There She Goes

小説(?)

ディスコミュニケーション / There She Goes #42

今日は彼はロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』を読んだ。 

恋愛のディスクール・断章

恋愛のディスクール・断章

 

恋愛の生を織りなすもろもろのできごとは、すべてが驚くほどにくだらぬものばかりである。最高のきまじめさと結びついたこのくだらなさこそが、まさしく不都合なのだ。電話がかかってこないからというので、わたしは本気で自殺を考える。そのとき生じるみだらさは、サドの教皇七面鳥相手に鶏姦を犯すみだらさに比肩されうるものなのだ。ただし、恋愛の感傷性というみだらさには、サドのみだらさほどに怪異なところがない。そのことが、恋愛のみだらさをますますみじめなものにしている。「この世界には飢えで死ぬ人々が数多くあり、多くの民族が自由のための苦しい闘争を続けているというのに」、恋愛主体は、相手が不在をよそおっただけで涙に暮れている。これ以上の不都合さはあろうはずもないのである。

長くなるが引用してみた。難しく感じられるかもしれないけれど、虚心に読んでみれば驚くほど単純なことが書いてあることに気がつくはずだ。要は単に相手から連絡が来ないことの悲しみが書かれているのである。「恋愛主体は、相手が不在をよそおっただけで涙に暮れている」……バルトの『恋愛のディスクール・断章』はそう言った、相手からなんの連絡もないことの悲しみが書かれている。今で言うところの既読スルーに対する悲しみが書かれている、と言ったら良いだろうか。それが今の彼には身に沁みるのだ。もっとも、彼は自殺まで考えないけれど……。

サド、ニーチェプルーストゲーテ……読んだことのない思想家のテクストが引用されるこの本を何処まで理解出来たか、彼には心許ない。まずはプルーストの『失われた時を求めて』をまた読み始めようか。彼の言葉が彼女には届かないことに悲しみを感じつつあるけれど、またふたりで話せる機会があれば……そんなことを考える。

『恋愛のディスクール・断章』を今読めるようになったことと彼の恋心は関係がないわけではあるまい。恋(?)に悩み続ける彼にとって、バルトのテクストは慰撫する文章として映るのである。飛ばし読みしたのでまた読まなくてはならないのだけれど、マッチョイズムから遠く離れたバルトの書きぶりは中性的/女性的で親近感を覚える。

恋愛の終わりの悲しみを何度となく確認するテクストは、そしてそれについて書く(エクリチュール)テクストは、幾度となく言い淀み、躊躇う……断章形式で語られるテクストは結論を急がない。深く掘り下げられるのではなくせっかちに思いつきがメモランダムとして書かれて、そしてその思いつきが集積することで曖昧な中に蜃気楼のように恋愛の姿が浮かび上がる。なかなか見られないテクストだ。バルトは素晴らしい……そう考えて『彼自身によるロラン・バルト』を読んでいるところだ。こちらもまた読む手を止めさせない。

彼女はバルトを読んだりするのだろうか? 訊いてみたい……彼女はしかし彼のことをなんとも思っていないので、訊くと墓穴を掘りそうな気もするので訊けない。ここでまた戯れにページを繰ってみて、一節を引いてみることにする。「愛する人の疲れきった声ほどに悲痛なものはない」……彼女の「疲れきった声」。だけれども、と彼は思う。その傍に居たいと思うこともまた「恋愛」なのではないだろうか、と思う。バルトへの反証(?)として、フィッシュマンズを持ち出すこと。「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔の傍にいたい」……こんな歌詞がふと頭をよぎる。

バルトと言えば『偶景』のテクストも読み応えがあると教わったので、それも読んでみようかなと思っている。また戯れにバルトを引こう。

裏返し。「どうしてもあなたのことがわからない」とは、つまり、「あなたがわたしのことをどう考えているのか、どうしてもわからない」ということなのだ。わたしにはあなたが解読できない。あなたがわたしのことをどう解読しているかわからないからだ。

これもまた難解そうで単純なことを語っている。ディスコミュニケーションについて語られているのだ。彼女が彼「のことをどう解読しているかわからない」……彼女は彼をどう思っているのか分からない。それが彼にとっては悲しみとなる。だからこそ彼は彼女を解読出来ない。彼とは何者か、彼女とは何者か。このふたつの問いはワンセットである。相手が居なければ自分は分からない。鏡がなければ自分の姿が分からないように、外部から彼を教える言葉が必要となる……そんな当たり前のことが書かれている、と彼は読む。

今日はここまでにしておこうか。彼はこれからもバルトを読み続けるだろう。そして、彼は「恋愛のディスクール」について考える。それを止めることはない。きっと、これからも傷心を抱えたまま…… Hurtbreak Wonderland を放浪し続けるのだろう。ずっと……。

ふたりのイエスタデイ / There She Goes #41

ふたりのイエスタディ +9

ふたりのイエスタディ +9

 

ストロベリー・スウィッチブレイドの「ふたりのイエスタデイ」を聴いている。歌詞なんて気にしなかったのだけれど、調べてみてこれが失恋を歌った曲であることを知る。彼が体験した出来事も、結局はふられたということで片づいてしまうのだろうか……彼女は謎である。さながら AI のように…… Ghost In The Machine……

鈍い苦痛を感じながら春の午後を過ごしている……彼女の言葉を知りたい。彼女が語る言葉を聞きたい、彼女の綴る文字を読みたい……そんなことを考える。どうせ既読無視されてしまうと思うのだけれど。メランコリックなメロディが下手くそなギターとシンセサイザーでメチャクチャにされてしまうストロベリー・スウィッチブレイドの音楽が身に沁みる。それは儚い美しさ、青さを備えていて如何にも80年代……彼が手が届かなかった時代……あの時代だからこその輝き……例えばアズテック・カメラやペット・ショップ・ボーイズを聴きたくなるのだが……。

倦怠……やることなんてなにもない、ということを引き受けること……その大切さは丹生谷貴志から学んだはずだったのだが(あるいは中島らもからでも良いのだが)。そしてロラン・バルトを手にしようとするも活字が頭に入らないので諦めて Twitter でしばし気散じ……また彼女に会える時になにを話したら良いのだろうか、と考える。この「小説」のことを教えるべきだろうか? 彼女はどんな本を読んでいるのだろう? そこからでも接点が掴めないものだろうか? 彼女もまた「小説」を書いているという。それを読ませて欲しい、とお願いするべきだろうか?

And as we sit here alone
Looking for a reason to go on
It's so clear that all we have now
Are our thoughts of yesterday

「私たちがここでお互いひとりぼっちで座って、これ以上続ける理由を探すなら私たちが持っているものって昨日の思いだけだってことがはっきりするわ」。戯れに訳してみて、やはりしっくり来ないことに情けなさを感じてしまう。これが享楽的/ニヒリスティックな曲であることは伝わって来るのだが……彼と彼女の間にあったものも、「our thoughts of yesterday」というだけのことなのか? いや恋愛関係にあったわけでもないのだから、彼女には「yesterday」もなかったのかもしれないが。一体なにがあるのだろう?

四月になった。彼女の母親が忙しくなるので、彼を取り巻く支援体制はやや変わる。彼もまた、職場で長時間雇用の試験と面談を受ける覚悟を固めて明日試験を受けるつもりだ。日々は微妙にではあるが変化して行く。今日は昨日(yesteday)になる。エイプリルフール用のジョークも思いつかない……これ以上タイプするのを止めてノンアルコールビールを呑むべきだろうか? 今をどう生きるか……それは町山智浩『「最前線の映画」を読む』を読んでその大事さを痛感したところなのだけれど。恋の病(?)の厄介さ……。

稼ぎたい、という思いがある。早稲田を出て、今の仕事……薄給でその分責任の軽い雑用係。そんな現状に甘んじていた理由は結局アルコールに溺れていたから、ということがはっきりしている。アルコールを断って彼は前に進もうとしている。辛い思いはあるかもしれないけれど、ともあれ前に進むしかないのだった。自分より年の若い正社員に「選別」される屈辱も、今では耐えられるように思う。人生は自由自在なのだ、と……彼のような人生もあって良いのだ。好きなことをやり抜いた、読書や音楽鑑賞を精一杯やって来て充実した生き方が出来た人生もあっても良いのだ。ただ、ここに来てV・E・フランクルではないが人生に試されている気がする。今を生きなくては。

スパンダー・バレエ「True」を聴き a-ha「Take On Me」を聴き、自分の心も浮き足立って来たのを感じる。これをひとしきり書き終えたらまた川崎公平『黒沢清と〈断続〉の映画』を読むことに戻ろうか……黒沢清の映画のメロドラマ性について、『回路』を観直すかそれとも『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観てみるか。今の記録を正直に綴ると――それを「小説」として読ませて良いのかどうかは……知ったことか!――このような無為な文章で終わってしまう。伊藤洋司『映画時評集成』の感想文を綴ろうか。

So needless to say
I'm odds and ends
I'll be stumbling away
Slowly learning that life is ok
Say after me
It's no better to be safe than sorry

――a-ha "Take On Me"

 

https://www.instagram.com/p/Bg90U9EAIhy/

Instagram post by 踊る猫 • Mar 30, 2018 at 11:31pm UTC

真理 / There She Goes #40

今週のお題「お花見」

https://www.instagram.com/p/Bg3KsrAAxdE/

Instagram post by 踊る猫 • Mar 28, 2018 at 9:32am UTC

桜の花が咲いたら思うことはひとつ。もう雪に困らなくて済む、ということだ。

仕事をこなした。彼女もまた仕事をしているのだろうな、と思った。彼女は彼よりも高知能なのでそれ故の悩みとしてある種の鋭敏さを抱えており、鋭敏に過ぎて体調の変化が激しいのだそうだ。彼女もまた彼同様車を運転出来ないので、転職も難しいとかなんとか……。

断酒して悟ったことをまた書くべきだろうか? 断酒したのは三年前の四月三日である。この日、偏頭痛で倒れて会社を休んだのだった。寝込んでしまい、会社に休みの電話を入れてベッドで唸りながらコーエン兄弟の『ファーゴ』を観たのだけど、その時一日だけ酒が止まった。この日を逃すと終わりだと思い、次の日に断酒会の出席の旨を明かした。それ以来断酒は継続されている。断酒会で色々な人の姿を見た。どん底まで落ちた人々。一番ショックだったのは脳に影響が残ってしまった人。呂律が回らない中で、断酒してどう立ち直ろうとしているか語っていた……言葉を超えて伝わるものがあった。

その姿を見て以来、彼の中である種の超人思想とでも呼ぶべきものが生まれたように思う(ニーチェなんて読んだこともないくせに……)。人生は腹を括ったら立て直せる。逆に言えば立て直すためには何処かで腹を括らないといけない。そう思い、今の会社で長時間働かせて貰うつもりでテストと面談を受けるつもりで居る。

ともあれ無教養を晒して今日も一日が終わって行くのだけれど(明日以降読めればニーチェに挑み、ドゥルーズに挑んでみよう)、彼女とは仲が絶たれたわけではなく母親を介して伝言が届くので、それなりに関係は続いていると考えられる。ただ、先述した鋭敏さ故のものなのか、春は彼にも覚えがあるが体調が不良になりやすい時期なので寝込んでいたり仕事を休んでいたりしないかと思うと心配になって来る。彼女のことを思うと愚鈍に出来ている自分の醜いけれど頑丈な身体、肝臓を散々痛めた小太りな体、それを持て余す……男であることは恥ずかしい、と書いたのは丹生谷貴志だっただろうか?

いや、他にも読みたい作家が居たのだった。ロラン・バルトである。『彼自身によるロラン・バルト』を図書館で借りたのだった。バルトは『恋愛のディスクール・断章』を読めずに中断しており、他の本は読んだことがないのでこれもまた威張れないのだが、ともあれ優れた書き手は男であっても中性化/女性化するという格好のサンプルであるとの思いを胸にし、手に取ることにしたのだった。そんなこんなで映画漬けだった日々が一変して活字漬けになるのだから、人生は本当に分からないものである……Why can't we be ourselves like we were yesterday……

 

恋とマシンガン / There She Goes #39

カメラ・トーク

カメラ・トーク

 

彼女とまた会う機会があった。発達障害者当事者と家族の方の会の席に出席されたのだった。彼女と話をしてみたのだけれど、彼女からすれば彼のことは「お勉強」の素材でしかないようなので、恋という話には結びつかないようなのだった。やれやれ、と言うべきか。

彼自身、結局のところは彼女の IQ の高さに惹かれていたから恋をしてしまった――この感情を「恋」と呼んで良いのか分からないけれど、ともあれ「恋」と呼ぼう――のかもしれないと思った。まだお互い数えるほどしか会っていない。そんな相手に「恋」というのも非現実的ではないか。

逆に考えれば、彼女から賢さを取り除いてしまえば彼女を愛する理由は無くなる。それはそれで彼女に対して失礼というものではないかとも思ったのだった。彼女が掛け替えがない存在であることを、しかしどう説明したら良いのだろう? そう考えると彼は結局彼女に嫉妬を抱いていたからそれを「恋」と呼んで誤魔化したのではないかとも考えてしまうのだった。彼自身、それをどう受け留めたら良いのか分かりかねている。

……ここまで書いて一旦筆(タイプ?)を止めて、そして途中まで読んでいた廣瀬純『シネマの大義』を読み終えた。彼は映画に関してそんなに知識はない。マノエル・ド・オリヴェイラミケランジェロ・アントニオーニジャン=リュック・ゴダール……観ていない映画作家の作品は沢山ある。そして、ジル・ドゥルーズも読んだことがないしロラン・バルトも齧った程度なのでこの本の議論にはついて行けなかったのだけれど、それを踏まえても刺激的な論文が含まれていると思われた。著者の語り口のなんと熱いことか! 

シネマの大義 廣瀬純映画論集

シネマの大義 廣瀬純映画論集

 

こんな一節が印象に残った。

この人は凡庸で他に幾らでも交換可能な存在である。しかし、素晴らしい。注意すべきは、この「しかし」が、凡庸であること、他と交換可能な存在であることを否定するものでは些かもないという点です。そうではなく、凡庸な存在それ自体に直ちに素晴らしさを認めるということなのです。凡庸であると同時に素晴らしい。

エリック・ロメールを論じた/語った文章における一節である。むろん、彼とエリック・ロメールの間には如何なる接点もない。この箇所だけ取り上げられて云々するのは廣瀬に対しても失礼というものだろう。だが「凡庸であると同時に素晴らしい」という言葉を、彼は彼女にそして自分に対して当てはめたくなった。逆に理屈を並べれば「素晴らしいことは同時に凡庸である」ということになりはしないだろうか。彼女は素晴らしい。そして、彼女は凡庸な存在である。だから、このふたつは矛盾しないことになるのだ!

彼女の理知的なところ、賢いところ、それは「素晴らしい」。そして、彼女は多分彼にとって(これまで彼の前に現れた女性たちがそうであったように)「交換可能な存在」なのだろう。このふたつは矛盾しない。掛け替えのない存在だから「素晴らしい」――逆に言えば、「素晴らしい」から掛け替えのない存在なの――ではない。彼女のような才媛は多分他にも居る。メンサあたりに行けば数多と出会えるのかもしれない(彼はあいにくメンサに入れるほどの知性を持ち合わせては居ないが)。そして、それと「素晴らしい」ことは矛盾しないのだ。

廣瀬純の言葉に刺激を受けて、彼はここまで考えを押し広げた。この一節と出くわした時に、ふと彼は、これが成就する見込みがない類の「恋」(と取り敢えず呼んでおく)であるとしても、つまり絶望的な試みであるとしてもなお今の心理状態を綴っておく必要があると思った。感激と同時にそれは彼の胸の痛みを再確認することなのだけれど、これが結局は「失恋」と呼ばれる出来事なのだとしても記録しておくことには意味があると思ったのだ。なんでもない、彼が他でもないこの小説(?)を書き始めた原初の時点に立ち戻っただけである。

彼女に輪を掛けて彼は凡庸な人間である。そして、それと「素晴らしい」こととは矛盾しない……と書いてしまうと相田みつをの詩のようななんの旨味もないフレーズに貶めてしまうことになるのだろうか。だが、彼はこの言葉に出会っただけでも今日を生きた意味があると思った。大袈裟な言い方かもしれない。だが、彼の読書なんてそんなものである。全ての文章を覚えられるわけでもない。本を読むのはそうした、思考の筋道を――もっと大げさに言えば「人生」を――変えてくれるフレーズに出会いたいからなのである。

……凡庸であることの素晴らしさ。 What a wonderful world!

No matter how low / There's always further to go / There She Goes #38

AUTOMATIC FOR THE PEOPLE (DELUXE EDITION) [2CD] (25TH ANNIVERSARY)

AUTOMATIC FOR THE PEOPLE (DELUXE EDITION) [2CD] (25TH ANNIVERSARY)

 

R.E.M. の『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』というアルバムを聴いている。絶望の最中に居る彼は、音楽の中にいつものように癒しを求める。エリオット・スミスニック・ドレイクトム・ウェイツニルヴァーナ……そしてこのアルバムに戻って来てしまう。このアルバムには言い知れない、言葉では表現出来ない絶望とそれを突き抜ける希望が少しばかり残っているように感じられる。その希望を信じて良いのかどうなのか分からない。結局のところ空を掴む話で終わってしまうのかもしれない。信じていた希望が存在しないことに落ち込むよりは、信じない方がダメージも少なくて済むというものだろう。

ニルヴァーナカート・コバーンはこのアルバムを聴きながら自殺したという話を聞いたことがある。遺体の傍にこのアルバムがあった、と……何処まで本当のことなのか分からない。だが、カート・コバーンはこのアルバムを聴きながらなにを考えていたのだろうかと考えることがある。このアルバムは人を死に誘うようなところはない。むしろ逆だ。聴いていると最後の最後に見えて来るのは光だ。それはあまりにも眩し過ぎて逆にキツいものなのかもしれないが、ともあれ光なのだ。もちろんカート・コバーンもそれを分かっていただろう。分かっていたからこそこのアルバムを聴いていたのかもしれないし、聴いていてもなお信じられないことに絶望して亡くなったのかもしれない。

死をふと思うことがある。どうしようもなくて、このまま死んでしまいたい……ただ、ここで死んだらどうなるんだという思いもある。まだドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』も読めていないし、読めていない本は他にも沢山ある(トーマス・マンの『魔の山』も読みたい本だ)。ここでくたばったら、もしかしたら答えが書いてるかもしれない可能性をみすみす逃したまま死んでしまうことになる。死ぬことを選ぶよりも、老いて生き延びて、それがどれだけ無意味だとしても答えを探し続けて足掻き一生を終えたいと彼は考える。

彼女のことを考える。絶望的なディスコミュニケーション……同じように生きづらさを抱えた人間同士が分かり合えるというわけではない。分かり合えない者同士が分かり合えないなんてことも当たり前のことだ。フリッパーズ・ギターだって歌っている。「分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ」と。彼女と話をしたいと思うけれど彼女は話し相手になってくれない。こちらが寂しい時だけ相手になって欲しいというのは虫が好過ぎるだろう。だから彼からも話し掛けることはしない。そっと、同じ時を生きていることを確認したいと思う。

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』という本を読んだ。二十年前に読んだことがある。単行本版を読んだのだけれど、今読むと沁みるものがある。それについて感想文を書いた。それで今日の成果はお終いだ。また明日がやって来る。なんだか生きているのではなく生きさせられているような人生……でもいずれ終わりはやって来る。どんな形でかは分からないが、ともあれ人生は終わる。自分も人生の後半戦に差し掛かって、ここで空元気を出す気力も失くなってしまった。どうしたら良いのだろうか……迷いに迷う。もしかしたら迷うことこそが生きることなのかもしれない。ただ、そう悟るには自分はまだ修業が足りないようだ。

www.honzuki.jp

最低賃金以下の暮らしを強いられて、食費を浮かしてどうやって生活するか禿げ上がるほど悩む日々が続く。それに加えて歯医者にも行かなければならないのでまたカネが飛ぶ。それを錬金術でやり繰りしてなんとか生き延びるわけだが、生活保護もままならず障害年金も途絶えて、クレジットカードもデビットカードも持たないで暮らすことを強いられる羽目になる。だから Apple Music も Netflix も使えなくなる。それをどうしたら良いのか頭痛の種になっている。これ以上貧窮の奥底まで進んで、なお道はあるのだろうか。

カート・コバーンは「Hello, Hello, How Low?」と歌った。「どのくらい酷い?」と。それに答えてブラーのデーモン・アルバーンは「No matter how low / There's always further to go」と歌った。どんなに酷く立って道はある、と。このメッセージをカート・コバーンが聞いたらどんな反応を示しただろうか。苦笑したか、それとも激怒したか。取っ組み合いの喧嘩になっていたかもしれない。それはそれで見てみたかったという気がする。ともあれ今日はもう寝なくてはならない。明日はまた来る。明日は歯医者に行かなければ。なんだかどっと老け込んだように思う。徒労……それでもなお道はある。出来る限りのことをやるだけ……カミュ『ペスト』の主人公たちのように、淡々と生きるのだ。夜の中に答えはない。

死ぬほど楽しい毎日なんてまっぴらゴメンだよ / There She Goes #37

’98.12.28男達の別れ

’98.12.28男達の別れ

 

どうも自分というものに自信を持てなくて困る……周囲からも「自分に自信がなさそう」「自信を持って下さい」と言われて彼も悩んでいるのだった。自信……そんなものどうすれば持てるんだろうか。いや、持っているつもりではあるのだけれど自分勝手に振る舞うことと自信を持つこととはまた違うことのようなので、困っているのだ。

彼女の話はしただろうか。「自分のことをボロクソに言うのを止めたらどうですか?」と言われたのだった。そうなのだけれど……今日も彼は自己啓発書の類を立ち読みしてみたのだけど、なかなかこれといった本がないし本を買うカネもないし時間もないしで止めてしまったのだった。それでヒマ潰しに本をパラパラめくって、一日が終わる。 

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

 

自信なんてなくたって良いじゃないか、と考えることに決める。なくたって良い。そんなことにこだわってもロクなことはない。こういうことを考え始めると彼は車谷長吉のことを思い出す。『赤目四十八瀧心中未遂』の壮絶な主人公の「流され」ぶり……いっそとことん自信をなくしてしまったことから得られるものもあるのかもしれない。 

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

 

車谷長吉は『文士の意地』というアンソロジーを編んでいて、三度目のオーヴァードーズに失敗した時に自宅待機状態で過ごしていて、やはりヒマだったので読んだのだった。結局「文士」にはなれなかったし小説も書けずに終わってしまったのだけれど、それはそれで良い人生だったと言えるのではないか。 

文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯

文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯

 
文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

 

彼は自分の人生が締め括りに近づいたようなそんな気がしている。不穏な気分……まだ四十代だというのに、ここで一気に老け込んだようなそんな気がする。夢見ていた四十代にならなかったこと、それ以前に四十代まで生きてしまったことにある種の絶望を感じているからかもしれない。ということは今こそドストエフスキーを読むべきなのか。

シェアハウスに引っ越して来た時に読もうと思って真っ先に持ち込んだのがドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』なのだった。『罪と罰』は先に読んでいたので、いよいよこの大長編と取り組むかと腹を括ったのである。ところが読み始めてみるとマルセル・プルースト失われた時を求めて』に浮気してしまい、その『失われた時を求めて』も挫折しそうな勢いで、ココ・シャネル関連の本を買い漁って洋書を買い漁って、結局辻褄合わせに苦労しているのだった。読みたいものを読む。彼はそうすることしか出来ない。

自信を持つ秘術なんてあるのだろうか……彼自身は自分が変わったという気がしない。いじめやディスコミュニケーションに悩んだ十代、人格障害アダルト・チルドレンを疑って自分を問い詰めた二十代、酒に溺れた三十代……そして今。彼を取り巻く環境は大きく変化した。彼自身が変わったという気はしていない。

強いて言えば、前にも引いたのかもしれないがチャック・パラニュークの言葉に感銘を受けたからだろうか。「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」、と。彼自身、たまたま断酒会で壮絶な体験談を沢山聴かせて貰ったあとに「人生、どう生きても良いんじゃないか……」とふと悟ったというのが本音である。だったらやりたいことだけをやろう、と。やりたくないことや気が向かないことはやらない。出来ないことはもっとやるまい、と思ったのだ。

それが正解だったのかどうか。世間的な成功には目を背けてひたすらやりたいことをやって生きている今は充実していると思う。ただ、それは強烈に楽しいというのとは違う。彼が敬愛するミュージシャンである佐藤伸治が歌っていた歌詞を思い出す。「死ぬほど楽しい毎日なんてまっぴらゴメンだよ」と。そんな強烈な強度は要らない。ただ、温もりが欲しい。今は彼自身捉えどころのない絶望の最中に居るとも言えるし、あるいはこれから人生がどんどん開けて行く只中に居るとも言えるのかもしれない。ドストエフスキーに戻るべきだろうか。

彼は自分を賢いとも頭が良いとも思ったことはない。経験知や叡智ということで言えば、あるいはヴォキャブラリーの豊富さということで言えば彼よりも詳しい人はもっと沢山居る。と書くとまたこれも自虐が過ぎるのだろうか。絶望と希望の狭間、良く分からない状況の中で揺さぶられて、今があるように彼には思われる。

I don't say that life's not sad and death is not the end / There She Goes #36

Timelords

Timelords

 

不思議と死のことを彼は考える。死にたい……そう思った時期があることを彼は思い出す。今は彼はそう思わない。今はどちらかと言えば生きたい。ただ、いずれ死は訪れる。運命はその意味では残酷だ。望んでいる時には来ないけれど、望まない時に限って不幸というものは訪れる。

彼女は自殺未遂を繰り返したという。水没、首吊り……彼自身オーヴァードーズを三度やったことがあるので、彼女の気持ちが分かる……と言うと嘘になる。そんなこと分かるものか。分からないからこそ彼女の気持ちというものは尊いのだ。だから安直な共感は彼女に依って拒否されるのがオチだろう。それで良いと彼は思っている。

ポール・オースターの『孤独の発明』の冒頭を彼は思い出す。疾病の予感もなく、人が突然死ぬ……それからライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』のことを思い出し、村上春樹ノルウェイの森』のことを思い出す。どの作品も Sudden Death について語られている。なんの予兆もない突然の死……。

いずれ彼自身なんらかの形でこの人生にけじめをつけなければならない。それは受け容れなければならない。そうだな……命の宿った肉体から再び物質へと自分が還元されて(?)行く……それが人生なのであればなんと切ないものなのだろう。なんの意味があったというのだろう。

彼はある時期にとある男性と交際していたことがある。というより、彼のウェブサイトをその男性が見つけて――まだブログをやる前だった――感激されたのだった。その後 mixi の時代が訪れて、彼はその男性を誘おうと招待メールを書いたのだった。遺族の方から、彼はその男性が自死を遂げたと告げられた。そのメールを読んだ時に、彼は世界の底が抜けたような妙な感覚に襲われた。不思議と涙は出なかった。遺族の方が残されたその男性の日記の自費出版を持っていたはずだが、何処へ手放してしまったのだろうか……。 

魔法の笛と銀のすず

魔法の笛と銀のすず

 

日記というと二階堂奥歯の日記を思い出す。彼女もまた自死で自分の人生にピリオドを打った人物なのだった。その日記『八本脚の蝶』も読み応えのある日記だった。それも何処へ手放したものか残っていない。ギリギリまで自分を問い詰めた彼女の苦悩の吐露はこちらを圧倒させるものがある。だからこそ生きていて欲しかったのだが……。 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

自死に依って先立った人物たち。あるいは望まない形で死を選ばされた人物たち。彼らと彼の間を分けるものはなにがあるのだろう。彼は何故生き残らなければならなかったのだろう。彼の自死の試みが成功していたらどうなっていたのだろうか。彼もまた、彼を覚えている人間に依ってこのように語られるのだろうか。

薄れ行く記憶の中で彼は亡くなった人物たちのことを思い出さざるを得ない。忘却されることの方が、あるいは死者にとって幸福なことなのだろうか。いつまでも自分のことが記憶となって、軛のような形で残ることを死者は嫌がるだろうか。だが、死者は太陽のように燦々とこちらを照らし続ける。ここで古井由吉氏を引こう。

例えば一日の天気のことを考えても、よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく、いや、その場合でも、表現として「私」が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。多くの死者たちが体験していろいろ残した言葉や情念を動員しているわけです。特に風景描写とか天気のことを書くと、「私」が相当に死者を含んでいるという感じがするわけです。(『小説家の帰還』より)

死者が残したものを私たちは受け継いで今に至る……それは言葉であり文化でありあるいは財産である。そしてそれを私たちは次の世代に託して行く。死者がなければ私たちは生まれて来なかったはずであり、私たちが死ななければ次の世代は生まれない。ここで例えばこんな言葉を引くのは頓珍漢だろうか。

惧れるな。アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。

これは大江健三郎氏の『新しい人よ眼ざめよ』の末尾で引かれるウィリアム・ブレイクの詩句である。この言葉で連作が閉じられるのは、なんだか希望を与えられるではないか。彼よりもひと回り若い彼女のことを思う時、この言葉のように彼は考える。それもまた傲慢というものなのだろうか。