在する気配は感じる。彼はそちらを向く。また部室に戻る。そして人影を感じ部屋を出る。そして遂に、その人影こそが他でもない「メンバー」だったことを知る。あるいは、面と向かって「帰れ」と言われたこと。最後には彼が話し掛けても誰も彼がそこにいないように振るまい、カードゲームに興じていたこと。彼は退部した。それ以来部活はやらなかった。それで良かったのだ、と思う。死んだふりをして十代後半を過ごした。それで良かったのだ……。

それを虐めと呼ぶのが相応しいのかどうか、彼には分からない。世の中にはもっと壮絶な虐めだってある。腐るほどある。だから陳腐な話だ。それを特権として振りかざすつもりはない。だが、彼が感じた苦しみはそんな「陳腐」のひと言で癒されるものではない。彼が切実に感じた痛みや傷を、どんな言葉が癒せるだろうか。だからこそ人の痛みにデリケートになれた……というわけではしかし、ないのだった。いや、彼は人の痛みに鈍感になった。彼が感じた痛みの深刻さが――それが「陳腐」なものであるにしろ――過剰だったせいで、他人の感じているべき痛みの深刻さを「なにを程度の浅い」「誰にでもある」と考えるようになってしまったのだ。

不幸自慢……みっともない。そんな話は書きたくない。だから彼女のことを考えよう。彼女も今日、会社に出社したという。意を決したそうだ。彼女もまた痛みを抱えている。「痛みを抱えている者同士なら分かり合える」というテーゼが嘘であることを彼は知っている。発達障害者同士の痛みの分かち合いが不幸の増幅に繋がり破綻に終わることを彼は体験したことがある。文字通りの絶縁だった。彼女を理解しようとすればするほどその先に待っているのは、やはり「絶縁」なのかもしれない。しかし、彼女が居なければ彼は生きていけないのだ……。

彼は今日そば蜂蜜を買った。いつも行き着けのカフェの方に差し入れ的な意味を込めて渡したのだった。半額シールがべったりと貼られていたそのそば蜂蜜を見てカフェの方は笑った。またスットコドッコイなことをしてしまった。彼が関わると物事はどうも捩じ曲がった方向に向かうようだ。彼を嘲笑したかつての部活の仲間たち(!)も、彼を持て余したに違いない。彼自身彼を持て余している。彼は改めて自分を恥じる。誰にだってあること……そんなことあるもんか! この痛みが誰にでもある痛みだというのであれば、彼の人生自体「誰にでもある」取り替え可能な人生でしかないことを意味するではないか! 彼は掛け替えのない人生を生きているというのに!