There She Goes

小説(?)

Smells Like Teen Spirit / There She Goes #15

ライヴ・アット・レディング

ライヴ・アット・レディング

 

彼は音楽を聴くのだけれど、そこに教養を求めたことはない。それなりに色々な音楽を聴いてきたつもりなのだけれど、だからこそ余計に「BABYMETAL を聴いている人間はヘヴィメタルを分かってない」とか、「Perfume を聴いているやつは耳が腐っている」とか「やっぱり渋谷系の時代の方が幸せだった」なんて戯言、吐く気にはならないのはもちろんのこと、聞く気にもならない。地獄のような視聴体験をして得られる付け焼き刃の「教養」など、なんの役に立つというのだろう。聴きたいものを人は聴けば良いのだ。例えばナース・ウィズ・ウーンドであれ乃木坂46であれ。

そういうわけで、今日の彼の気持ちを代弁してくれる音楽を探したのだけれど色々試してみた結果、これまで全然頭に入らなかったニルヴァーナの『ライヴ・アット・レディング』がしっくり来るようなので聴いている。ニルヴァーナも「教養」となる時代……彼はニルヴァーナをリアルタイムで通らなかった。バカ売れしているバンドが居る、という程度の認識だったのだ。それは今もそんなに変わりはない。彼らはバカ売れした。そしてその仕事は「バカ売れするに相応しい」ものであった、と思うだけだ。良いにせよ悪いにせよ。

どちらかと言えばブラーやオアシスといったブリットポップに目移りしてしまい、社会現象としてグランジなるものを巻き起こしたニルヴァーナを彼は過小評価してきたきらいがある。今改めてライヴ音源を聴くと、彼らの音楽に漂う痛切さは一方ではあの時代ならではの(もっと言えば、カートの自殺というロック史に残る――本人は恐らく不本意かもしれないが――「事件」の予兆の)不穏さを知らないと理解しにくいところがあるだろうなと思う。つまり、その意味での普遍性はないかな、と。ただ、今のリスナーを――ビートルズジョイ・ディヴィジョンのように――新たに虜にするだけの生々しいなにかは浮き上がっているように思う。そのあたり評価しづらいのがもどかしい。

「教養」を越えた体験としてロックを聴くということ……単純に「意味」を過剰に帯びせてしまうのではなく、音楽それ自体が持つ濃密な「強度」をこそ味わうこと……と書くと古臭く聞こえるのだろうか(あるいは、「意味から強度へ」との某社会学者の発言はニーチェを誤読しているという批判もあるようだが……?)。だが、ともあれこの「意味から強度へ」、つまり体験の「意味」を問うのではなく体験それ自体が楽しいかどうかという「強度」を問うという考え方は彼の中で今でもひとつの指針として残っている。人は要するに楽しいと思うことをやれば良いのである。どうしたらラクになれるか。

「どうしたらラクになれるか」……それを問うことはしかしなかなか難しい。人間の中に主体がある人は良い。自分の意志で決められる人――流行りの言葉を使えば「自分のアタマで考え」られる人――はまだ良い。そうでない人、つまり主体性というものを持たずにピンボールのように放浪して来た人はどう生きれば良いというのだろうか。例えば車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を思い出してみれば良い。あの主人公のように出来事と出来事の間を右往左往している内に漂流して堕ちるところまで堕ちた人のズタズタに傷ついた心はどうすれば良いというのだろう?

分からない……だがともあれ彼がこれまで酒に溺れつつも辛うじて生きて来られたひとつの理由が、この世に音楽があったからだという事実が端的に存在する。カート・コバーンが幾ら死にたくて――そして、周知のように人は「死にたい」と思う時こそ猛烈に「生きたい」と思っているのだ――鳴らしたにせよ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が今なお彼の心を打つように、彼は音楽によってこの世の中に神秘があることを知り、崇高ななにかに触れられたのである。マイケル・ギルモアが『心臓を貫かれて』で語るように、彼はロックの中にある種のコミュニティ/共同性を見出したのだ。

なんの話をしたかったのだろう……今日も仕事だった。仕事が終わり LINE でやり取りしながらメールを送受信し、なおかつ Twitter のリプライの返事を溜めながら小説を書くという難業(!?)をこなしていたら脳が熱くなってしまった。気散じとして始めた小説を書くことがこんなに苦しいとは……逆に言えば現代人(というか定型発達者)はどのようにしてこの難局を乗り切っているのだろうか、と不思議に思ってしまう。仕事をしながらなおかつ天気の話と政治の話を同時にする……気が狂うのではないかと思われるほどだ。彼はそういうチャンネルの切り替えが苦手なのだ。

また彼は疲れてしまった……音楽の話から恋の話をするつもりだったのだ。恋という(これを本来なら「特別な感情」と言い換えたいところなのだけれど、もう面倒なのでやらない)厄介な感情がしかし、彼にとっては世界を新しく開く切っ掛けとなったことを……神秘に触れられた思いがしたことを。しかし、そんな余裕はないようだ。十代の頃に女性に蛇蝎の如く嫌われまくった彼が今――人と比べたことはないが――女友達に恵まれているというのも不思議な話だが、まあ、そんな人生があっても良いのだろう。流石に限界が来てしまった。

彼はここで脳を休めることにする。出来れば Twitter から LINE からメールから……切り離した方が良いのだろう。溜まっている返信だけ過集中でやってしまおう。明日のことはまた明日だ。ここで彼は『妄想代理人』の登場人物の台詞を思い出す。「きっときみはつかれてるんだよ。もうやすみなよ」……例えば、カート・コバーンが『妄想代理人』を観たらどんなことを思っただろうか、と考えてしまうのは悪ノリが過ぎるというものだろうか? カートならゲラゲラ笑いながらあのアニメを観たように思うのだけれど……。