There She Goes

小説(?)

Beyond / There She Goes #9

coctura(remix album)

coctura(remix album)

 

言葉に依って物事の本質を捕まえられるかというとそうでもない。言葉とは本質的に人間の外部に属するものだからだ。言葉は異物として現れる。彼らはそれを「学ぶ」。難しいことを書いているだろうか? いや単純なことだ。誰も「言葉」を外部との接触の中で獲得するという、至極当然のことを書いているに過ぎない。その意味においては、喋ることや書くことは外在する言葉で内在する自分の気持ちや思考などを表現するということに繋がる。そんなことが容易く出来るものだろうか? 出来ないからこそこの世の中は誤解や嘘や誤魔化しで成り立っているのではないだろうか?

ここで舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』を引こう。「祈りは言葉でできている。言葉というものは全てを作る。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる」。そう、「言葉」が織り成すのが「物語」である。彼が今編んでいるのもある意味では「物語」なのだろう。とある女性をめぐるいざこざに関する「物語」……それをしかし書き連ねることは幸せに繋がるのだろうか。彼女との「特別な感情」はそれで癒やされるのだろうか。

職場で彼の奇行が取り沙汰されるようになり、プライヴェートでも色々あって行き場を失ってしまったような気がした状態で、彼はこのどうしようもなくぶっ壊れたテクストを書き続ける。聴いているのはマトリョーシカの『コクトゥーラ』というリミックス版。どのリミックスも良いのだけれど、個人的に彼が愛好するのはヘッドフォンズ・リモートに依る「Beyond」のリミックスだ。それを聴きながら、彼は昨日起こったことを整理してみる。昨日も活字が頭に入らなかった。どんな本を試してみても無駄だった。波多野精一『時と永遠』、舞城王太郎、そして『ユリイカ』の最果タヒ特集号……諦め掛けていたところに最果タヒの『グッドモーニング』が入っているのを見つけ、読んだ。貪るようにして読んだ。

それから彼は彼をそれなりに知る女友達とメールをした。ウォン・カーウァイ恋する惑星』を観ることを薦められた。「恋をすると、人間変わるよ」……この「特別な感情」が「恋」なのかどうなのかは差し当たって脇に置いておこう。『恋する惑星』。彼の(嫌いというわけでもないのだけれど)そんなに好きというわけではない映画……今観直すと印象が変わる、とのことなので近々観てみようと思っている。「恋愛映画」を観るように薦められたのだが、だとしたら今借りている是枝裕和『空気人形』は「恋愛映画」なのだろうか、と考える。

女友達……彼女の人生にはそういう「女」「友達」と呼べるような存在、つまり「特別な感情」抜きでつき合える人が多い。彼だけではないのかもしれないが、彼の人生を変えてくれる存在はいつだって女性だったような気がする。初めて書いた小説を読んでくださった女性、初めてチャHというものを教えてくれた女性、そして彼女……彼女は彼になにを教えるのだろう。彼の内部は空洞だ。彼から彼女に捧げられるものはなにもない。パトリック・ベイトマンのように空虚な存在……いや彼は誰も殺しはしないのだが。あるいはムルソーのようにのっぺりとした存在としての彼をも想起する。

昨日は断酒会だった。他に喋ることもなかったので体験発表としてこの話をした。「特別な感情」を抱いている人が居るということ。なにも手につかないということ。彼女のことを考えればそれが自然となってしまうのではないかと言われたこと、等など……結局は「その気持ちを愉しめば良い」という話になったので、彼は昨日は最果タヒ『グッドモーニング』について感想文を書いた。心に突き刺さって来るフレーズについて考えた。「わたしは考えるとき文字にしなければならないと思っています」(『会話切断ノート』)……不安定な感情で苦しむ彼にとって最果タヒの言葉は身に沁みた。

突き詰めて考えれば、彼は「こじらせ」た人間なのだろうと思う。恋愛感情なのかどうか分からないが「特別な感情」をこの歳になってもなお味わい続けている男……その悩みは「可愛い」と言われ、あるいは「恋をしているなら自然だ」と言われる。さて、どうなのか……本が堆く積み上がった部屋を眺め回して考える。巷で書かれている恋愛小説がさほど面白くないのはこの「特別な感情」を「整理」されてしまった形で表すからだ、と彼は思う。「こじらせ」た人間が「こじらせ」た形で表現している「小説」……そんな「小説」を探しているのに。あるいは「言葉」を探しているのに。

「過去について祈るとき、言葉は物語になる」と舞城王太郎は書き、最果タヒは「私の体とこころを作っているのは明らかに過去の私であって、だからこそ、過去の私は永遠に私を痛めつける存在でいてほしい」と書く。彼は過去を持たない。過去の記憶は雲散霧消してしまっている。下手をすれば「昨日のことさえもずっと昔みたいに」……ここで不意にフィッシュマンズを持ち出してしまったことに彼は驚く。フィッシュマンズ……いや、彼らについて書く余裕はないだろう。いずれにせよ「過去」について考える事の出来ない彼に、「過去」が今を作ることを再確認する作業は酷くリアリティがない。彼は「過去」のテクストを残さない。いつだってこれだけのことは書けるさ、と思って書き記している。だから「過去」のブログの記事もローカルに保存したまま眠らせてある。

「過去」の自分を越えて今の自分があり未来がある……未来の自分は過去の惨めな(その程度の記憶ならある)自分を弾き返すだけの力を備えているだろうか。酒抜きでやり過ごさなければならないこの焦燥感……今日もまた取り留めのない記述で終わってしまった。『グッドモーニング』を暫くは読み返す日々が続くのだろう。

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Let Me In / There She Goes #8

モンスター

モンスター

 

「厳密にいうと、ぼくたちはいつも同じことを書いている。きみは病気じゃないかとぼくがたずね、同じぐあいにきみがたずねる。ぼくは死にたいと願い、きみもそうだ。ぼくが切手を望むと、きみも望み、少年のようにきみの前で泣きたいぼくと、少女のようにぼくの前で泣きたいきみと。一度ならず、十度ならず、千度ならず、ずっとずっときみのそばにいたいし、きみも同じことを言う。もう十分だ」

これはフランツ・カフカがミレナという女性に宛てて書いた手紙の一節である。カフカがフェリーツェ・バウアーという女性と二度結婚し二度破局を迎えていることは、カフカに少し関心のある方ならあるいは周知のことかもしれない。だが、その後にミレナという翻訳家とも交際しており、フェリーツェもミレナもカフカから受け取った手紙は保管していたのだった(カフカは彼女たちから受け取った手紙を焼いたか、あるいは散逸させてしまった)。彼女のことを考える時に、彼はふとこの一節のことを思い出したのだった。

他愛もない思いつきに身を委ねる……例えば彼女はスーパーカーの音楽を聴くのだろうか、というような(彼は他のアルバムも持ってはいるのだが『Futurama』しか聴かないし、それで充分だと考えている)。人間の思考の中には一個の宇宙がある、というようなことを誰か――中井久夫だったと思うのだが――語っていたことを思い出す。従って人を殺すことは一個の宇宙を消滅させることである、と……彼は彼女の中に広がる「宇宙」について思い至る。彼女の中にもきっと「宇宙」があるのだ。外見はごく小さな個体でしかあり得ないが、内部は遥かに広大だ。

同じものを聴いても同じものを観ても、同じことを感じても人に依って感想が違うということ。それはなんと「Wonderful」なことだろう! 彼女の中に映る世界を彼は観たくなるし、彼女が聴いている音楽を彼も聴いてみたくなる。だが、割れた陶器を組み立て直すようにして彼らが噛み合うことはないだろう。そこには必ず違和感やすれ違いが生まれる。そう簡単に人間は「ひとつ」になんてなれない。それは分かっている。そして、と彼は思う。だからこそ面白いのではないか、と。それ故にこの「特別な感情」には意味があるのではないか、と。

フェリーツェのことを彼は書こうとしていたのだった。頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』で、頭木はこのようなことを書いている。正確な引用ではないが――「巧く生きられない人間は巧く食べることが出来ない」と。つまり外部の物質を巧く自分の中に取り込めないからこそ巧く生きられないのであり、あるいは巧く生きられないから巧く外部と関われないということだ。しかしそれなら、と彼は思う。それは読書においても言えるのではないだろうか、と……彼は相変わらず活字が読めない生活を過ごしているのだけれど(森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』を読もうとして、数ページで投げ出してしまった)、活字もまた外部の物質である。それを巧く取り込めないことが、彼の生きづらさと繋がっているのではないだろうか、と。

カフカがフェリーツェに惹かれた理由を、頭木はフェリーツェが当時としては珍しいキャリア・ウーマンだったことにあるのではないか、と分析する。カフカは巧く生きられない薄給の官吏でしかなかった。だからこそ、逞しく生きるフェリーツェに恋焦がれたのではないか、ということだ。これに関してはカフカが実際にフェリーツェに宛てた手紙を読むしかないのだが、『ミレナへの手紙』を読んで果たしてそういうことだったのだろうか、とも考える。フェリーツェは「巧く生きられる人間」だった、のだろうか、と……キャリア・ウーマンだったからこそ「巧く生きられない人間」だったのではないか、と。『ミレナへの手紙』におけるカフカとミレナの生きづらさの共有を読んで、そう考えるのだ。

彼が恋焦がれている彼女が高知能を有していることをは既に書いた。その意味で彼は彼女の中に「巧く生きられる人間」の姿を見出してしまう。カフカがフェリーツェを見たのと同じように……だが、彼女もまた「巧く生きられない人間」であったことを彼は体験談として伝え聞いている。湖に身を投げてずぶ濡れになって帰宅した、首吊りを試みた……「巧く生きられる人間」の中に「巧く生きられない人間」が混在していることが魅力的で矛盾した細部となって彼を魅惑する、と書けば怒られるのだろうか。これ以上は『フェリーツェへの手紙』を読むしかあるまい。

聴いている音楽に自分の思いを投影し、逆に言えば聴いている音楽から自分の現状を推測する癖がある、と彼は書いたことがあっただろうか? 今彼が聴いているのは R.E.M. の「Let Me In」という曲である。カート・コバーンの死を偲んで R.E.M. のメンバーが演奏した曲……悲痛さが胸を打つ楽曲だ。これを聴きながら、あるいは「巧く生きられない」から大量の活字を読み、そしてそれ故に(?)なおのこと生きづらさを抱え込むことになってしまった二階堂奥歯のことを思い出す。『八本脚の蝶』……彼女の遺稿には恋や愛には収斂され得ない「男」への思いを綴った「女性」としての二階堂奥歯の姿が剥き出しとなっている。

だが、今日はこれ以上書く余裕はないようだ。この駄文もそろそろ切り上げなければならない。しかしなにを書いて終われば良いのだろう……そう考えて、彼はふとポール・オースター『孤独の発明』から一節を選び抜く。あるいはこれから語ることにこの言葉が関連して来るかもしれないし、しないかもしれない。単なる抜き書きだ。「なぜなら彼は信じているからだ――もし真実の声があるとするなら、真実などとおいうものが本当にあってその真実が語りうるものだとするなら、それは女の口から出てくるはずだと」(p.202)。むろん、この表現に問題がないとは言わない。むしろ悪い意味で男臭い一節かもしれない。だが、今の彼に妙な後味の悪さを残すものとしてこの言葉を記すに留める。

言葉がウォッカのように透明な場所でなら / There She Goes #7

キューピッド&サイケ’85

キューピッド&サイケ’85

 

帰宅後戯れに、恋と愛の違いについて考えたくなる。そして教わったポール・オースター『ムーン・パレス』の、愛についての定義が語られる箇所を開く。

「僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた。僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。 それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ」

……あるいは舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』を開き、しかし今日は読み返す時間がないので冒頭の「愛は祈りだ。僕は祈る。」という言葉を噛み締める。愛について書かれた小説はしかし、彼にはピンと来なかったものではないだろうか。『好き好き大好き超愛してる。』が舞城王太郎の小説の中でもさほど面白いものだとは思えなかったのは、結局彼が恋愛というものにそんなに興味を持てなかったからなのではないかと思う。舞城王太郎がつまらないわけではない。恋愛小説がつまらないのだ――少なくともかつては。

「言葉がウォッカのように透明な場所でなら、忘却が僕らを近づけてくれるのだろう」という内容の歌詞を思い出す。「Where the words are vodka clear / Forgetfulness has brought us near」……どうとでも読める箇所だ。ただの飲んだくれの男の戯言でもあるのだろうし、深遠な意味を読み取ることだって可能なのだろう。「ウォッカのように透明な」「言葉」……80 年代に作られたどんな音楽にも増して(マイケル・ジャクソンやプリンスにも増して、ジーザス・アンド・メリー・チェインやザ・スミスにもペット・ショップ・ボーイズにも増して、等など……)美しいこの曲を聴きながら彼はこの手記を書く。

彼が語る言葉はビールのように濁っている。あるいはビールを飲み過ぎて放たれる小便のような異臭を放っている。だから、なかなかポール・オースター舞城王太郎のような気が効いた言葉を語れない。リアルの会話は、単に歯ブラシを一本買うことでさえ彼にとっては苦痛の連続だ。喋ろうとするとテンポが早くなり過ぎるか遅くなり過ぎる。吃り、つっかえ、そして噛む……彼女の喋り方についてはもう書いた。歯切れの良い口調、ロジカルな言葉、落ち着いたトーン……彼女はなんと美しいのだろう。二度しか話したことのない彼女の言葉こそが、彼には「ウォッカのように透明な」「言葉」に聴こえる……。

彼女を見ているのだろうか、それとも彼女の言葉を見ているのだろうか? 彼女の端正な言葉に幻想を抱くあまり、彼女自体を歪んだ意識で見てはいないだろうか? ここで手詰まりとなり、積んだままの大澤真幸『恋愛の不可能性について』という本をパラパラとめくるのだけれど、ふと「情熱とは、言うまでもなく、感情の高揚を含意しているが、情熱愛において興味深いのは、それが、苦悩への高揚であった、ということである。つまり、情熱愛においては、他者を享受する快楽が、純化された苦悩と合致してしまうのだ」というフレーズが目につく。これもなんでもないような言葉だ。

純化された苦悩」……彼自身が抱える恋の病(?)とはつまり、そのようなものなのだろう。つまり「愛」の「快楽」があるから故の「苦悩」、逆に言えば「苦悩」なくしては存在し得ない「愛」……それを平たく言えば、恋をしているのであれば恋の病(と、差し当たり語っておこう)を抱えることは必須であり、恋の病の中に恋の本質があるということなのではないか……と。今日のメモは引用で終わってしまいそうだ。それでなにが悪いというのだろう、と彼は思う。ここで撒き散らされた種が、いずれ花を咲かせることもあるのではないか。だから今日は散々種を撒き散らすことにしよう。

「Every time I see you falling / I get down on my knees and pray / I'm waiting for that final moment / You say the words that I can't say」というフレーズも頭をよぎる。さっっきとはまた違ったグループの曲。試訳するなら「いつだって君が落ちる時/この僕は跪いて祈るんだ/最後の瞬間を待っている/言えない言葉を君が放つのを」となるだろうか。これも 80 年代に生まれた曲の中では抜群に好きな曲だ。「言えない言葉を君が放つのを」……ぎこちない訳文になってしまったことで、結局過去に翻訳家となることを諦めて正解だったことを知り、彼は恥を感じる……。

「言えない言葉」……彼女の口から、きっと永遠に放たれることがないだろう言葉が飛び出すのを想像する。それはざっくり言ってしまえば、「あなたを愛している」という言葉なのだろう、と。彼女の歯切れの良い喋り方が、彼にそう告げることを彼は待ち望む。だが、それは叶わないことを彼は一番良く知っている。どうしたものか……彼に出来ることは結局「祈る」ことでしかない。「祈る」……それは他者を攻撃しないことだ。自らの内でなにかを念じる……ラース・フォン・トリアー奇跡の海』で妻がひたすら祈ったように、彼は彼の中の彼と対話を重ねる。今日の駄文も、そんな彼自身の「祈り」の産物に過ぎない。

「Each time I go to bed I pray like Aretha Franklin」……また違うフレーズを思いつく。アレサ・フランクリンのように祈る……いつもベッドに行く時は。だが、これ以上考えるのはもう止めよう。彼は疲れている。

Unknown Pleasures / There She Goes #6

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

アンノウン・プレジャーズ【コレクターズ・エディション】

 

戯れに山崎浩一『男女論』のページを繰ってみると、こんな記述にぶつかる。「ぼくたちは、本当に恋愛という厄介でのっぴきならない〈関係〉を引き受けることを求めているんだろうか。単に『私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材』を求めているだけなんじゃないだろうか。『私に素敵な思い出をくれるだれか』だけが欲しいんじゃないんだろうか。(中略)だとすれば、『他者』なんぞという厄介な相手と恋愛なんぞというしちめんどくさい手続きをするまでもなく、情報資本主義のショーウィンドウにいくらでも揃っているのだ。ほら、ここにも、ほら、あそこにも。世界は『恋愛』でいっぱいだ!」

彼はこれまで十数回は読み耽って通り過ぎたはずのこの箇所に今更ぶつかり、思考を重ねる。「情報資本主義」は「恋愛至上主義」とも読み替えられるのだろう。「恋愛至上主義」……つまりあたかも恋をしなければならないかのような風潮を彼はひしひしとこれまでの人生で感じて来た。以前にも書いたかもしれないが、彼は恋愛感情というものがどのようなものなのか分からない。そういう感情を「持たない」わけではないことは分かって来たようなのだけれど、そういう感情を「どう位置づけて良いのか」には困ってしまって今悩んでいるところである。

山崎浩一のコラムの中で引っ掛かる言葉が「私の人生を素晴らしい物語にしてくれる素材」というところである。「人生を」「物語にしてくれる素材」……恋愛とはもしかすると人が「物語」を生きるための「素材」なのかもしれない。だというのであればそこに本来なら他者との関係を重んじなければならない「恋」の本来あるべき姿とは随分倒錯しているように感じられる。人は「恋」をしたいのではなく、「物語」を生きたいのではないか……と思うのだ。そして、その「物語」を生きたいという気持ちは彼にも分かるのだった。

敢えて言えば、人間の人生は「物語」としては出来上がっていないのだろう。いや、スティーブ・ジョブズ的に言えばあとになって過去に自分が行ったことを、点と点を結びつけるようにして一本の線という「物語」を組み立てることが出来るのだろう。あるいは、起こり得たことに意味があるのかどうかという側面からも見てみよう。そうすれば佐々木敦未知との遭遇』で語られて来たようにあらゆる出来事は「そう来たか!」と自分自身が練り上げる人生という「物語」の中に位置づけることが出来る(ここで千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』に触れられないところが彼の限界である)。つまり、人は自分が作り上げた「物語」を生きている。ライフヒストリー……大袈裟に言えばそういうものだ。

人はそのようにして「物語」を織り成し、そしてその中で生きている……例えばそれはなにも自分が自分の「物語」を織っているのではなく、人に語らうことで自分の体験を「物語」化し浄化するという試みだって変わりはあるまい。例えば村上春樹アンダーグラウンド』で村上春樹が人の言葉を聞いてヒーリングを施したように……なんてことはない。自分でも整理のつかないことを語ることに依って整理をつけて治すというたったそれだけのことだ。その意味では人は「物語」を必要としている。「物語」の中に自分を統合させ、そしてそれに依って順序立てて何事かを語ることが出来た時に人は癒しの作業を終えているのだ。

だが、ここで一片の疑問が起こる。書物なら、あるいは映画ならそれを「物語」の中に導入することは容易いのだろう。折に触れてこんな本を読みこんな映画を観て来た、等など……だが、今度は人の居る事柄である。彼女についてなんと説明すれば良いのだろう。「僕の『物語』を完成させるための素材になって下さい」? それはしかしかなり乱暴な事柄に入るのではないだろうか? 彼女の存在がこの小説らしきものを書かせていること自体は確かだ。だが……と思う。何処まで彼女のことを「物語」を完成させるための素材にして、何処からそんなちゃちな「物語」を壊すための異物として受け容れなくてはならないのか……。

人は中置半端に出来上がった自己だったか自我だったかを壊すために恋愛をする、あるいは恋愛は中途半端に出来上がった自己や自我を壊す、と橋本治は何処かで記していたことを思い出す(『89』だっただろうか?)。だというのであれば、彼女の存在をヤワな「物語」の中に取り入れて「これは『恋』だ」とすんなり受け容れることだけは断じて慎まなくてはならない。それは思考におけるある種の怠惰さの現れだ。どう整理しようが位置づけを拒むものとして彼女を「他者」として受け容れること。それが彼に求められる最大の誠意なのだろうと思う。

「恋」として安直に受け容れるのではなく、それが「恋」なのかどうかという疑問を保持し粘りに粘ること……例えば(冒頭しか読んでいないので分からないのだが)マルセル・プルースト失われた時を求めて』が教えるように濃密なまでに感じられた感情を味わい尽くすこと…… 今の彼に求められているのはつまりそういうことなのだろう。この恋の苦しみを「エンジョイ」すること……読みたくなったものを読み、聴きたくなったものを聴き、語りたくなったことを語ること。裏返せばそう出来ない事柄についてはなにもしないこと。これもまた最大の誠意なのだろう。

だから、これは結局は「特別な感情」なのだと彼は自分に向かって言い聞かせる。これは「恋」なんかではない、と。だけど、彼女はどう受け取るのだろう? 「これは『恋』ではないかもしれません。僕にとって『特別な感情』なのです」……と語られて、彼女はその言葉の含意を読み取れるのだろうか? それはなにはともあれ彼女に任せることにしよう。この「これは恋ではない」感情に関して彼は幾らでも書けそうだが、差し当たりこのあたりで一旦筆を休めて暫く静かに考えることにする。少し歩くのが良いのかもしれない。そうすればなにかが氷解してしまうのかもしれない。

「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」 / There She Goes #5

New Adventure

New Adventure

 

金井美恵子『道化師の恋』で、「そうなんだ、あたしは恋をしている!」という不意の啓示(らしきもの)に登場人物が打たれる場面が登場することを、彼は思い出す。「恋をしている!」……この箇所のこと以外『道化師の恋』の内容はほぼ忘れてしまったのに等しいので、自分の記憶力の減退を感じて溜め息を吐きながらしかし初読の頃の自分の感想を思い出そうと考える。この箇所があるからこそ自分はこの小説をずっと記憶し続けられていたのではないか……いつぐらいから読み返していないのか分からないが――きっと彼が高校生の頃に読んだきりなのだろうと思うのだが――この箇所に彼にとって重要な意味があるような気がしたから覚えているのかもしれない。

「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」……この言葉の不自然さに彼はずっと引っ掛かっていたのだった。いつになれば人は「今恋をしている!」などということに気づくのだろうか、と。彼には「今恋をしている!」と自覚出来た瞬間はない。いや、「恋」をしたことはこれまでの人生であったのかもしれないが、それを「恋」として自覚し自分の中で落とし込んで整理出来たことはない。途方もない感情の揺さぶりが到来し、そして浮ついた気持ちになりあるいは落ち込む……その感覚をしかしどうしたら「恋」と呼べるのだろうか。

「恋」とは、例えばこんなことではないかと彼は考える。丹生谷貴志加藤典洋を批判した文章で丹生谷は「現場において『理念』の下に戦い死んで行く者などいない」と記している。「なるほど人は『理念』 のために戦う決意はするだろうが」「例えば(誰だっていいのだが)カントが詳細に分析したように、実践現場の者は次々に現れる『出来事』 の中に解体して行くのであり、そこに訪れる『死』 は文字通り『理念』には決して還元され得ない出来事である」 と。しかしこれは「恋」にも言えることなのではないだろうか?

「恋」とはつまり「理念」などではない。世間一般的に言われている「恋愛のディスクール」に染まり、例えばフローベールボヴァリー夫人』のように「恋に恋する」人は現れるのかもしれないけれど実際に自分の身に個人的に起こってしまう出来事はそんなに、通説通りに「あたしは恋をしている!」という形で腑に落ちるものとして現れないのではないかということだ。出来事は――なんなら明日訪れるかもしれない私の「死」にしたって――敢えてこんなことを書けばもっと散文的な、ドラマ性に収斂されない何事かであるのではないか、と。

「恋」は文字通り「理念」には決して還元され得ない出来事である……それが「恋」なのだろうか。つまり、これが「恋」であるとは語り得ないものこそ/までもが「恋」なのだろうか? だというのであれば「そうなんだ、あたしは今恋をしている!」という言葉は一種のネタ/ギャグとして――金井美恵子の小説は本質的に「ギャグ」だろう――読むべきなのだろうか? 「恋」というものは遂に分からない「出来事」であり、彼はその「次々に現れる『出来事』の中に解体して行く」存在でしかあり得ないからだ。だというのであれば、彼は「恋」という感情を恐らくは「恋愛のディスクール」とは異なる場所で体感していることになる。

……いや、だというのであれば彼は何故それを「恋」として納得するのだろう。それはきっと、彼が感じていることが多くの人々から「恋」ではないか(その不可解さ、唐突さも含めて)と指摘されたからであり、かつ『道化師の恋』を想起したように――別にそれは『眠れる美女』でも『ノルウェイの森』でも、『痴人の愛』でも『好き好き大好き超愛してる。』でも『ロリータ』でもなんでも良いのだが――「恋」を描いた物語の登場人物に己を照らし合わせることが出来るからに他ならない。彼が「恋」なのかどうなのか分からないことが、世間では「恋」という言葉で整理づけられるのだ。たとえそこに僅かな違和感や感情的綻びを感じようとも……。

散文的な「特別な感情」は、こうして「恋」という曖昧な(詩的な?)概念の中に位置づけられる。だとすればこれまで彼に生じたことも、これから彼に生じることも基礎的には「恋」のもたらす現象として整理づけることが出来る……職場で喋り過ぎて叱られること、活字が頭に入らないこと、なにも手につかないこと、等など……言葉に依るラベリングはしかし、「恋」だというその感情がもたらす奇行を抑えるものなのだろうか。むしろ「恋」なら「恋」がもたらす狂騒状態に拍車を掛けてしまうことに繋がりはしないだろうか? 書くことが病を癒す場合もあるだろう。だが、書くことでこじれてしまう病もあるのではないか? と書きながら彼は考える。

だとしたらどうしたら良いのだろう……分からない。だが、ともあれ書くことが揺らぐ彼の心理を観察させることに繋がるのなら、シュレーディンガーの猫の逸話が教えるようにその「書く」という営み自体も「恋」のあり方を歪めてしまうことだろう。そんな経験は唯一無二である。四十代の男が「恋」のことについて書きながら/考えながら「恋」をする……そんなことが日常的に起こることなのだろうか? そう頻繁には起こらないだろう。あるいはこれは 10cc の「I'm Not In Love」の歌詞が教える通り「馬鹿げた過渡期の戯れ(It's just a silly phase I'm going through)」なのだろうか。分からない……。

人は絶望すらも楽しむことが出来る生き物である……ワールズ・エンド・ガールフレンドの音楽はそんなことを彼に教えてくれた。今彼は My Little Lover の歌詞のことを考えている。「いつだって恋だけが素敵なことでしょう」……彼が差し当たって感じているものが絶望としての「恋」なのか希望としての「恋」なのか、それは彼には分からない。分からない、分からない……書けば書くほど彼の中には謎が残る。恐らくは、言葉が何故通じているか分からないのに言葉を使うのと同じように、「恋」とは何故それが「恋」でなければならないのか分からないまま使われる言葉なのだろう、そう彼は思う。

Hurtbreak Wonderland / There She Goes #4

Hurtbreak Wonderland

Hurtbreak Wonderland

 

突き詰めれば彼の身体は、あるいは精神は、誰かから与えられたものに依って構成されている。言葉が/思考が……彼がオリジナルで編み出したものなどこの世の中には存在しない。彼はむしろアイデンティティを持った存在として収縮して行くのではなく、会社なら会社、友人なら友人、家族なら家族といった多様な関係の中でアイデンティティを引き裂かれながら生きていることを意味するのだろう、といったことを例えばポール・オースター『ガラスの街』を読みながら考える。引き裂かれるアイデンティティ……他者との関係の間で無数に砕け散ってしまうアイデンティティに整合性などありはしない。自己は矛盾する。恐らくは彼が考えているよりももっと容易く……。

……というようなことも既に誰かに依って言われてしまっていることの後追いでしかないことに(要するに「スキゾ」と「パラノ」の話なのだろう!)気がついて、彼は改めて自分が凡庸な人間でしかあり得ないことに落ち込むのだけれど、「自己」なんてものがないと考えれば――「自己」とは要するに「他者」との関係の中でこそ立ち上がるものであることを考えれば、つまり「他者」が現れて彼/彼女とコミュニケートすることに依って初めて「自己」が生まれることを考えれば――それで幾分かラクになったような気はするのだ。「自己」が必ずしも整合性を備えていなければならないわけではない。それどころか、整合性がないからこそ「自己」は面白いのかもしれない……。

彼女との「特別な感情」――それを「恋」と呼ぶことだけは抵抗があるのだが――について考えながらワールズ・エンド・ガールフレンドの『Hurtbreak Wonderland』を聴いている。これまで何度も聴き通そうと思って聴けなかったアルバムなのだけれど、不思議と頭に入って来る。そうしながら彼は考える。彼の中で起こり続けている何事かの変化を……彼女のことを考える度に/あるいは彼女のことを考えなくとも、彼には変化が起こっている。いや、そもそも変化のない人間など居ないのだろう。人間のアイデンティティとはもっと動的なものであるはずだ。他者の矛盾する言動によって揺さぶられ、そうして安定を失い、そして取り戻す。その繰り返し……そうした揺らぎの中にこそ「自己」はある。

たまたま古井由吉『野川』について彼が自分で十年前に書いたメモを読んでいたのだけれど、その中に彼自身も忘れてしまっていたポール・オースターの次のような言葉が引用されていた。「物理的にどんなに孤立しても――無人島に置き去りにされても、独房に幽閉されても――自分のなかに他者がいることがわかる。言語、記憶、それこそ孤立感に至るまで、頭に浮かぶあらゆる思いは他者とのつながりから生じている」。「孤立感」も「他者とのつながりから生じている」……そのことを彼は考える。彼女が居ない今、彼女とどう足掻いても連絡を取れない今、彼はその「孤立感」について考える。自分ではどうしようもないものについて……。

「自己」は揺らぎの中にある、と書いた。揺らぎに依って生み出される「自己」は従って、個々人に応じて相当に違ったものになるのだろう。彼と彼でない人間の相違、「自己」と「他者」の相違……それを人は「個性」と呼ぶのだと教わった。「個性」……「自己」の、彼の私淑するコラムニストの言葉を使って言えば「ゆがみ」……その「ゆがみ」を確認する作業が彼にとっては文章を書くことであり、逆に言えば彼は彼の「ゆがみ」を書くことに依って初めて知るわけだが、その作用がフィードバックして来てまた新しい「自己」を作る。書くこともまた、自分という「他者」を通して始められるコミュニケーション……これもまた分かり切ったことだ。

「彼女ならどう答えるだろう?」と彼は考える。彼女らしい切り口でこの問題をどう答えるか……彼の中に棲みついた彼女が語ること。むろんそれはリアルの彼女が語ることではない。「彼の中に棲みついた彼女」と「彼女」は違う。彼が彼女を見ている時に、彼は「彼の中に棲みついた彼女」の像を増幅させて考えることは出来るけれど、「彼女」を見ているのだろうか? 突き詰めて考えれば主観以外の世界はあり得ない……やれやれ、これもまた陳腐な事柄に過ぎない。彼の思考が産み出すこと、そして書くことはそういった凡庸な哲学談義の域から遂に出られない。彼の知らない言葉を探す他ない。

彼は聴いている音楽に依って、読んでいる文学に依って自分のコンディションを把握することがある。活字が頭に入らない状態で辛うじて読めたものが、例えばストーカー男の小説(川端康成『みずうみ』)だったり「恋多き男の自殺願望」であったり(頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』)、あるいは「中年男の失踪」を描いた安部公房砂の女』やポール・オースター『ガラスの街』であったり……危うい状況に置かれているのが彼には分かる。だが、彼に相応しい答えは書物の中にはない。最終的に彼は油照りの中を待ち続けるしかないようだ。

彼は語る。喋る。それは常に周囲と齟齬を来す。それもまた彼の「ゆがみ」に依るものなのだろう。彼の絶えず変化し続ける「ゆがみ」という「自己」のあり方……それを彼女は肯定してくれるのだろうか? それはもちろん、彼を「恋人」として受け容れることではないだろう。彼の存在を包み込み、許容し、理解しようとすること……平たく言えば「友達」になること。それを彼は求めている。だが、それを決めるのは彼女なのだ。その決断の時が訪れるのを、「待つ」しかない……なんらかを「待つ」……例えば太宰治の小説の主人公のように? あるいはムルソーのように(ここでベケットを持ち出せないことが、彼の限界を示しているのだが)?

ともあれ、「待つ」しかない。それまでこの「Hurtbreak」を「Wonderland」の中で起きた愉快な出来事として、受け容れるべきなのだろう。そう、人は楽しもうと思えば、叶わない願いを抱く絶望すらも楽しめるのだ(そして、恐らくそれは「幸福」なことなのだろう……)。

Synchronicity / There She Goes #3

シンクロニシティー

シンクロニシティー

 

油照り、というのだろう。じりじりと焦がされて行くような苦しみ……一滴の水分すら補給し得ない状況に置かれているような感覚……今日は彼はサミュエル・ベケットの本を図書館で借りたのだけれど、読みながら活字が全然頭に入らなくて同じ日に残雪の小説を読みたくなって、読み進めた。すると何故か安部公房の小説を無性に読みたくなって、未だ読んだことがなかった『砂の女』を買い求めたのだった。そうしたらポール・オースター『ガラスの街』を読みたくなってしまい、これは図書館で借りて両者を併読する内に『ガラスの街』の主人公の孤独な佇まいに惹かれて彼の行動を追い求めることになってしまった。その後仕事の始業時間が来たので仕事に入った。

意識を止めたいと思うことがある。眠りだけが意識を止める唯一の手段だとするならば、この世はなんと残酷に出来ていることなのだろう。頭の中でひしめき合う観念……それは厳密に言えば眠りの中でも続いており夢として現れるわけだが、だというのであるならば意識は止められないものだと語るしかなくなる。止められない無限運動が続く意識を唯一止める方法があるとするなら、それは死ぬこと、あるいはその死のギリギリの地点まで意識を追い詰めてしまうことなのだろう。彼はそんな試みを三度行ったことがある。世間で言われるところの「オーヴァードーズ」というやつだ。三度……三度目は胃洗浄まで行ったというが全く記憶に残っていない。

頭の中が弾け飛ぶような体験……それを彼は三度味わった。三度だ。それはきっと人よりも多いのだろう。時間もなにもかもスキップしてしまうような体験……多分盤面に傷をつけて音を飛ばせて実験的な音楽を作るミュージシャンの気散じにも似た、戯れとしての自己破壊。彼はリストカットを行ったことは一度もない。自分の腕から血が流れるのを彼は正視出来ない。その程度の繊細さなら持ち合わせている。あるいはそれは臆病さなのかもしれないのだが、リスカに依って生まれるアドレナリンの快感といったものが彼には想像出来ない。そんなエミネムのリリックのような出来事がこの世にあるのだろうか、と沈思黙考する。

だから、強いて言うならば本を読むことは他人が産み出した思考のリズムに自分の思考のリズムをシンクロさせて行くことに依って、自分の思考を他者と同調させて意識を飛ばす――それは「フロー状態」と呼ばれるものなのかもしれないが――ことなのだと彼は考える。突き詰めて言えば、思考停止にも似た稼働。彼はそのようにしてこれまで他者の思考に自分を同調させて、他者の思考に憑依されて自己を放擲することを繰り返して来た。映画にも音楽にも感じられない快感……思考が織り成すものを伝える最も簡便な手段が言葉だとするのであれば、それは紛れもなく本だけが味あわせてくれるものなのだと思う。

彼女の話をした方が良いのかもしれない。彼女のことを好きになった理由、「特別な感情」を抱いてしまった理由が他でもなく彼女の言葉遣いだったと言えば、それは幼稚に過ぎるだろうか。不自然な敬語、しかし言い淀みのないソリッドな言葉。思考に例えばレコードの盤面の一分間の回転数を意味する BPM というものがあるのだとしたら、彼の 33 回転の思考と比べて彼女の 45 回転の思考はテンポが良く、次々と溢れ出て来る言葉にすっかり彼は魅了されてしまったのだった。言葉が棒のように語り連ねられる……というのはマックス・ブロートがフランツ・カフカを評して語った言葉だと聞くが、そんな感覚を彼も感じたのだ

彼女の言葉の歯切れの良さ……裏返せば(おかしな表現になるが)彼は彼女の言葉しか見ていない。彼は彼女を正視出来なかったのだから、彼女が彼好みのルックスなのかどうかさえ彼には分からない。そのようなものは、と彼は思う……淀みない言葉の魅力の前では、彼女がどのような姿態であろうと別に構わないではないか、と。それが重要なことなのだろうか。ルックスを重視するだけが「特別な感情」あるいは恋の必要条件ではあるまい。彼は彼女の佇まいのことを思う。白いブラウス。スカートの色までは忘れた。正座して、じっとメモを取りながら思いついたことを淡々と整理して行くその素振り/口振り……それが「特別な感情」を産み出すに充分な条件でないとしたら、一体なにが充分な条件だと言うのだろう。

彼は彼女と直接語らったことはない。以前にも書いたがスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』を渡した時に少し喋った程度だ。本を渡し、彼らしくない早口な口調で「読みたくなければ読まなくても良いから」と押しつけるようにして渡した、というのが彼が記憶するファースト・コンタクトだ。そのやり取りの中だけに既に彼は彼の下心を含ませる思惑があったわけだが、彼はそれだけのこと、つまり「本を貸す」ということだけの中に彼なりになにかを伝えられたらという思いを込めていたわけだ。それが伝わったのかどうかは彼女に訊くしかない。

彼女に会えるのがあと八日後……八日。その日々を油照りの思いで過ごさねばならないことは既に書いた通りだ。一体人は、恋の病(?)の中でどれだけのアルコールを摂取するのだろう。気散じとしてのお手軽なオーヴァードーズ……彼には諸事情がありそれも禁じられている。だから残された手段はスマホを開いて SNS を眺めたり、毛繕い的なやり取りをしたり(「宮迫博之のことどう思う?」といった、リアルとは無縁の話題だ)、せいぜいその程度だ。彼は興味が無いせいでテレビも見ないし漫画も読まないので、そんなことだけでしか人とコミュニケート出来ない。

世の中にはあらゆる情報が溢れている。あらゆる……しかし、人の経験知に依って出来上がった理屈はなかなか情報として流通しない。口当たりの良いサクセス・ストーリーや自己啓発本の類の中に溢れ出してしまい、それよりももっと肝腎なことは文学の中に埋もれてしまう……ここまで書いて、ポール・オースター安部公房の共通の主題である「失踪」というキーワードについてなにも語っていなかったことに気づくのだった。次に書ける時が来れば、そのことについて書くかもしれない。それまでに安部公房『燃えつきた地図』を読まなければ……。