There She Goes

小説(?)

そっと運命に出会い運命に笑う / There She Goes #11

空中キャンプ

空中キャンプ

 

ふと、長編小説を読んでいて楽しいのはきっとその小説を読めば読むほど「小説」の中の「世界」が変容して行くことを味わえるからではないか、と彼は思う。いや、たった一日のことを長編にしたものだってある。未確認だが、例えばマルカム・ラウリー『火山の下』がそういう小説だったはずだ……だが、作品世界に流れる時間のことを言いたいわけではない。大河ドラマであれたった一日の内であれ、「世界」が変容する小説を読みたいと彼は思う。いや、「小説」でなくても良いのかもしれない。「言葉」が「世界」を変容させる……そういうものでなければ触れる価値などないような気がする。

逆に言えば、読んでも読んでも彼なら彼の中の「世界」が変わらないもの、安定したものなど読んでもなんの価値があろう。それはしかし、大袈裟な SF でなくても良いしマジック・リアリズムでなくても良いはずだ。ミニマリズムの手法を採ったものであっても、こちらの脳裏に強烈に焼きつく小説を書く作者だって居る。彼自身さほど読めていないので保留しなくてはならないだろうが、例えばアリステア・マクラウドなどがそんな作家だろう。「冬の犬」の微細な描写から浮かび上がるドラマ。非日常を「日常」にしてしまう筆力……そういったものに彼は惹かれる(だったら長編であることにこだわらなくても良いのだが、例えば未読のマルセル・プルースト失われた時を求めて』に彼は惹かれるものを感じる)。

いや、逆なのかもしれない。「日常」を非日常にしてしまう、という……そんなことを問い始めたらなにが「日常」でなにが非日常なのか、もっと言えばなにが正常でなにが異常なのか分からなくなってしまう。なにが狂っていて、なにがまともなのか。完全に正気を保った人間など――チェスタトンを引くまでもなく――存在しないに決まっている。病みながら、病とともに生きやがて病を癒す身振り……例えば『ラースと、その彼女』がそういう映画だったことを彼は思い出す。とある個人の狂気を、彼につき合うことで「治療する」のとは違ったやり方で、共存可能にして行く……。

なんの話をしようとしていたのだろうか……彼の話なのだった。彼の「特別な感情」もまた「治療する」ことに依って癒されるものではあるまい(仮にそれが「恋の病」だというのであれば、なおのこと「治療」につき合う医師など居まい)。それと「共存」を図ること……それこそが難しいのだけれど。今日も彼はヒマだった。世の中忙殺されている人々が多い中、『ユリイカ』の最果タヒ特集号を読み、そして沈思黙考する……ヒマであることを罪悪感のように感じてしまうことがある。持て余した時間がそれだけ罪悪感となって跳ね返って来るかのようだ。

そして、これも周知のことだが他人とはヒマ潰し相手となるような存在ではないのである……今日も彼は LINE などで迷惑を掛けてしまった。完全に独りぼっちで居られる技法を探すことは難しい。これまでなら器用にこなせていたはずの「孤独」を耐え抜く作業をこなす力が彼からはからっきし欠けてしまったかのようだ。これまで、「孤独」を埋めるために彼はあらゆることを試みた。例えば彼の眼前に映る「世界」を変容させるための読書……結局のところは彼は本を通して眼前の「世界」を、想像力を繰り広げることに依って自在に歪めて楽しんでいたのだ。さながら 3D の映画を観るように。

逆に言えば、「世界」それ自体を巧く生きられる人々の方が彼にとっては不思議でならない。彼は不器用だからこじれた自意識を抱えて生き、「世界」を読書や音楽や映画に依って歪めることで生き続けて来た。そんなものがなくても生きられる人々……あたかも(と留保しなければならないが)「世界」を柔軟に受け容れ、それを吟味し尽くす人々。彼にとっては「世界」がそれ自体単体としてあることが苦痛だ。そして、とある社会学者はそうした苦痛な「世界」を「日常」として受け容れ、「意味」を問うのではなくその時々の「強度」を味わい生きろと説いたのではなかっただろうか。

話が散漫になってしまった。今の彼の話に戻ろう。彼は今日も差し当たってなにも受け容れられないまま、本も読めずなにも出来ず「世界」を生きた。その途方もない無意味を……あるいは空疎を生きた。彼は働くことが好きになって来ている。ともあれ仕事は空疎な時間を埋める最適な、そして有意義な営みであるからだ。逆に言えば仕事から解放されたあとの時間は無意味として残る。彼にはアルコールという手段も禁じられてしまった。残るのは途方もない無意味……それをしかしどうやって受け容れろというのだろうか。結局のところこの「特別な感情」に引きずり回されて、差し当たって「アンニュイ」を生きるしかないという……彼女はどうやって生きているのだろう?

これを書いているのは夜中だ。女友達がメールの相手をしなくなってしまったようなので、眠ってしまったのだと判断する。彼も眠らなければならない。「規律化された言葉ではない、深層からの衝動によって壁に穴をあけろ」と彼は Facebook で言われたのだった。そのために詩を読み、書くことを薦める、と……だから彼はこうした文章を書き連ねる。これらはしかし「深層からの衝動」なのだろうか。自分にはそんなエゴなどないような気がする。彼の内面は途方もなく空疎だ。その空疎を空疎のまま誤魔化してきたツケが回って来たようだ。アルコールも書物もなく、差し当たって単純に享受出来る快楽もなく……それよりも濃密な存在として、彼女の言葉がそして佇まいがある。

近々彼女と会える……その事実が彼を喜ばせるかというと、それはそれで微妙なところがある。彼女と言葉を交わし、本音を語ることが彼の「特別な感情」をどう変えてしまうか分からないからだ。病はいよいよ解決されるのかもしれないし、余計にこじらせてしまうことにも繋がりかねないだろう。どちらに転んでも危うい、と彼は思う。それまで無傷で完全だった自我が壊れてしまうということ……しかし、それもまた彼の「日常」の中に呑み込まれて、いずれは癒えるという確信を抱くことは出来るだろうか。彼は遂に狂ってしまうのではないだろうか。分からない。言えるのは結局、これまでになかったような体験が訪れるということだ。彼をこれまで以上に揺さぶる何事かが。「そっと運命に出会い運命に笑う」……そんな歌詞がふと頭の中に浮かぶ。これも「運命」なのか。それを「笑う」ことは、果たして可能なのか……。