There She Goes

小説(?)

Unknown Pleasures / There She Goes #6

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

 

戯れに山崎浩一『男女論』のページを繰ってみると、こんな記述にぶつかる。「ぼくたちは、本当に恋愛という厄介でのっぴきならない〈関係〉を引き受けることを求めているんだろうか。単に『私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材』を求めているだけなんじゃないだろうか。『私に素敵な思い出をくれるだれか』だけが欲しいんじゃないんだろうか。(中略)だとすれば、『他者』なんぞという厄介な相手と恋愛なんぞというしちめんどくさい手続きをするまでもなく、情報資本主義のショーウィンドウにいくらでも揃っているのだ。ほら、ここにも、ほら、あそこにも。世界は『恋愛』でいっぱいだ!」

彼はこれまで十数回は読み耽って通り過ぎたはずのこの箇所に今更ぶつかり、思考を重ねる。「情報資本主義」は「恋愛至上主義」とも読み替えられるのだろう。「恋愛至上主義」……つまりあたかも恋をしなければならないかのような風潮を彼はひしひしとこれまでの人生で感じて来た。以前にも書いたかもしれないが、彼は恋愛感情というものがどのようなものなのか分からない。そういう感情を「持たない」わけではないことは分かって来たようなのだけれど、そういう感情を「どう位置づけて良いのか」には困ってしまって今悩んでいるところである。

山崎浩一のコラムの中で引っ掛かる言葉が「私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材」というところである。「人生を」「物語にしてくれる素材」……恋愛とはもしかすると人が「物語」を生きるための「素材」なのかもしれない。だというのであればそこに本来なら他者との関係を重んじなければならない「恋」の本来あるべき姿とは随分倒錯しているように感じられる。人は「恋」をしたいのではなく、「物語」を生きたいのではないか……と思うのだ。そして、その「物語」を生きたいという気持ちは彼にも分かるのだった。

敢えて言えば、人間の人生は「物語」としては出来上がっていないのだろう。いや、スティーブ・ジョブズ的に言えばあとになって過去に自分が行ったことを、点と点を結びつけるようにして一本の線という「物語」を組み立てることが出来るのだろう。あるいは、起こり得たことに意味があるのかどうかという側面からも見てみよう。そうすれば佐々木敦未知との遭遇』で語られて来たようにあらゆる出来事は「そう来たか!」と自分自身が練り上げる人生という「物語」の中に位置づけることが出来る(ここで千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』に触れられないところが彼の限界である)。つまり、人は自分が作り上げた「物語」を生きている。ライフヒストリー……大袈裟に言えばそういうものだ。

人はそのようにして「物語」を織り成し、そしてその中で生きている……例えばそれはなにも自分が自分の「物語」を織っているのではなく、人に語らうことで自分の体験を「物語」化し浄化するという試みだって変わりはあるまい。例えば村上春樹アンダーグラウンド』で村上春樹が人の言葉を聞いてヒーリングを施したように……なんてことはない。自分でも整理のつかないことを語ることに依って整理をつけて治すというたったそれだけのことだ。その意味では人は「物語」を必要としている。「物語」の中に自分を統合させ、そしてそれに依って順序立てて何事かを語ることが出来た時に人は癒しの作業を終えているのだ。

だが、ここで一片の疑問が起こる。書物なら、あるいは映画ならそれを「物語」の中に導入することは容易いのだろう。折に触れてこんな本を読みこんな映画を観て来た、等など……だが、今度は人の居る事柄である。彼女についてなんと説明すれば良いのだろう。「僕の『物語』を完成させるための素材になって下さい」? それはしかしかなり乱暴な事柄に入るのではないだろうか? 彼女の存在がこの小説らしきものを書かせていること自体は確かだ。だが……と思う。何処まで彼女のことを「物語」を完成させるための素材にして、何処からそんなちゃちな「物語」を壊すための異物として受け容れなくてはならないのか……。

人は中置半端に出来上がった自己だったか自我だったかを壊すために恋愛をする、あるいは恋愛は中途半端に出来上がった自己や自我を壊す、と橋本治は何処かで記していたことを思い出す(『89』だっただろうか?)。だというのであれば、彼女の存在をヤワな「物語」の中に取り入れて「これは『恋』だ」とすんなり受け容れることだけは断じて慎まなくてはならない。それは思考におけるある種の怠惰さの現れだ。どう整理しようが位置づけを拒むものとして彼女を「他者」として受け容れること。それが彼に求められる最大の誠意なのだろうと思う。

「恋」として安直に受け容れるのではなく、それが「恋」なのかどうかという疑問を保持し粘りに粘ること……例えば(冒頭しか読んでいないので分からないのだが)マルセル・プルースト失われた時を求めて』が教えるように濃密なまでに感じられた感情を味わい尽くすこと…… 今の彼に求められているのはつまりそういうことなのだろう。この恋の苦しみを「エンジョイ」すること……読みたくなったものを読み、聴きたくなったものを聴き、語りたくなったことを語ること。裏返せばそう出来ない事柄についてはなにもしないこと。これもまた最大の誠意なのだろう。

だから、これは結局は「特別な感情」なのだと彼は自分に向かって言い聞かせる。これは「恋」なんかではない、と。だけど、彼女はどう受け取るのだろう? 「これは『恋』ではないかもしれません。僕にとって『特別な感情』なのです」……と語られて、彼女はその言葉の含意を読み取れるのだろうか? それはなにはともあれ彼女に任せることにしよう。この「これは恋ではない」感情に関して彼は幾らでも書けそうだが、差し当たりこのあたりで一旦筆を休めて暫く静かに考えることにする。少し歩くのが良いのかもしれない。そうすればなにかが氷解してしまうのかもしれない。