There She Goes

小説(?)

Let Me In / There She Goes #8

モンスター

モンスター

 

「厳密にいうと、ぼくたちはいつも同じことを書いている。きみは病気じゃないかとぼくがたずね、同じぐあいにきみがたずねる。ぼくは死にたいと願い、きみもそうだ。ぼくが切手を望むと、きみも望み、少年のようにきみの前で泣きたいぼくと、少女のようにぼくの前で泣きたいきみと。一度ならず、十度ならず、千度ならず、ずっとずっときみのそばにいたいし、きみも同じことを言う。もう十分だ」

これはフランツ・カフカがミレナという女性に宛てて書いた手紙の一節である。カフカがフェリーツェ・バウアーという女性と二度結婚し二度破局を迎えていることは、カフカに少し関心のある方ならあるいは周知のことかもしれない。だが、その後にミレナという翻訳家とも交際しており、フェリーツェもミレナもカフカから受け取った手紙は保管していたのだった(カフカは彼女たちから受け取った手紙を焼いたか、あるいは散逸させてしまった)。彼女のことを考える時に、彼はふとこの一節のことを思い出したのだった。

他愛もない思いつきに身を委ねる……例えば彼女はスーパーカーの音楽を聴くのだろうか、というような(彼は他のアルバムも持ってはいるのだが『Futurama』しか聴かないし、それで充分だと考えている)。人間の思考の中には一個の宇宙がある、というようなことを誰か――中井久夫だったと思うのだが――語っていたことを思い出す。従って人を殺すことは一個の宇宙を消滅させることである、と……彼は彼女の中に広がる「宇宙」について思い至る。彼女の中にもきっと「宇宙」があるのだ。外見はごく小さな個体でしかあり得ないが、内部は遥かに広大だ。

同じものを聴いても同じものを観ても、同じことを感じても人に依って感想が違うということ。それはなんと「Wonderful」なことだろう! 彼女の中に映る世界を彼は観たくなるし、彼女が聴いている音楽を彼も聴いてみたくなる。だが、割れた陶器を組み立て直すようにして彼らが噛み合うことはないだろう。そこには必ず違和感やすれ違いが生まれる。そう簡単に人間は「ひとつ」になんてなれない。それは分かっている。そして、と彼は思う。だからこそ面白いのではないか、と。それ故にこの「特別な感情」には意味があるのではないか、と。

フェリーツェのことを彼は書こうとしていたのだった。頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』で、頭木はこのようなことを書いている。正確な引用ではないが――「巧く生きられない人間は巧く食べることが出来ない」と。つまり外部の物質を巧く自分の中に取り込めないからこそ巧く生きられないのであり、あるいは巧く生きられないから巧く外部と関われないということだ。しかしそれなら、と彼は思う。それは読書においても言えるのではないだろうか、と……彼は相変わらず活字が読めない生活を過ごしているのだけれど(森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』を読もうとして、数ページで投げ出してしまった)、活字もまた外部の物質である。それを巧く取り込めないことが、彼の生きづらさと繋がっているのではないだろうか、と。

カフカがフェリーツェに惹かれた理由を、頭木はフェリーツェが当時としては珍しいキャリア・ウーマンだったことにあるのではないか、と分析する。カフカは巧く生きられない薄給の官吏でしかなかった。だからこそ、逞しく生きるフェリーツェに恋焦がれたのではないか、ということだ。これに関してはカフカが実際にフェリーツェに宛てた手紙を読むしかないのだが、『ミレナへの手紙』を読んで果たしてそういうことだったのだろうか、とも考える。フェリーツェは「巧く生きられる人間」だった、のだろうか、と……キャリア・ウーマンだったからこそ「巧く生きられない人間」だったのではないか、と。『ミレナへの手紙』におけるカフカとミレナの生きづらさの共有を読んで、そう考えるのだ。

彼が恋焦がれている彼女が高知能を有していることをは既に書いた。その意味で彼は彼女の中に「巧く生きられる人間」の姿を見出してしまう。カフカがフェリーツェを見たのと同じように……だが、彼女もまた「巧く生きられない人間」であったことを彼は体験談として伝え聞いている。湖に身を投げてずぶ濡れになって帰宅した、首吊りを試みた……「巧く生きられる人間」の中に「巧く生きられない人間」が混在していることが魅力的で矛盾した細部となって彼を魅惑する、と書けば怒られるのだろうか。これ以上は『フェリーツェへの手紙』を読むしかあるまい。

聴いている音楽に自分の思いを投影し、逆に言えば聴いている音楽から自分の現状を推測する癖がある、と彼は書いたことがあっただろうか? 今彼が聴いているのは R.E.M. の「Let Me In」という曲である。カート・コバーンの死を偲んで R.E.M. のメンバーが演奏した曲……悲痛さが胸を打つ楽曲だ。これを聴きながら、あるいは「巧く生きられない」から大量の活字を読み、そしてそれ故に(?)なおのこと生きづらさを抱え込むことになってしまった二階堂奥歯のことを思い出す。『八本脚の蝶』……彼女の遺稿には恋や愛には収斂され得ない「男」への思いを綴った「女性」としての二階堂奥歯の姿が剥き出しとなっている。

だが、今日はこれ以上書く余裕はないようだ。この駄文もそろそろ切り上げなければならない。しかしなにを書いて終われば良いのだろう……そう考えて、彼はふとポール・オースター『孤独の発明』から一節を選び抜く。あるいはこれから語ることにこの言葉が関連して来るかもしれないし、しないかもしれない。単なる抜き書きだ。「なぜなら彼は信じているからだ――もし真実の声があるとするなら、真実などとおいうものが本当にあってその真実が語りうるものだとするなら、それは女の口から出てくるはずだと」(p.202)。むろん、この表現に問題がないとは言わない。むしろ悪い意味で男臭い一節かもしれない。だが、今の彼に妙な後味の悪さを残すものとしてこの言葉を記すに留める。