There She Goes

小説(?)

邪悪なものそして花たち / There She Goes #18

evil and flowers

evil and flowers

 

「The boy with the thorn in his side / Behind the hatred there lies / A murderous desire for love」……彼の好きな曲のフレーズ。訳を収めた本が手元にあるはずなのだけれど、それが様々なモノが散乱した部屋の中で見つからない。なので彼は自分で訳すことを試みる。「心に茨を持つ少年/憎しみの影に存在するのは/殺意にも似た愛への渇望」……ダメだ、しっくり来ない。中川五郎氏はどう訳しておられただろう? いずれにせよこの歌詞が示す通り、かつてそこには独りの少年が存在していたことを記録しておく必要がある。彼は「愛への渇望」を抱いていたのだ、と。

彼は「恋愛小説」らしきものを書いたことがある。彼は一時期筆で食って行きたいと思っていたのだった。だから彼は「恋愛小説」を読み漁った。フローベールボヴァリー夫人』、村上春樹ノルウェイの森』、等など……しかし彼はそれらの小説で描かれている男女の遊戯が「恋愛」なのかどうなのか、遂に分からなかった。エンマと直子がそれぞれ「恋愛」をしているのか、彼女たちの相手になる男が「恋愛」をしているのか。『ノルウェイの森』に関してはトラン・アン・ユンに依る映画版を観たこともあったが、スットコドッコイな映画だなという印象しか抱かなかった(最近観た『ラ・ラ・ランド』に関してもそんな「スットコドッコイな映画」という印象しか感じなかった)。

だけれど、「恋愛」を書けなければベストセラーにまで登り詰められるような作品は成立しない。なので彼は必死に小説の登場人物に「恋愛」らしきことを真似させようとした。場合に依っては彼自身体験したことのないセックスまで体験させた。「Confusion Is Sex」……セックスという関係の中に落とし込んでしまえばそれでインスタントに「恋愛」は成り立つものだと思っていた。『ノルウェイの森』なんて殆どがセックスの話ばかりなので、「恋愛」の副産物としてセックスが成り立つことはあれどセックスの副産物として「恋愛」が成り立つとは考えにくかったのだった。

だから、彼の書くものは結局ポルノグラフィに終わってしまうのだった。酷く安っぽい……彼は性欲を感じることはあった。だから辛うじて彼自身は自分の性を(あるいはアイデンティティを)「ヘテロセクシュアル」と位置づけることが出来たのだけれど、性的な意味においてそれをオープンにさせることは出来なかった。それどころか拗れてしまった。自分がマゾヒストであることを彼は恥じている……この話題についてはこれ以上触れるのは今は止めておこう。どうしても必要であるなら話すことにして、本題に戻りたい。

彼女のことを考える。彼自身は彼女とセックスしたいとは思わない。彼女のことを、例えば(下品な言葉になるのだが)「そそる」女だと思ったことは全くない。彼女はむしろ清らかな女性だと考えている。性愛抜きにそういう「恋」という感情が成立し得ることに彼は驚きを感じている。あるいは彼女の賢さ/賢明さに彼は逆に畏怖を覚えているだけなのかもしれないのだが……知的に割り切れる感情とは必ずしも限らないのが「恋愛」の要諦なのだとしたら、彼が抱えるこのモヤモヤをどう考えれば良いのだろうか。性欲とかそういうのではなく、「言葉」をこそ欲するというような気持ち……。

二階堂奥歯という、自殺で自分の生を閉じた女性の日記のことを思い出す。二階堂奥歯は自分を一冊の書物になぞらえたのだった。生まれた日数以上の本を読んで来たと豪語する彼女の言葉に相応しいと思う(そう思い、彼は部屋の中を見渡すが遺稿となった日記『八本脚の蝶』はやはり探しても見つからない)。彼が好きになった彼女もまた彼にとって読まれるべき一冊の書籍であり続けている。書籍と女性を一緒にする……怒られるのかもしれないが、それはなんだかある意味ではヴァルター・ベンヤミン的な発想のようにも思う。

セックスの話から自殺の話へ……そこに彼女が居るだけで尊いということを、しかしどう彼女に伝えれば良いのだろう? それが綺麗事などではなく、彼女が自分で命を絶ってしまえば本当に彼にとって大事なものがごっそり持って行かれるような経験を意味するということを……分からない。彼は今 LINE のグループで自殺に関する記事を投稿したところだったので発想は取り留めもなくセックスから自殺の話へと変わってしまう。自殺したいという渇望とセックスしたいという渇望……このふたつは似ているのだろうか?

「Is there any reason not to die / If this love I feel must always be denied?」……彼はまた新しい歌詞を連想する。「僕が感じているこの『love』がいつも拒絶されるのであれば/死なない理由など存在するのだろうか?」と彼は試訳を試みる。「この『love』が」……不自然な言葉になるが「love」を「恋」と「愛」とどちらと訳して良いのか分からないのでこんなぎこちない訳になってしまった。彼が感じているこの感情は「恋」なのか「愛」なのか。それとももっとおぞましい「欲望」に過ぎないのか……ダメだ。手詰まりだ。違うことを考えないと。

彼の精神状態を示すかのように部屋は混沌としているので、仕方がないので手当たり次第に読んだ本は捨てることに決めて彼は彼女に伝えたい言葉を考える。「そこにいてくれてありがとう」……これ以上の言葉を彼は結局考えつかない。彼はその言葉が自分から放たれることを滑稽に感じる。彼は自分が必ずしもモテる人間だと思わないので……邪悪な人間だとさえ思っているので。邪悪なものがしかし花に手を伸ばしたとして、それはしかし決して虚しいことではないはずだ。それが虚しいことなのだとしたら、この世に虚しくないことなんてあるだろうか?

そこにいてくれてありがとう / There She Goes #17

フルーツ

フルーツ

 

例えば六本指のピアニストが居るとしたら、その人物は五本指のピアニストのために作られた音楽を弾くように指示されて戸惑うのではないか、と彼は考える――アンドリュー・ニコル監督の映画『ガタカ』を思い出しながら。五本指のピアニストのために作られた曲を弾くにあたって、六本目の指は邪魔になる。でも、指が一本多いことは利点になりはしないだろうか。六本指のピアニストのために作られた曲を弾けば良いのだ。そんな曲を作ってしまえば良い……ただ、そんな曲を五本指のピアニストが弾けるわけがないので需要はないのだろう。そこが悩ましい。

彼の話をしよう。彼は自分が過剰な存在であることを常に恥じている。「恥の多い人生を送って来ました」……太宰か。今日図書館で借りたのは芥川龍之介の『年末の一日・浅草公園』と『芥川追想』だったのだが。芥川も太宰も(太宰は芥川賞を遂に貰い損ねた作家であることを思い出す!)結局は自死した。彼らもまた過剰な存在であったこと、自意識を拗らせた作家であったことは疑うべくもない。彼らにとって文学というものは果たして救いだったのか、それとも病を更に拗らせる媒体だったのか。いずれにせよ彼らは彼らにしか書き得ない作品を書いた。それだけは確かだろう。

過剰な存在であることを恥じている、という話に戻ろう。彼は自分の喋り方を恥じている。声が低いこと、籠もり気味であること(カラオケで歌えば「ルー・リードみたい」と言われる、と書けば想像がつくだろう)を恥じている。だから、彼は喋ることがあまり好きではない。先日、彼自身の喋り方をネタにされることがあって彼はそのことを酷く気にしていた。彼の喋り方をネタにした人間に悪意などなかったのだろう。そう彼は信じる。だけど、悪意がないとしたらそれで全ては許されるのだろうか。彼だって人間なのだ。

彼は自分が異性から必ずしもモテるタイプの人間であるとは思っていない。逆だろう。毛深く、小太りで背も低く、酷い近眼で運動神経も良くない。力持ちではない。色白でインドア派で……子どもの頃から彼は女性に散々嫌われたことを思い出す。キモいという言葉こそ当時はなかったけれど、そんなような言葉で散々罵られた思い出……中学生の頃がピークだったな、と思う。ブラスバンド部で女性ばかりの部活動の中、先輩からも後輩からも「帰れ」と罵られたことを思い出す。思い出すとキリがなくなる。恥の多い人生……。

そんな彼はだから、居心地が良いという気がしない。戦時中を潜り抜けて来た人間が平和に馴染めないように。清岡卓行の詩文を思い出す。「愛されるということは 人生最大の驚愕である」……彼はいじめ(と言ってしまおう)を潜り抜けて来た。散々なディスコミュニケーションを体験して来て、異星人やロボットのように扱われて――彼自身もどちらかと言えば道化師のように振る舞えば周囲と馴染めると考えてしまったので――自意識を過剰に研ぎ澄ますようになってしまったのだった。「ひとがわらたり友だちがなくてもきげんをわりくしないでください。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです」……彼の好きな一文だ(また別の作品からだが)。

過剰に自意識を拗らせた人間。それは喩えるなら「What else should I be? / All apologies」と歌うような人間なのだろうと思う。誰も謝れと言っていないのに謝る人間……ここで「生まれてすみません」という言葉をまた思い出し、今日は太宰尽くしだなと彼は独りごちる。彼は必ずしも太宰が好きではない。三島よりは優れていると思うが、芥川のことを考えたい(芥川の方が優れている、と彼は彼らの作品をさほど読んでいないのに考える)。なにはともあれ、彼らに文学があったことは救いだったのかもしれない。それが自殺の引き金になったにしろ。

今日の彼の考えは、と書いてみて考える。結局自殺へと辿り着いてしまう。だとしたらエリオット・スミスを聴くのも良いのかもしれない。でも、と彼は思う。彼もまた自殺未遂を繰り返した人間なのだけれど――六年ほど前にオーヴァードーズの末に胃洗浄まで体験したことがある――今の彼は自死に依って人生を閉じることを考えたくない。それは結局彼女が居るからなのだろう。彼女が彼のことをどう思っているか、それは今はどうでも良いことだ。彼女もまた彼に石を投げる側の人間なのかもしれない。でも、彼は彼女を愛している。

彼女を愛している……彼女が居るから彼は生きていられる、そんな気がしている。人がただそこに居てくれるだけで、それを有難いと思える。それは「愛」と呼ぶに値しないだろうか。彼の大好きなシンガー・ソングライターの曲のタイトルを思い出す。「そこにいてくれてありがとう――R・D・レインに捧ぐ」。彼はこの言葉を彼女に向けて語り掛けたいと思う。ともあれ彼は彼女に会うまでの月日を耐えようと考える。今日はもう遅いから悪いことばかり考えてしまうのだ。明日のことを考えるとする。明日ジュンク堂書店で『黒沢清の全貌』を買おう、と。

彼女が彼女自身のことを嫌っているのかどうなのか、彼は知らない。彼女もまた自殺未遂を繰り返したと聞く。だというのだとしたら、掛け替えのない命が失われようとしたその危機は如何ほどのものだろうか、と……素敵な女性だと思うのに。彼女がその「素敵」を抹消しようとしただなんて。彼は彼女を、その自己嫌悪から守りたいとさえ考える。彼女を消すものから、彼は守りたい。それがなんであれ――それが世界の悪意だとしたら世界の悪意から、彼は彼女を守りたい。彼女は孤独ではない、そう彼女に伝えたい。彼もまた独りぼっちだったのだから。

ただ、独りぼっちだった人間、「恋」や「愛」を知らないで育った人間に果たして「恋愛」が出来るだろうか、と彼は考えてしまう。与えられたことのない承認を彼はどう彼女に対して与えたら良いというのだろう。その過剰な善意で、卵を握り潰すように抹消してしまうのではないだろうか……今日もまた書き切った。続きは明日書こう。

博士の異常な愛情 / There She Goes #16

Dr.Strange Love

Dr.Strange Love

 

一週間なにも書かなかった。だからと言って忙しかったというわけでもない。書こうと思えば書けたのである。「書こうと思えば」……問題はそう思えなかったというところにある。彼は書く気が起きなければ書かないのだ。毎日継続してなにかを書き続けるということは到底出来そうにない。だから一日一時間であっても書くために――トルーマン・カポーティは四時間費やしたことをふと思い出すのだが――時間を割くことを面倒に思う。書かなくては巧くならない、というのであればそんな「巧さ」という要素は彼は要らないと思っている。書けるのであればとことんド下手に書きたい。ペイヴメントの音楽のように。あるいは彼は気に入らないが、ソニック・ユースの音楽のように。

彼女のことを思い出す。彼にとって彼女は、その彼女らしさを用いて自在に世界を切り開いて存在しているパイオニアのような存在だった。彼女がそこに居てくれるだけで勇気を貰えた、と書くと大袈裟に過ぎるだろうか。彼女自身、そうありたくて彼女であるわけではないのかもしれない。それを過大に評価してしまうと逆に失礼というものなのかもしれない。彼が彼らしくあることを彼自身が嫌がっているように……でも、彼は彼女が彼女らしくあることを受け容れたい。そういう感情に相応しい言葉なのであるのだとしたら、彼女を「愛」したい。そう思っている。

読書は遅々として捗らない。山本太郎編『ポケット日本の名詩』を読んでいるところだ。日本の詩のアンソロジーを読むのは何冊目になるか分からないのだけれど、色々な本の冒頭に載せられる島崎藤村の「初恋」から始まるこの本を手に取り、「初恋」という詩について考える。甘ったるい詩としか思えなかった「初恋」が、何故か彼の心理にフィットするように感じられる。七五調に整えられた詩のリズムの美しさ、そして「まだあげ初めし前髪の」というイントロの美しさに、ベタと言えばベタなのに何故か無視出来ないものを感じる。当面はこのアンソロジーを読むことになりそうだ。

彼は子どもの頃に、「君の口調は大人っぽい」と言われて笑われたことがあるのを思い出す。それが不条理に感じられてならなかった。彼は大人から学んだ言葉を使っていたのである。英語を喋っている家庭に生まれ育った子どもが日本語圏の環境であれ英語を英語らしく発音したところでなんの不思議があるだろう。子どもは大人たちに依って成り立った世界――ラカン、あるいは斎藤環風に言えば「他者の語らい」の中――に生まれ落ちてそこから言葉を外部に位置するものとして取り込んで大人になるのである。その言葉が大人っぽいものになったとしたとして、不思議はないだろう。

彼女のことを思い出す。彼女の喋り方の一種のクセ、独特の個性……個性という言葉で片付けるのは乱暴に過ぎるかもしれないのだけれど――彼も、自分の風変わりな箇所を「個性」という言葉で片づけられるのを思うと恥じらいの念を覚えるのだけれど――そのひとつひとつが忘れられないものとして残っている。あの言葉を聞くために、歯切れの良い喋り、理路整然とした語りを聞くためにならもう一度お会いしたい……その気持ちもまた、「恋」なのだろうか。彼の考え方はそこで止まっている。これ以上掘り下げるのではなく、別の出来事を考えた方が良さそうだ。

別のことを考えよう。

一万以上のリツイートといいね。彼はそんなツイートをしたことがない。これからもないだろう。彼はそんなに大袈裟なことをツイートしたというのだろうか? このツイートの背後にあったのは彼が住む隣町で笹森理絵の講演会があった時のことを思い出したからだ。笹森の言葉から彼は、例えば数列が羅列されて書かれているプリントを見て絶句してしまいなにから手をつけて良いか分からなくなる発達障害者の障害児のことを考え、障害児にも分かりやすいように(つまり「ラクに」)問題を解く術はないかと思ったからである。

障害者が困難を乗り越えて頑張って……なるほどそれは感動的なことなのだろう。彼はここ数年24時間テレビを観ていない。その時点で彼はフェアではない(観てからツイートしろよ、と言われたが彼自身そんなに深刻に構えてツイートしたわけではない)。彼は上述した観点から、障害者が如何に困難を乗り越えずに「ラクに」生きられるように環境を整えるか、それを考えたかったのだ。だからそんなツイートをしたのだ。するとあっという間に拡散された。本当にあっという間だった。為す術もなくあっという間に……。

彼女のことを考えた。彼女ならこんな局面においてどう振る舞うだろう? 彼女はこの意見にどう意見を語ってくれるだろうか? それを考えてみたのだけれど、特に考えが捗るわけでもなかった。活字がやっと頭に入るようになったと思った途端にこれである。本当に人生において、なにが起こるかは未知数である。二年前、あるいは三年前に彼は自分が酒を止めているとは思っていなかったし、まして恋(?)に落ちるとも思っていなかった。恋の病(?)に苦しむとも、あるいはそれを楽しむとも……彼女にはしかし彼女の恋路があるし、人生がある。それを邪魔するわけにもいかない。

グレイス・ペイリーの短編集の邦訳が出たということで、これまで積んでしまっていた二冊の短編集の文庫版にも手を伸ばさなくてはならないと思っていたのだった。今日、彼は自分の喋り方をバカにされた。大嫌いな「善意」。彼はしかしそれで世を拗ねてしまうのにも飽きた。ミサイルが飛んで来たという歴史的な今日みたいな日に彼が書くのがこんな他愛のないことというのも妙な話だが、他に書くこともないのだから仕方がない。彼はただひたすら今出来ることをやる。それだけだ。彼女と会うまでの待ち時間を、例えばボードレールを読むとか……。

Smells Like Teen Spirit / There She Goes #15

ライヴ・アット・レディング

ライヴ・アット・レディング

 

彼は音楽を聴くのだけれど、そこに教養を求めたことはない。それなりに色々な音楽を聴いてきたつもりなのだけれど、だからこそ余計に「BABYMETAL を聴いている人間はヘヴィメタルを分かってない」とか、「Perfume を聴いているやつは耳が腐っている」とか「やっぱり渋谷系の時代の方が幸せだった」なんて戯言、吐く気にはならないのはもちろんのこと、聞く気にもならない。地獄のような視聴体験をして得られる付け焼き刃の「教養」など、なんの役に立つというのだろう。聴きたいものを人は聴けば良いのだ。例えばナース・ウィズ・ウーンドであれ乃木坂46であれ。

そういうわけで、今日の彼の気持ちを代弁してくれる音楽を探したのだけれど色々試してみた結果、これまで全然頭に入らなかったニルヴァーナの『ライヴ・アット・レディング』がしっくり来るようなので聴いている。ニルヴァーナも「教養」となる時代……彼はニルヴァーナをリアルタイムで通らなかった。バカ売れしているバンドが居る、という程度の認識だったのだ。それは今もそんなに変わりはない。彼らはバカ売れした。そしてその仕事は「バカ売れするに相応しい」ものであった、と思うだけだ。良いにせよ悪いにせよ。

どちらかと言えばブラーやオアシスといったブリットポップに目移りしてしまい、社会現象としてグランジなるものを巻き起こしたニルヴァーナを彼は過小評価してきたきらいがある。今改めてライヴ音源を聴くと、彼らの音楽に漂う痛切さは一方ではあの時代ならではの(もっと言えば、カートの自殺というロック史に残る――本人は恐らく不本意かもしれないが――「事件」の予兆の)不穏さを知らないと理解しにくいところがあるだろうなと思う。つまり、その意味での普遍性はないかな、と。ただ、今のリスナーを――ビートルズジョイ・ディヴィジョンのように――新たに虜にするだけの生々しいなにかは浮き上がっているように思う。そのあたり評価しづらいのがもどかしい。

「教養」を越えた体験としてロックを聴くということ……単純に「意味」を過剰に帯びせてしまうのではなく、音楽それ自体が持つ濃密な「強度」をこそ味わうこと……と書くと古臭く聞こえるのだろうか(あるいは、「意味から強度へ」との某社会学者の発言はニーチェを誤読しているという批判もあるようだが……?)。だが、ともあれこの「意味から強度へ」、つまり体験の「意味」を問うのではなく体験それ自体が楽しいかどうかという「強度」を問うという考え方は彼の中で今でもひとつの指針として残っている。人は要するに楽しいと思うことをやれば良いのである。どうしたらラクになれるか。

「どうしたらラクになれるか」……それを問うことはしかしなかなか難しい。人間の中に主体がある人は良い。自分の意志で決められる人――流行りの言葉を使えば「自分のアタマで考え」られる人――はまだ良い。そうでない人、つまり主体性というものを持たずにピンボールのように放浪して来た人はどう生きれば良いというのだろうか。例えば車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を思い出してみれば良い。あの主人公のように出来事と出来事の間を右往左往している内に漂流して堕ちるところまで堕ちた人のズタズタに傷ついた心はどうすれば良いというのだろう?

分からない……だがともあれ彼がこれまで酒に溺れつつも辛うじて生きて来られたひとつの理由が、この世に音楽があったからだという事実が端的に存在する。カート・コバーンが幾ら死にたくて――そして、周知のように人は「死にたい」と思う時こそ猛烈に「生きたい」と思っているのだ――鳴らしたにせよ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が今なお彼の心を打つように、彼は音楽によってこの世の中に神秘があることを知り、崇高ななにかに触れられたのである。マイケル・ギルモアが『心臓を貫かれて』で語るように、彼はロックの中にある種のコミュニティ/共同性を見出したのだ。

なんの話をしたかったのだろう……今日も仕事だった。仕事が終わり LINE でやり取りしながらメールを送受信し、なおかつ Twitter のリプライの返事を溜めながら小説を書くという難業(!?)をこなしていたら脳が熱くなってしまった。気散じとして始めた小説を書くことがこんなに苦しいとは……逆に言えば現代人(というか定型発達者)はどのようにしてこの難局を乗り切っているのだろうか、と不思議に思ってしまう。仕事をしながらなおかつ天気の話と政治の話を同時にする……気が狂うのではないかと思われるほどだ。彼はそういうチャンネルの切り替えが苦手なのだ。

また彼は疲れてしまった……音楽の話から恋の話をするつもりだったのだ。恋という(これを本来なら「特別な感情」と言い換えたいところなのだけれど、もう面倒なのでやらない)厄介な感情がしかし、彼にとっては世界を新しく開く切っ掛けとなったことを……神秘に触れられた思いがしたことを。しかし、そんな余裕はないようだ。十代の頃に女性に蛇蝎の如く嫌われまくった彼が今――人と比べたことはないが――女友達に恵まれているというのも不思議な話だが、まあ、そんな人生があっても良いのだろう。流石に限界が来てしまった。

彼はここで脳を休めることにする。出来れば Twitter から LINE からメールから……切り離した方が良いのだろう。溜まっている返信だけ過集中でやってしまおう。明日のことはまた明日だ。ここで彼は『妄想代理人』の登場人物の台詞を思い出す。「きっときみはつかれてるんだよ。もうやすみなよ」……例えば、カート・コバーンが『妄想代理人』を観たらどんなことを思っただろうか、と考えてしまうのは悪ノリが過ぎるというものだろうか? カートならゲラゲラ笑いながらあのアニメを観たように思うのだけれど……。

人生は上々だ / There She Goes #14

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン

 

グスタフ・ヤノーホが自分自身が青年期だった頃に晩年のカフカと交際した記録を綴った『カフカとの対話』という書物がある。そこから戯れに引いてみる――「人は自分自身から逃れることはできない。これが運命です。ゆるされた唯一の可能性は、見物人となって、弄ばれているのがわれわれだということを忘れることにあるのです」……そういうものなのだろうか。何度も何度も読み返したせいで表紙がボロボロになってしまった『カフカとの対話』を眺めながら彼はそう考える。カフカ自身がユーモアのセンスを備えていたことがあのような作品を生み出したのだ、と考えてみる。

もう本は買わないと決めたはずなのだけれど、彼は三冊本を買った。島崎藤村『藤村詩抄』『藤村随筆集』そして太宰治走れメロス』……藤村の詩は甘くて、普段ならこんな甘ったるい詩なんて受け容れられないはずなのに今の彼には七五調のリズムもあってか心地良く入って来た。これも恋なのだろうか……それを女友達にメールしたら「そうかもね。」と六文字の返信が帰って来たのでまた彼は恥じ入りたい気持ちになったのだ。ともあれ彼からはそれ以上詫びのメールを入れていない。『恋する惑星』を観てからまたなにかあれば書こうかなと思っている。

例えば太宰治『ダス・ゲマイネ』に登場する冒頭のフレーズ。「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった」……その言葉が彼を戸惑わせる。太宰と言えば『晩年』から読み始めないといけないという強迫観念があった彼は、その『晩年』が読めなくてだから太宰を読めていないのだけれど、新潮文庫版の『走れメロス』を買いそこから太宰に入ろうと思うようになった。「女生徒」を読みたかったのだけれど他にも面白い短篇が乗っているようなので、読むのが楽しみだ。藤村をそして太宰を読めるということはまた、彼の中で変化が起こったのだろう。

彼は自分の中で変化が起こりつつあるのを感じる。結局彼は「自分自身から逃れることはできない」。だというのであれば彼は「見物人となって」彼自身を観察するしかない。それがこのテクストということになるのだけれど、彼は何処まで自分自身を観察しているのかについて考えてしまう。彼の身に起きたことを、彼ではない人間として観察すること――なかなか難しい問いだ。ともあれ彼は彼の身に起きたこと、考えていることを描写し始める。描写し始めると次々と変化していく事象を捉えにくくなるのだけれお、それでも彼はそういう営みを止めようとしない。

刻一刻と変わり続ける自分、「恋する男」としての自分の変化を微細に描き切ろうとすること。例えば今日彼は島崎藤村の詩を読めるなんて思ってもいなかった。どんな言葉も受けつけない精神状態で、藤村の詩だけは例外的に読めたのだ――どんな時にもそんな心情を代弁してくれる言葉というものはあるものだな、と彼は思う。だとすれば彼はまだ絶望するには早過ぎる。結局一生を棒に振るとしても、彼は彼の心情にフィットする言葉を探したい。例えば活字が読めなくてしょうがなかった去年の夏にたまたまカフカ高橋源一郎『虹の彼方に』を読んでハマったような経験をまた味わいたい。彼はマラルメとは違う。まだ読めていない本は沢山ある。

彼女のことを考える。彼女はどんな本を読んでいるのだろう? 彼女自身は早熟な読書家だったと聞くが……例えばポール・オースターは読んでいるだろうか? 彼は読書量を誇れるような人間ではないのだけれど、例えば『ガラスの街』(再読が必要だが)について彼女はどう考えるのか知りたいと思う。彼女は彼女の個性、という言い方が不適当だとしたら批評眼を以て彼に言葉を語ってくれるだろう。そうして語り合いたいと思う。サイレント・ポエツの歌詞が身に沁みる。「In The End Our Talk Is Toy」……結局言葉はオモチャなのだろう、そのオモチャを自由自在に使いこなしたいと彼は叶わぬ夢を見ることになる。

彼の気持ちは既に来月にお会い出来る(かもしれない)彼女のことで一杯だ。「未来はねえ 明るいって」……ここでまたフィッシュマンズを持ち出すのは我ながらどうかしていると思いつつ、しかしそれが彼という人間だから止めることが出来ない。古本屋で買った件の藤村の『藤村詩抄』を読みながら、ふと島崎藤村をきちんと読んでみるのも悪くはないかなと思っている。『破戒』程度なら読んだことがあったのだが、この機会に『夜明け前』まで読み進めてしまいたいなと思ってしまっている。むろん頭の中に入るかどうかは心許ないが、やってみようと思う。

恋する人(?)とお会い出来ないという苦しみ……それを浄化しようと思って(あるいは逆に病をこじらせているだけなのかもしれないのだけれど)彼は藤村や太宰を読み、そしてこの文章を書き続けているのだった。滑稽なことだろうか? 社交辞令を言われるまでもなく、彼は自分の書いているものに満足出来ていない。巧い作家の面白い作品ならカクヨムにも幾つも転がっている。彼が書きたいのはそんなスマートな「小説」ではない。高橋源一郎阿部和重との対談で語っているように、「文学」に似ていない「小説」を探している。これが、出来栄えはどうであれそういう「文学」に似ていない作品であれば良いなと思っている。

これを書いているのは午前四時半。ふと目が覚めて、パソコンの電源を入れてから小説(?)を書いていないことに気がついたので書いているのだった。これからもう少し寝ないといけない。藤村の詩を暫くは読むことになりそうだ。あとは池澤夏樹編集『日本文学全集』で「近現代詩歌」を借りて読むとか……甘い詩が今の彼の中に入って来るというのは彼にとっての変化なのかどうか? ここで問いは堂々巡りを始める。書くことが自分の混沌を整理するプロセスだというのであれば、彼は混沌の中に溺れてしまわないように、混沌の中で自分を見失わないようにするのに精一杯だ。この「感じ」……そこで彼は千葉雅也氏の次のような言葉を思い出す。

皆笑った / There She Goes #13

月面軟着陸

月面軟着陸

 

彼は世界に対して憎しみを抱いていた。ほぼその日暮らしに近い経済状態で、だからなのか誰を見掛けても相手に対して無言で「死ね」「殺す」という憎悪をぶつけていた。一度この悪癖を断酒会で出会った先生に相談したことがあるのだけれど、「そうね……考えとくわ」と言われたのだった(中井久夫の文章を教えてくれた方だった)。その相談をした後に、先生は間もなく亡くなられた。それらの間に因果関係はないのかもしれない。ただ、この癖を誰かに明かすことだけは控えようと思うようになった。そして心がまた固まった。

今、彼は誰かに対して「死ね」「殺す」とは思わない。全く思わない。もちろん世界に対する憎しみが全く消えたわけではない。ただ、彼はむしろ世界そのものを肯定したいという気持ちが強まって来ている。この世で起こるありとあらゆる出来事を受け容れたい……少し前に佐々木敦未知との遭遇』を読んだ影響なのだろうか。「起きたことはすべていいこと」だ……なにが起こっても「そう来たか!」と乗り切りたいと考えてしまう。むろん、そんな風に思えないことがある。いや、沢山ある(先生との死別はその最たるものの内のひとつだろう)。

「ポジティヴ思考」ではない。そんな空疎なものではない。なにもかもポジティヴに捉えていたら破綻してしまう。ネタを割るがジム・キャリーが出演していた『イエスマン』という映画が教えるように……ネガティヴなものはそれはそれで是認する。受容する。痛ましさ、悲しさ、切なさ……しかしそういう痛みをそれはそれで――身が切られるほど辛いのだけれど――なおのこと是認したいと思ってしまうのだ。だがその現象をどう名づければ良いのだろう? これもまた「恋」のせいなのだろうか? 成就し得ない「恋」が彼の中に揺さぶりを掛けたのだろうか?

今日は彼は発達障害当事者と家族の会に参加した。そこで様々な話を聞かせて貰った。自分の身体から異臭が漂うのではないかと思って四、五時間風呂に入るほど悩み続けていた人が「恋」に依って立ち直ったという話。この話から演繹するに、「恋」が彼の「死ね」「殺す」という感情を――そんな病んだ心を――変えてしまったのだろうか? 今彼はピチカート・ファイヴ「皆笑った」を聴いている。「だけど恋してるなんて もう若くないのに 自分でもおかしいから 少し笑った」……こんな歌詞が沁みるのはそのせいなのだろうか?

世界に対して憎しみを抱いていた子が他人からの親愛に依って世界破滅を諦め世界を是認するという設定の SF を読んだことがあるのを思い出した(どんな作品なのかはネタをまた割るので書かない)。親愛……もっと言えば「恋」? 今日聞いたどんな話よりも――発達障害者の就労支援や、あるいは雑談をめぐる取り留めのない話題よりも――その逸話が心に残って離れない。「恋をすると、人間変わるよ」……かつて言われたことを思い出すのだった。この「特別な感情」が彼の歪みを正したのだろうか? それともこれは新しい形の憎悪なのだろうか?

皆笑った……今日は彼は多くの人々を笑わせた。「雷が凄かったですね」と言われて、「そう言えば雷からベンジャミン・フランクリンは電気を発見したんですよね」と言ったら話が途切れた……そんな話で盛り上がった。柔軟剤の列を見ていてどの柔軟剤を飲んだら発想が柔軟になるか考えたというような話……そんな会話。無意味な言葉。他愛のない思いつき……それを Facebook で書いたらそれもまた盛り上がった。彼はふと、「いいね!」の数を数えてみた。多くの「いいね!」を貰った。だとしたらそれはそれで良いことなのだろう。

笑わせた……彼の行動がしかし彼にとって「笑われた」と考えられないのはどうしてなのだろう。普段ならそう考えるのだけれど。そしてより一層世界を憎むだろうに……しかしそうはならなかった。会話というやつは結局のところはお互いが勝手に意志を発信し続け受信はされない、一方的なドッジボールではないかと考えている。粉川哲夫・三田格『無縁のメディア』が教えているように、会話は発信が主体で受信は介在しないものなのだ……ただ偶然それがなんらかの形で――発信に発信がリツイートのように乗っかるようにして?――成り立つからなのだ、と。

今日の彼も会話をドッジボールとして考えた。しかしそれで世界に対する絶望が増すということにはならなかった。笑っている人たちを見るのはなんだかおかしかった。『あずまんが大王』のアニメ版で榊さんが心を開いて笑顔を見せる場面のように、彼の心は世界に対して少し開かれたような気がする。その分多くのものをキャッチしてしまうのだろう。それで混乱しているのかもしれない。キャッチした大量のなにかに戸惑って、波乱が起きているから活字を巧く取り込めないのかもしれない。田島貴男が「夜をぶっとばせ」を歌っているのを聴きながら、彼は自分の混乱と向き合っている。

彼の世界に対する戸惑いに効く薬なんてないのだろう。一ヶ月彼女と会うのを待つしかない……彼はふと詩を描いてみようかと思う。幸いなことに詩作には既に先輩が居る。先輩を見習って無駄を極限まで削ぎ落とした詩を書いてみる……例えばパウル・ツェラン石原吉郎のような、もしくはポール・オースターの若き日の詩のような……でも彼には詩作の感性はからっきし欠けている。それは自覚している。散文でなら勝負出来る。止めどもなく溢れて来る言葉を、その奔流を流すこと。それなら出来そうだ。いや、あるいはそうしかやりようがない。

彼は今聴いている『月面軟着陸』をブックオフで買った。それは 1990 年にリリースされたものでだから奥田民生をゲストに招いた「これは恋ではない」が入っている。彼はそれを聴く。そして、また小西康陽のコラムを読み返そうかと考えている。彼にそれだけの与力があるのだとしたら、また明日試してみるのも悪くないかと……あるいはJ・G・バラードの短編を読んでみるのも良いかもしれない。ここで打ち切ろう。今日の彼はかなり疲れている……。

SO WHAT!? (EXTENDED FULL POWER DIGITAL MIX!!) / There She Goes #12

 

lost decade

lost decade

 

……あれから、焦燥を抱えながら過ごし疾風怒濤のような一ヶ月を送った。仕事の休憩時間中にスマホをチェックすると、彼女の母親からメールが届いていることに気がついた。内容を見ると、結論から言えば彼女は夏風邪を引いたとのことで今度の集会には出席出来ないとのことだった。つまり、彼が会う機会は一ヶ月先延ばしになった。ホッとしたような気分になった反面、またこの長い一ヶ月が過ぎるのかと思うと気が遠くなった……こんな時はやることなすこと見事に狂う。今日は大澤めぐみ『おにぎりスタッバー』と森敦『月山・鳥海山』を買った。そしてどちらも見事に頭に入らず……本当にイライラしながら一日が閉じられるのを待つことになった。

結局のところは彼がじっとしていられないことにあるのだと思う。じっとしていられないこと……今日も彼は勤務先に行き本を読もうとした。他にやることもないから……しかし尽く活字が頭に入らなかった。結局最果タヒの『空が分裂する』を読み、そして止めてしまった(この詩を語るべき言葉は、今の彼の中にはないと思った)。どうしたら良いのだろうか……自分でも自分がなにを困っているのか明確に整理出来ない。周知のように、その人の中で整理出来た段階で悩み事というものは解決しているものなのだ。だから彼も自分の中で整理することを試みる。例えばピチカート・ファイヴ「セックス・マシーン」を聴きながら……。

しかし、整理しようとすればするほど彼の中には混沌としたものが残ることに気づかされる。その「混沌としたもの」こそが彼を彼足らしめているものなのだとするなら、彼の探求は結局は何処にも辿り着かない不毛な試みとしてしか残らないものなのだろう。なにはともあれ外的には一個の個体として置かれている自分自身の複雑に分裂した内面を叙述し、そして整理して行く作業……それが何処まで生産的なものとなるのかは考えまい。人生、突き詰めて言えば結局は「ヒマ」でも「アンニュイ」でも良いのだけれど、それを埋める作業なのではないだろうか、と。凡庸な言葉になるが、死ぬまでの「ヒマ」潰しとしての人生……それもそれは悪くないのではないだろうか。

どうしたら良いのか分からないまま、様々な人に自分の恋の病(?)の話をした。それはこれまでも書いた通りだ。理知的に整理出来ない感情を理知で抑える……それこそが彼がこの文章を書いている動機なのだとしたら、それは理知で遂に抑えられないマグマが彼の中にもあることを確認することにも繋がるのではないか、と考える。理知で抑えられないマグマ……彼はそんなものが彼の中にあることに驚かされるのだ。それは例えば情欲や性欲、購買意欲やアルコール依存などで抑えるものなのだろう。だとすれば彼には全てのライフラインが禁じられていることになる(ついでに書けば、彼は女性と手を繋いだことすらない)。ある意味では裏目に出る行動をやってしまったし、ある意味では前向きに話が転がる展開にもなったような気がした……どっちが良いのか分からない。まあ、傍迷惑であるという自覚くらいは彼にもあるのでそれはそれでお互い様だと思うばかりだ。

ここまで書いたものを読み返してみる、聴く BGM はエリック・クラプトンの『アンプラグド』が良いのだろう。そして、結局彼はここまで書いたものが結局「恋」らしきもの――絶対に「恋」だとまでは断言はするまい――をめぐるあやふやであって、そんな感情に取り憑かれたことがないのでリアルでそしてネットで迷惑を掛けてしまっていることを悟る。そして、人の定義に自分を合わせようとするからおかしなことになるのだというお馴染みの結論に達する。自分の人生のルールは自分で決めるべきだ、というチャック・パラニュークの言葉を思い出す。

だがしかし、と彼は思う。「例えば図書館に行こう。彼好みの賢い女性が居るよ」と言われたこともあるのだったが、彼女は取り替えの効かない存在なのだ。彼女とフラれたからと言って、家電を容易く買い換えるように「じゃ、次の女性」とはならないのである。なるほどそこには彼女より賢い女性が数多と居るのかもしれないが、彼女は彼女である。それを他の女性で代用するなんてことは出来やしない。だかラ困っているのである、彼女を彼女足らしめているものとはなんなのあろうか。それもまた解かれなければならない/解くことが出来ない謎なのだろう。

堂々巡り……彼の中にはそうした思考のループ回路が出来ているらしい。同じことを繰り返し考え、それを人は「個性」と呼ぶらしい。「個性」……口当たりの良い言葉だ。だが、それは結局社会が許す範囲内での「個性」ではないだろうか、と彼は思う。逆に言えば何処までも「個性」を発揮していたとしても社会が許さなければそれは異常なのだ、と。彼は社会に適応する術を身に着けてしまった。「学習」して学んだと言えるだろう。普通の人が難なくやれることを、彼はわざわざ学んだというわけだ。かなりコストパフォマンスの悪いやり方で。

そういうやり方で適応した人間には、それなりの障害がつき纏う。適応障害……今日も彼は仕事をした。身も心もボロボロになってしまった……彼女のことを考える。巧く生きられているのか生きられていないのか分からない彼女の神秘のことについて考える……いや、これも堂々巡りだ。もう眠るべきなのだろう。ベッドに横になって明日の朝が来るのを待つのが賢明なのだろう。彼は差し当たって書き掛けのまま留めておいたこのテクストに手を入れることにする。こじらせてしまった自分の姿をあられもなく描いたこのテクストは、彼女に対する恋文になり得るのだろうかと考える。

……そんなこと誰に分かる? 今のところカクヨムではどんなコンテストも行われていない。だから、書く動機なんて結局のところはないのだ。なにも書くべきことがない状況で書くということ……それは時間の無駄なのかもしれない。でも、そんなことも誰に分かる?