There She Goes

小説(?)

Beyond / There She Goes #9

coctura(remix album)

coctura(remix album)

 

言葉に依って物事の本質を捕まえられるかというとそうでもない。言葉とは本質的に人間の外部に属するものだからだ。言葉は異物として現れる。彼らはそれを「学ぶ」。難しいことを書いているだろうか? いや単純なことだ。誰も「言葉」を外部との接触の中で獲得するという、至極当然のことを書いているに過ぎない。その意味においては、喋ることや書くことは外在する言葉で内在する自分の気持ちや思考などを表現するということに繋がる。そんなことが容易く出来るものだろうか? 出来ないからこそこの世の中は誤解や嘘や誤魔化しで成り立っているのではないだろうか?

ここで舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』を引こう。「祈りは言葉でできている。言葉というものは全てを作る。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる」。そう、「言葉」が織り成すのが「物語」である。彼が今編んでいるのもある意味では「物語」なのだろう。とある女性をめぐるいざこざに関する「物語」……それをしかし書き連ねることは幸せに繋がるのだろうか。彼女との「特別な感情」はそれで癒やされるのだろうか。

職場で彼の奇行が取り沙汰されるようになり、プライヴェートでも色々あって行き場を失ってしまったような気がした状態で、彼はこのどうしようもなくぶっ壊れたテクストを書き続ける。聴いているのはマトリョーシカの『コクトゥーラ』というリミックス版。どのリミックスも良いのだけれど、個人的に彼が愛好するのはヘッドフォンズ・リモートに依る「Beyond」のリミックスだ。それを聴きながら、彼は昨日起こったことを整理してみる。昨日も活字が頭に入らなかった。どんな本を試してみても無駄だった。波多野精一『時と永遠』、舞城王太郎、そして『ユリイカ』の最果タヒ特集号……諦め掛けていたところに最果タヒの『グッドモーニング』が入っているのを見つけ、読んだ。貪るようにして読んだ。

それから彼は彼をそれなりに知る女友達とメールをした。ウォン・カーウァイ恋する惑星』を観ることを薦められた。「恋をすると、人間変わるよ」……この「特別な感情」が「恋」なのかどうなのかは差し当たって脇に置いておこう。『恋する惑星』。彼の(嫌いというわけでもないのだけれど)そんなに好きというわけではない映画……今観直すと印象が変わる、とのことなので近々観てみようと思っている。「恋愛映画」を観るように薦められたのだが、だとしたら今借りている是枝裕和『空気人形』は「恋愛映画」なのだろうか、と考える。

女友達……彼女の人生にはそういう「女」「友達」と呼べるような存在、つまり「特別な感情」抜きでつき合える人が多い。彼だけではないのかもしれないが、彼の人生を変えてくれる存在はいつだって女性だったような気がする。初めて書いた小説を読んでくださった女性、初めてチャHというものを教えてくれた女性、そして彼女……彼女は彼になにを教えるのだろう。彼の内部は空洞だ。彼から彼女に捧げられるものはなにもない。パトリック・ベイトマンのように空虚な存在……いや彼は誰も殺しはしないのだが。あるいはムルソーのようにのっぺりとした存在としての彼をも想起する。

昨日は断酒会だった。他に喋ることもなかったので体験発表としてこの話をした。「特別な感情」を抱いている人が居るということ。なにも手につかないということ。彼女のことを考えればそれが自然となってしまうのではないかと言われたこと、等など……結局は「その気持ちを愉しめば良い」という話になったので、彼は昨日は最果タヒ『グッドモーニング』について感想文を書いた。心に突き刺さって来るフレーズについて考えた。「わたしは考えるとき文字にしなければならないと思っています」(『会話切断ノート』)……不安定な感情で苦しむ彼にとって最果タヒの言葉は身に沁みた。

突き詰めて考えれば、彼は「こじらせ」た人間なのだろうと思う。恋愛感情なのかどうか分からないが「特別な感情」をこの歳になってもなお味わい続けている男……その悩みは「可愛い」と言われ、あるいは「恋をしているなら自然だ」と言われる。さて、どうなのか……本が堆く積み上がった部屋を眺め回して考える。巷で書かれている恋愛小説がさほど面白くないのはこの「特別な感情」を「整理」されてしまった形で表すからだ、と彼は思う。「こじらせ」た人間が「こじらせ」た形で表現している「小説」……そんな「小説」を探しているのに。あるいは「言葉」を探しているのに。

「過去について祈るとき、言葉は物語になる」と舞城王太郎は書き、最果タヒは「私の体とこころを作っているのは明らかに過去の私であって、だからこそ、過去の私は永遠に私を痛めつける存在でいてほしい」と書く。彼は過去を持たない。過去の記憶は雲散霧消してしまっている。下手をすれば「昨日のことさえもずっと昔みたいに」……ここで不意にフィッシュマンズを持ち出してしまったことに彼は驚く。フィッシュマンズ……いや、彼らについて書く余裕はないだろう。いずれにせよ「過去」について考える事の出来ない彼に、「過去」が今を作ることを再確認する作業は酷くリアリティがない。彼は「過去」のテクストを残さない。いつだってこれだけのことは書けるさ、と思って書き記している。だから「過去」のブログの記事もローカルに保存したまま眠らせてある。

「過去」の自分を越えて今の自分があり未来がある……未来の自分は過去の惨めな(その程度の記憶ならある)自分を弾き返すだけの力を備えているだろうか。酒抜きでやり過ごさなければならないこの焦燥感……今日もまた取り留めのない記述で終わってしまった。『グッドモーニング』を暫くは読み返す日々が続くのだろう。

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