There She Goes

小説(?)

F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. / There She Goes #2

パルプ・ヒッツ

パルプ・ヒッツ

 

今日も彼は一日を、どんな本を携帯するか考えるところから始める。むろん全て読めるわけではないのだが、マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』や古井由吉『仮往生伝試文』、そして昨日読み掛けて中断したスタニスワフ・レムソラリス』、最果タヒ『空が分裂する』『グッドモーニング』、カフカ『変身』といった本を携帯する……差し当たって「恋する男」である彼には今どんな活字を読みたいのか分からない。だから外出先で出たとこ勝負になるわけである。夏目漱石の『三四郎』を薦められたので、それを読むのもひとつの手なのかもしれない。

まだるっこしいことは嫌なので彼女の話をしよう。「彼女」……これまでに二度お会いしただけの人間に「特別な感情」を抱いてしまうことは当然のことなのだろうか。しかもそんなに親しく話し込んだことがない方である。二度目にお会いした時は彼はスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』という本を渡した。後に彼女の母親に会った時に談話したところ、熱心に彼女は読んだそうだ。気に入られたのか、と少し嬉しくなってしまった。

彼女とは発達障害当事者と家族の会で出会った。高知能を有しておられる方で、だからなのか彼女からはオーラを感じた。正視出来ないほど眩しい……それはしかし、彼女が高知能を有しているから惚れたとかそういう話にはならないはずだ。だというのであれば彼よりも高い知能を持っている方、読書の幅が広い方、映画の知見が広い女性は沢山居る……だが、彼女は彼女として取り替えの効かない存在なのだ。彼女を失ったからといって「では次の女性を探そう」という話にはならないはずだ。それでは安直に過ぎる。

極論を語るとしよう、彼女を失う。だとしたら彼女に幾ら似せたアンドロイドを作ったところで、あるいは彼女と同じクローン人間を作ったところで、しかし「でもこれは『彼女』ではない」という一滴の違和感が残ることになる。彼女は彼女でなければならない……欠点も美点も含めてありのままに愛するということ、それこそが恋の要諦なのだろう。逆を言えば、「欠点も美点も含めてありのままに愛する」ことを彼女が彼に対して行うことは可能だろうか(あるいは彼女以外の女性が彼に対する場合でも良いのだが)?

彼は自分が欠点だらけであることを感じる。安月給でみすぼらしい服装、読書しか取り柄がないこと(その読書の内実もお粗末であることは書いたかもしれない)。そしてルックス……彼はこれまでの少年時代を、女性から蛇蝎の如く忌み嫌われて育った。女性というものはアンタッチャブルな存在なのだ――だからミソジニーに行かなかったのが何故なのか分からないのだが、ともあれ歪んだ男女観を有していることは確かだ。これに関しては自覚がないので厄介なところなのだが……。

彼女を失う……彼女には既に彼氏が居るとのことなので、だというのであればこの「特別な感情」を伝えて友達としてでもつき合わせていただきたいと思っているのだけれど、いずれにせよ彼女もまた手が届かないところに行ってしまう……「There She Goes」……これまでの人生で彼は二度こんな「特別な感情」を味わったことがある。一度目はリアルでお会いした時にその方と「実は私、結婚する彼氏が居るの」という話になって「お友達」として接させて貰っている。小説を読んで貰ったり、年賀状のやり取りをしたり、云々。二度目はネット恋愛で即座に相手に気持ちを伝えることが出来た。今ではその方はバイセクシャルということなので彼氏や彼女が居られる一方で、これもまたメールの送信などで仲良くさせて貰っている。これが三度目なわけだ。

こういう場合女性はどう思うのだろう? 「ひとりでも多くの方に好かれたい」と思う方も居られれば「彼氏一途に振る舞いたい」という方も居られるということなので、そのあたり判別し難い。それは繰り返すが、「特別な感情」である。それはパルプの曲名を借りれば「F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E.」なのだろうか? 彼には恋愛感情というものが良く分からない。だから彼はそれを「特別な感情」と呼ぶ。

「『恋愛感情』というものが良く分からない」……他人にこの情緒不安定な状態を説明すると、「それか『恋』ではないか」と言われる。それが「『恋』なのかどうなのか分からない、と彼は答える。事実、分からないのだから……そうすると「恋は『これが恋だ』と明確に説明できるものではないと思います。『もしかしたら恋なのかもしれない』『でも違うかもしれない』と曖昧な状態に迷う、戸惑うのも、恋の一範囲……と捉えられるかもしれません」と言われたことがある。この戸惑いも「恋」なのだろうか。

それでここ数日読書が捗らなかった時に頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んで、「待つ」ことの重要さについて考えたのだった。突き詰めれば人生は「待つ」ことに依って費やされる。彼女との再会も「待つ」ことでしか凌げない。ただ、その「待つ」という過程が途轍もなく長く感じられるのはどうしてなのだろう。突き詰めて考えれば人生は「死」を「待つ」だけのプロセスである。なんらかの到来が訪れるのを「待つ」こと……「生きること」それ自体がある意味では「待つ」ことではないだろうか? そんなことを考えれば、恋人のリアクションを待てずに手紙を書きまくったフランツ・カフカのことを思い出す。

カフカは散文やメモや小説を自由自在に書いた。だからカフカの書いたものを読んでいると、カフカの世界に迷い込んだような気持ちになる。願わくばこの文章がそんな自由気ままなカフカの書きぶりと同じもの――むろん、質は違うが――であってくれたら良いなと思っている。この散文ともエッセイとも「小説」ともつかないものが、あなたの心を少しでも動かすものであれば良いな、と思っている……私もまたカフカを真似て、一文の得にもならない文章を書き、なにかが到来するのをカフカスタニスワフ・レムロラン・バルトを読んで過ごす……素敵なことではないだろうか?

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