There She Goes

小説(?)

「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」 / There She Goes #5

New Adventure

New Adventure

 

金井美恵子『道化師の恋』で、「そうなんだ、あたしは恋をしている!」という不意の啓示(らしきもの)に登場人物が打たれる場面が登場することを、彼は思い出す。「恋をしている!」……この箇所のこと以外『道化師の恋』の内容はほぼ忘れてしまったのに等しいので、自分の記憶力の減退を感じて溜め息を吐きながらしかし初読の頃の自分の感想を思い出そうと考える。この箇所があるからこそ自分はこの小説をずっと記憶し続けられていたのではないか……いつぐらいから読み返していないのか分からないが――きっと彼が高校生の頃に読んだきりなのだろうと思うのだが――この箇所に彼にとって重要な意味があるような気がしたから覚えているのかもしれない。

「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」……この言葉の不自然さに彼はずっと引っ掛かっていたのだった。いつになれば人は「今恋をしている!」などということに気づくのだろうか、と。彼には「今恋をしている!」と自覚出来た瞬間はない。いや、「恋」をしたことはこれまでの人生であったのかもしれないが、それを「恋」として自覚し自分の中で落とし込んで整理出来たことはない。途方もない感情の揺さぶりが到来し、そして浮ついた気持ちになりあるいは落ち込む……その感覚をしかしどうしたら「恋」と呼べるのだろうか。

「恋」とは、例えばこんなことではないかと彼は考える。丹生谷貴志加藤典洋を批判した文章で丹生谷は「現場において『理念』の下に戦い死んで行く者などいない」と記している。「なるほど人は『理念』 のために戦う決意はするだろうが」「例えば(誰だっていいのだが)カントが詳細に分析したように、実践現場の者は次々に現れる『出来事』 の中に解体して行くのであり、そこに訪れる『死』 は文字通り『理念』には決して還元され得ない出来事である」 と。しかしこれは「恋」にも言えることなのではないだろうか?

「恋」とはつまり「理念」などではない。世間一般的に言われている「恋愛のディスクール」に染まり、例えばフローベールボヴァリー夫人』のように「恋に恋する」人は現れるのかもしれないけれど実際に自分の身に個人的に起こってしまう出来事はそんなに、通説通りに「あたしは恋をしている!」という形で腑に落ちるものとして現れないのではないかということだ。出来事は――なんなら明日訪れるかもしれない私の「死」にしたって――敢えてこんなことを書けばもっと散文的な、ドラマ性に収斂されない何事かであるのではないか、と。

「恋」は文字通り「理念」には決して還元され得ない出来事である……それが「恋」なのだろうか。つまり、これが「恋」であるとは語り得ないものこそ/までもが「恋」なのだろうか? だというのであれば「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」という言葉は一種のネタ/ギャグとして――金井美恵子の小説は本質的に「ギャグ」だろう――読むべきなのだろうか? 「恋」というものは遂に分からない「出来事」であり、彼はその「次々に現れる『出来事』の中に解体して行く」存在でしかあり得ないからだ。だというのであれば、彼は「恋」という感情を恐らくは「恋愛のディスクール」とは異なる場所で体感していることになる。

……いや、だというのであれば彼は何故それを「恋」として納得するのだろう。それはきっと、彼が感じていることが多くの人々から「恋」ではないか(その不可解さ、唐突さも含めて)と指摘されたからであり、かつ『道化師の恋』を想起したように――別にそれは『眠れる美女』でも『ノルウェイの森』でも、『痴人の愛』でも『好き好き大好き超愛してる。』でも『ロリータ』でもなんでも良いのだが――「恋」を描いた物語の登場人物に己を照らし合わせることが出来るからに他ならない。彼が「恋」なのかどうなのか分からないことが、世間では「恋」という言葉で整理づけられるのだ。たとえそこに僅かな違和感や感情的綻びを感じようとも……。

散文的な「特別な感情」は、こうして「恋」という曖昧な(詩的な?)概念の中に位置づけられる。だとすればこれまで彼に生じたことも、これから彼に生じることも基礎的には「恋」のもたらす現象として整理づけることが出来る……職場で喋り過ぎて叱られること、活字が頭に入らないこと、なにも手につかないこと、等など……言葉に依るラベリングはしかし、「恋」だというその感情がもたらす奇行を抑えるものなのだろうか。むしろ「恋」なら「恋」がもたらす狂騒状態に拍車を掛けてしまうことに繋がりはしないだろうか? 書くことが病を癒す場合もあるだろう。だが、書くことでこじれてしまう病もあるのではないか? と書きながら彼は考える。

だとしたらどうしたら良いのだろう……分からない。だが、ともあれ書くことが揺らぐ彼の心理を観察させることに繋がるのなら、シュレーディンガーの猫の逸話が教えるようにその「書く」という営み自体も「恋」のあり方を歪めてしまうことだろう。そんな経験は唯一無二である。四十代の男が「恋」のことについて書きながら/考えながら「恋」をする……そんなことが日常的に起こることなのだろうか? そう頻繁には起こらないだろう。あるいはこれは 10cc の「I'm Not In Love」の歌詞が教える通り「馬鹿げた過渡期の戯れ(It's just a silly phase I'm going through)」なのだろうか。分からない……。

人は絶望すらも楽しむことが出来る生き物である……ワールズ・エンド・ガールフレンドの音楽はそんなことを彼に教えてくれた。今彼は My Little Lover の歌詞のことを考えている。「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」……彼が差し当たって感じているものが絶望としての「恋」なのか希望としての「恋」なのか、それは彼には分からない。分からない、分からない……書けば書くほど彼の中には謎が残る。恐らくは、言葉が何故通じているか分からないのに言葉を使うのと同じように、「恋」とは何故それが「恋」でなければならないのか分からないまま使われる言葉なのだろう、そう彼は思う。