There She Goes

小説(?)

Hurtbreak Wonderland / There She Goes #4

Hurtbreak Wonderland

Hurtbreak Wonderland

 

突き詰めれば彼の身体は、あるいは精神は、誰かから与えられたものに依って構成されている。言葉が/思考が……彼がオリジナルで編み出したものなどこの世の中には存在しない。彼はむしろアイデンティティを持った存在として収縮して行くのではなく、会社なら会社、友人なら友人、家族なら家族といった多様な関係の中でアイデンティティを引き裂かれながら生きていることを意味するのだろう、といったことを例えばポール・オースター『ガラスの街』を読みながら考える。引き裂かれるアイデンティティ……他者との関係の間で無数に砕け散ってしまうアイデンティティに整合性などありはしない。自己は矛盾する。恐らくは彼が考えているよりももっと容易く……。

……というようなことも既に誰かに依って言われてしまっていることの後追いでしかないことに(要するに「スキゾ」と「パラノ」の話なのだろう!)気がついて、彼は改めて自分が凡庸な人間でしかあり得ないことに落ち込むのだけれど、「自己」なんてものがないと考えれば――「自己」とは要するに「他者」との関係の中でこそ立ち上がるものであることを考えれば、つまり「他者」が現れて彼/彼女とコミュニケートすることに依って初めて「自己」が生まれることを考えれば――それで幾分かラクになったような気はするのだ。「自己」が必ずしも整合性を備えていなければならないわけではない。それどころか、整合性がないからこそ「自己」は面白いのかもしれない……。

彼女との「特別な感情」――それを「恋」と呼ぶことだけは抵抗があるのだが――について考えながらワールズ・エンド・ガールフレンドの『Hurtbreak Wonderland』を聴いている。これまで何度も聴き通そうと思って聴けなかったアルバムなのだけれど、不思議と頭に入って来る。そうしながら彼は考える。彼の中で起こり続けている何事かの変化を……彼女のことを考える度に/あるいは彼女のことを考えなくとも、彼には変化が起こっている。いや、そもそも変化のない人間など居ないのだろう。人間のアイデンティティとはもっと動的なものであるはずだ。他者の矛盾する言動によって揺さぶられ、そうして安定を失い、そして取り戻す。その繰り返し……そうした揺らぎの中にこそ「自己」はある。

たまたま古井由吉『野川』について彼が自分で十年前に書いたメモを読んでいたのだけれど、その中に彼自身も忘れてしまっていたポール・オースターの次のような言葉が引用されていた。「物理的にどんなに孤立しても――無人島に置き去りにされても、独房に幽閉されても――自分のなかに他者がいることがわかる。言語、記憶、それこそ孤立感に至るまで、頭に浮かぶあらゆる思いは他者とのつながりから生じている」。「孤立感」も「他者とのつながりから生じている」……そのことを彼は考える。彼女が居ない今、彼女とどう足掻いても連絡を取れない今、彼はその「孤立感」について考える。自分ではどうしようもないものについて……。

「自己」は揺らぎの中にある、と書いた。揺らぎに依って生み出される「自己」は従って、個々人に応じて相当に違ったものになるのだろう。彼と彼でない人間の相違、「自己」と「他者」の相違……それを人は「個性」と呼ぶのだと教わった。「個性」……「自己」の、彼の私淑するコラムニストの言葉を使って言えば「ゆがみ」……その「ゆがみ」を確認する作業が彼にとっては文章を書くことであり、逆に言えば彼は彼の「ゆがみ」を書くことに依って初めて知るわけだが、その作用がフィードバックして来てまた新しい「自己」を作る。書くこともまた、自分という「他者」を通して始められるコミュニケーション……これもまた分かり切ったことだ。

「彼女ならどう答えるだろう?」と彼は考える。彼女らしい切り口でこの問題をどう答えるか……彼の中に棲みついた彼女が語ること。むろんそれはリアルの彼女が語ることではない。「彼の中に棲みついた彼女」と「彼女」は違う。彼が彼女を見ている時に、彼は「彼の中に棲みついた彼女」の像を増幅させて考えることは出来るけれど、「彼女」を見ているのだろうか? 突き詰めて考えれば主観以外の世界はあり得ない……やれやれ、これもまた陳腐な事柄に過ぎない。彼の思考が産み出すこと、そして書くことはそういった凡庸な哲学談義の域から遂に出られない。彼の知らない言葉を探す他ない。

彼は聴いている音楽に依って、読んでいる文学に依って自分のコンディションを把握することがある。活字が頭に入らない状態で辛うじて読めたものが、例えばストーカー男の小説(川端康成『みずうみ』)だったり「恋多き男の自殺願望」であったり(頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』)、あるいは「中年男の失踪」を描いた安部公房砂の女』やポール・オースター『ガラスの街』であったり……危うい状況に置かれているのが彼には分かる。だが、彼に相応しい答えは書物の中にはない。最終的に彼は油照りの中を待ち続けるしかないようだ。

彼は語る。喋る。それは常に周囲と齟齬を来す。それもまた彼の「ゆがみ」に依るものなのだろう。彼の絶えず変化し続ける「ゆがみ」という「自己」のあり方……それを彼女は肯定してくれるのだろうか? それはもちろん、彼を「恋人」として受け容れることではないだろう。彼の存在を包み込み、許容し、理解しようとすること……平たく言えば「友達」になること。それを彼は求めている。だが、それを決めるのは彼女なのだ。その決断の時が訪れるのを、「待つ」しかない……なんらかを「待つ」……例えば太宰治の小説の主人公のように? あるいはムルソーのように(ここでベケットを持ち出せないことが、彼の限界を示しているのだが)?

ともあれ、「待つ」しかない。それまでこの「Hurtbreak」を「Wonderland」の中で起きた愉快な出来事として、受け容れるべきなのだろう。そう、人は楽しもうと思えば、叶わない願いを抱く絶望すらも楽しめるのだ(そして、恐らくそれは「幸福」なことなのだろう……)。