There She Goes

小説(?)

言葉がウォッカのように透明な場所でなら / There She Goes #7

キューピッド&サイケ’85

キューピッド&サイケ’85

 

帰宅後戯れに、恋と愛の違いについて考えたくなる。そして教わったポール・オースター『ムーン・パレス』の、愛についての定義が語られる箇所を開く。

「僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた。僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。 それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ」

……あるいは舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』を開き、しかし今日は読み返す時間がないので冒頭の「愛は祈りだ。僕は祈る。」という言葉を噛み締める。愛について書かれた小説はしかし、彼にはピンと来なかったものではないだろうか。『好き好き大好き超愛してる。』が舞城王太郎の小説の中でもさほど面白いものだとは思えなかったのは、結局彼が恋愛というものにそんなに興味を持てなかったからなのではないかと思う。舞城王太郎がつまらないわけではない。恋愛小説がつまらないのだ――少なくともかつては。

「言葉がウォッカのように透明な場所でなら、忘却が僕らを近づけてくれるのだろう」という内容の歌詞を思い出す。「Where the words are vodka clear / Forgetfulness has brought us near」……どうとでも読める箇所だ。ただの飲んだくれの男の戯言でもあるのだろうし、深遠な意味を読み取ることだって可能なのだろう。「ウォッカのように透明な」「言葉」……80 年代に作られたどんな音楽にも増して(マイケル・ジャクソンやプリンスにも増して、ジーザス・アンド・メリー・チェインやザ・スミスにもペット・ショップ・ボーイズにも増して、等など……)美しいこの曲を聴きながら彼はこの手記を書く。

彼が語る言葉はビールのように濁っている。あるいはビールを飲み過ぎて放たれる小便のような異臭を放っている。だから、なかなかポール・オースター舞城王太郎のような気が効いた言葉を語れない。リアルの会話は、単に歯ブラシを一本買うことでさえ彼にとっては苦痛の連続だ。喋ろうとするとテンポが早くなり過ぎるか遅くなり過ぎる。吃り、つっかえ、そして噛む……彼女の喋り方についてはもう書いた。歯切れの良い口調、ロジカルな言葉、落ち着いたトーン……彼女はなんと美しいのだろう。二度しか話したことのない彼女の言葉こそが、彼には「ウォッカのように透明な」「言葉」に聴こえる……。

彼女を見ているのだろうか、それとも彼女の言葉を見ているのだろうか? 彼女の端正な言葉に幻想を抱くあまり、彼女自体を歪んだ意識で見てはいないだろうか? ここで手詰まりとなり、積んだままの大澤真幸『恋愛の不可能性について』という本をパラパラとめくるのだけれど、ふと「情熱とは、言うまでもなく、感情の高揚を含意しているが、情熱愛において興味深いのは、それが、苦悩への高揚であった、ということである。つまり、情熱愛においては、他者を享受する快楽が、純化された苦悩と合致してしまうのだ」というフレーズが目につく。これもなんでもないような言葉だ。

純化された苦悩」……彼自身が抱える恋の病(?)とはつまり、そのようなものなのだろう。つまり「愛」の「快楽」があるから故の「苦悩」、逆に言えば「苦悩」なくしては存在し得ない「愛」……それを平たく言えば、恋をしているのであれば恋の病(と、差し当たり語っておこう)を抱えることは必須であり、恋の病の中に恋の本質があるということなのではないか……と。今日のメモは引用で終わってしまいそうだ。それでなにが悪いというのだろう、と彼は思う。ここで撒き散らされた種が、いずれ花を咲かせることもあるのではないか。だから今日は散々種を撒き散らすことにしよう。

「Every time I see you falling / I get down on my knees and pray / I'm waiting for that final moment / You say the words that I can't say」というフレーズも頭をよぎる。さっきとはまた違ったグループの曲。試訳するなら「いつだって君が落ちる時/この僕は跪いて祈るんだ/最後の瞬間を待っている/言えない言葉を君が放つのを」となるだろうか。これも 80 年代に生まれた曲の中では抜群に好きな曲だ。「言えない言葉を君が放つのを」……ぎこちない訳文になってしまったことで、結局過去に翻訳家となることを諦めて正解だったことを知り、彼は恥を感じる……。

「言えない言葉」……彼女の口から、きっと永遠に放たれることがないだろう言葉が飛び出すのを想像する。それはざっくり言ってしまえば、「あなたを愛している」という言葉なのだろう、と。彼女の歯切れの良い喋り方が、彼にそう告げることを彼は待ち望む。だが、それは叶わないことを彼は一番良く知っている。どうしたものか……彼に出来ることは結局「祈る」ことでしかない。「祈る」……それは他者を攻撃しないことだ。自らの内でなにかを念じる……ラース・フォン・トリアー奇跡の海』で妻がひたすら祈ったように、彼は彼の中の彼と対話を重ねる。今日の駄文も、そんな彼自身の「祈り」の産物に過ぎない。

「Each time I go to bed I pray like Aretha Franklin」……また違うフレーズを思いつく。アレサ・フランクリンのように祈る……いつもベッドに行く時は。だが、これ以上考えるのはもう止めよう。彼は疲れている。