There She Goes

小説(?)

No matter how low / There's always further to go / There She Goes #38

AUTOMATIC FOR THE PEOPLE (DELUXE EDITION) [2CD] (25TH ANNIVERSARY)

AUTOMATIC FOR THE PEOPLE (DELUXE EDITION) [2CD] (25TH ANNIVERSARY)

 

R.E.M. の『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』というアルバムを聴いている。絶望の最中に居る彼は、音楽の中にいつものように癒しを求める。エリオット・スミスニック・ドレイクトム・ウェイツニルヴァーナ……そしてこのアルバムに戻って来てしまう。このアルバムには言い知れない、言葉では表現出来ない絶望とそれを突き抜ける希望が少しばかり残っているように感じられる。その希望を信じて良いのかどうなのか分からない。結局のところ空を掴む話で終わってしまうのかもしれない。信じていた希望が存在しないことに落ち込むよりは、信じない方がダメージも少なくて済むというものだろう。

ニルヴァーナカート・コバーンはこのアルバムを聴きながら自殺したという話を聞いたことがある。遺体の傍にこのアルバムがあった、と……何処まで本当のことなのか分からない。だが、カート・コバーンはこのアルバムを聴きながらなにを考えていたのだろうかと考えることがある。このアルバムは人を死に誘うようなところはない。むしろ逆だ。聴いていると最後の最後に見えて来るのは光だ。それはあまりにも眩し過ぎて逆にキツいものなのかもしれないが、ともあれ光なのだ。もちろんカート・コバーンもそれを分かっていただろう。分かっていたからこそこのアルバムを聴いていたのかもしれないし、聴いていてもなお信じられないことに絶望して亡くなったのかもしれない。

死をふと思うことがある。どうしようもなくて、このまま死んでしまいたい……ただ、ここで死んだらどうなるんだという思いもある。まだドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』も読めていないし、読めていない本は他にも沢山ある(トーマス・マンの『魔の山』も読みたい本だ)。ここでくたばったら、もしかしたら答えが書いてるかもしれない可能性をみすみす逃したまま死んでしまうことになる。死ぬことを選ぶよりも、老いて生き延びて、それがどれだけ無意味だとしても答えを探し続けて足掻き一生を終えたいと彼は考える。

彼女のことを考える。絶望的なディスコミュニケーション……同じように生きづらさを抱えた人間同士が分かり合えるというわけではない。分かり合えない者同士が分かり合えないなんてことも当たり前のことだ。フリッパーズ・ギターだって歌っている。「分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ」と。彼女と話をしたいと思うけれど彼女は話し相手になってくれない。こちらが寂しい時だけ相手になって欲しいというのは虫が好過ぎるだろう。だから彼からも話し掛けることはしない。そっと、同じ時を生きていることを確認したいと思う。

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』という本を読んだ。二十年前に読んだことがある。単行本版を読んだのだけれど、今読むと沁みるものがある。それについて感想文を書いた。それで今日の成果はお終いだ。また明日がやって来る。なんだか生きているのではなく生きさせられているような人生……でもいずれ終わりはやって来る。どんな形でかは分からないが、ともあれ人生は終わる。自分も人生の後半戦に差し掛かって、ここで空元気を出す気力も失くなってしまった。どうしたら良いのだろうか……迷いに迷う。もしかしたら迷うことこそが生きることなのかもしれない。ただ、そう悟るには自分はまだ修業が足りないようだ。

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最低賃金以下の暮らしを強いられて、食費を浮かしてどうやって生活するか禿げ上がるほど悩む日々が続く。それに加えて歯医者にも行かなければならないのでまたカネが飛ぶ。それを錬金術でやり繰りしてなんとか生き延びるわけだが、生活保護もままならず障害年金も途絶えて、クレジットカードもデビットカードも持たないで暮らすことを強いられる羽目になる。だから Apple Music も Netflix も使えなくなる。それをどうしたら良いのか頭痛の種になっている。これ以上貧窮の奥底まで進んで、なお道はあるのだろうか。

カート・コバーンは「Hello, Hello, How Low?」と歌った。「どのくらい酷い?」と。それに答えてブラーのデーモン・アルバーンは「No matter how low / There's always further to go」と歌った。どんなに酷く立って道はある、と。このメッセージをカート・コバーンが聞いたらどんな反応を示しただろうか。苦笑したか、それとも激怒したか。取っ組み合いの喧嘩になっていたかもしれない。それはそれで見てみたかったという気がする。ともあれ今日はもう寝なくてはならない。明日はまた来る。明日は歯医者に行かなければ。なんだかどっと老け込んだように思う。徒労……それでもなお道はある。出来る限りのことをやるだけ……カミュ『ペスト』の主人公たちのように、淡々と生きるのだ。夜の中に答えはない。

死ぬほど楽しい毎日なんてまっぴらゴメンだよ / There She Goes #37

’98.12.28男達の別れ

’98.12.28男達の別れ

 

どうも自分というものに自信を持てなくて困る……周囲からも「自分に自信がなさそう」「自信を持って下さい」と言われて彼も悩んでいるのだった。自信……そんなものどうすれば持てるんだろうか。いや、持っているつもりではあるのだけれど自分勝手に振る舞うことと自信を持つこととはまた違うことのようなので、困っているのだ。

彼女の話はしただろうか。「自分のことをボロクソに言うのを止めたらどうですか?」と言われたのだった。そうなのだけれど……今日も彼は自己啓発書の類を立ち読みしてみたのだけど、なかなかこれといった本がないし本を買うカネもないし時間もないしで止めてしまったのだった。それでヒマ潰しに本をパラパラめくって、一日が終わる。 

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

 

自信なんてなくたって良いじゃないか、と考えることに決める。なくたって良い。そんなことにこだわってもロクなことはない。こういうことを考え始めると彼は車谷長吉のことを思い出す。『赤目四十八瀧心中未遂』の壮絶な主人公の「流され」ぶり……いっそとことん自信をなくしてしまったことから得られるものもあるのかもしれない。 

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

 

車谷長吉は『文士の意地』というアンソロジーを編んでいて、三度目のオーヴァードーズに失敗した時に自宅待機状態で過ごしていて、やはりヒマだったので読んだのだった。結局「文士」にはなれなかったし小説も書けずに終わってしまったのだけれど、それはそれで良い人生だったと言えるのではないか。 

文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯

文士の意地〈上〉―車谷長吉撰短編小説輯

 
文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

文士の意地 下―車谷長吉撰短篇小説輯

 

彼は自分の人生が締め括りに近づいたようなそんな気がしている。不穏な気分……まだ四十代だというのに、ここで一気に老け込んだようなそんな気がする。夢見ていた四十代にならなかったこと、それ以前に四十代まで生きてしまったことにある種の絶望を感じているからかもしれない。ということは今こそドストエフスキーを読むべきなのか。

シェアハウスに引っ越して来た時に読もうと思って真っ先に持ち込んだのがドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』なのだった。『罪と罰』は先に読んでいたので、いよいよこの大長編と取り組むかと腹を括ったのである。ところが読み始めてみるとマルセル・プルースト失われた時を求めて』に浮気してしまい、その『失われた時を求めて』も挫折しそうな勢いで、ココ・シャネル関連の本を買い漁って洋書を買い漁って、結局辻褄合わせに苦労しているのだった。読みたいものを読む。彼はそうすることしか出来ない。

自信を持つ秘術なんてあるのだろうか……彼自身は自分が変わったという気がしない。いじめやディスコミュニケーションに悩んだ十代、人格障害アダルト・チルドレンを疑って自分を問い詰めた二十代、酒に溺れた三十代……そして今。彼を取り巻く環境は大きく変化した。彼自身が変わったという気はしていない。

強いて言えば、前にも引いたのかもしれないがチャック・パラニュークの言葉に感銘を受けたからだろうか。「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」、と。彼自身、たまたま断酒会で壮絶な体験談を沢山聴かせて貰ったあとに「人生、どう生きても良いんじゃないか……」とふと悟ったというのが本音である。だったらやりたいことだけをやろう、と。やりたくないことや気が向かないことはやらない。出来ないことはもっとやるまい、と思ったのだ。

それが正解だったのかどうか。世間的な成功には目を背けてひたすらやりたいことをやって生きている今は充実していると思う。ただ、それは強烈に楽しいというのとは違う。彼が敬愛するミュージシャンである佐藤伸治が歌っていた歌詞を思い出す。「死ぬほど楽しい毎日なんてまっぴらゴメンだよ」と。そんな強烈な強度は要らない。ただ、温もりが欲しい。今は彼自身捉えどころのない絶望の最中に居るとも言えるし、あるいはこれから人生がどんどん開けて行く只中に居るとも言えるのかもしれない。ドストエフスキーに戻るべきだろうか。

彼は自分を賢いとも頭が良いとも思ったことはない。経験知や叡智ということで言えば、あるいはヴォキャブラリーの豊富さということで言えば彼よりも詳しい人はもっと沢山居る。と書くとまたこれも自虐が過ぎるのだろうか。絶望と希望の狭間、良く分からない状況の中で揺さぶられて、今があるように彼には思われる。

I don't say that life's not sad and death is not the end / There She Goes #36

Timelords

Timelords

 

不思議と死のことを彼は考える。死にたい……そう思った時期があることを彼は思い出す。今は彼はそう思わない。今はどちらかと言えば生きたい。ただ、いずれ死は訪れる。運命はその意味では残酷だ。望んでいる時には来ないけれど、望まない時に限って不幸というものは訪れる。

彼女は自殺未遂を繰り返したという。水没、首吊り……彼自身オーヴァードーズを三度やったことがあるので、彼女の気持ちが分かる……と言うと嘘になる。そんなこと分かるものか。分からないからこそ彼女の気持ちというものは尊いのだ。だから安直な共感は彼女に依って拒否されるのがオチだろう。それで良いと彼は思っている。

ポール・オースターの『孤独の発明』の冒頭を彼は思い出す。疾病の予感もなく、人が突然死ぬ……それからライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』のことを思い出し、村上春樹ノルウェイの森』のことを思い出す。どの作品も Sudden Death について語られている。なんの予兆もない突然の死……。

いずれ彼自身なんらかの形でこの人生にけじめをつけなければならない。それは受け容れなければならない。そうだな……命の宿った肉体から再び物質へと自分が還元されて(?)行く……それが人生なのであればなんと切ないものなのだろう。なんの意味があったというのだろう。

彼はある時期にとある男性と交際していたことがある。というより、彼のウェブサイトをその男性が見つけて――まだブログをやる前だった――感激されたのだった。その後 mixi の時代が訪れて、彼はその男性を誘おうと招待メールを書いたのだった。遺族の方から、彼はその男性が自死を遂げたと告げられた。そのメールを読んだ時に、彼は世界の底が抜けたような妙な感覚に襲われた。不思議と涙は出なかった。遺族の方が残されたその男性の日記の自費出版を持っていたはずだが、何処へ手放してしまったのだろうか……。 

魔法の笛と銀のすず

魔法の笛と銀のすず

 

日記というと二階堂奥歯の日記を思い出す。彼女もまた自死で自分の人生にピリオドを打った人物なのだった。その日記『八本脚の蝶』も読み応えのある日記だった。それも何処へ手放したものか残っていない。ギリギリまで自分を問い詰めた彼女の苦悩の吐露はこちらを圧倒させるものがある。だからこそ生きていて欲しかったのだが……。 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

自死に依って先立った人物たち。あるいは望まない形で死を選ばされた人物たち。彼らと彼の間を分けるものはなにがあるのだろう。彼は何故生き残らなければならなかったのだろう。彼の自死の試みが成功していたらどうなっていたのだろうか。彼もまた、彼を覚えている人間に依ってこのように語られるのだろうか。

薄れ行く記憶の中で彼は亡くなった人物たちのことを思い出さざるを得ない。忘却されることの方が、あるいは死者にとって幸福なことなのだろうか。いつまでも自分のことが記憶となって、軛のような形で残ることを死者は嫌がるだろうか。だが、死者は太陽のように燦々とこちらを照らし続ける。ここで古井由吉氏を引こう。

例えば一日の天気のことを考えても、よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく、いや、その場合でも、表現として「私」が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。多くの死者たちが体験していろいろ残した言葉や情念を動員しているわけです。特に風景描写とか天気のことを書くと、「私」が相当に死者を含んでいるという感じがするわけです。(『小説家の帰還』より)

死者が残したものを私たちは受け継いで今に至る……それは言葉であり文化でありあるいは財産である。そしてそれを私たちは次の世代に託して行く。死者がなければ私たちは生まれて来なかったはずであり、私たちが死ななければ次の世代は生まれない。ここで例えばこんな言葉を引くのは頓珍漢だろうか。

惧れるな。アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。

これは大江健三郎氏の『新しい人よ眼ざめよ』の末尾で引かれるウィリアム・ブレイクの詩句である。この言葉で連作が閉じられるのは、なんだか希望を与えられるではないか。彼よりもひと回り若い彼女のことを思う時、この言葉のように彼は考える。それもまた傲慢というものなのだろうか。 

ゆらめき In The Air / There She Goes #35

Aloha Polydor

Aloha Polydor

 

結局心臓が止まっちまえばナンボなんだよな……と思いながら最近生きている。どう生きようが、死んでしまえばそれまで。今この瞬間に心臓が止まるかもしれない。つまり Sudden Death だ。人生は努力次第でどうにかなるものではない、というのは今までの人生で嫌というほど学んで来たことだ。努力が必ずしも報われるものではないことは、これまでの人生で骨身に沁みて体験している。ただ、だからと言って努力をしないで生きることも無為なようなことのように思う。所詮人生死ぬまでのヒマ潰し。だと言うのであれば、努力してもしなくても同じなのであればしない理由なんて何処にあるのだろうか。努力する理由もない。だけれどもしない理由もない。だというのであれば、無為であってもし続ける人生があっても良いのではないだろうか。

今日はそんなことを考えながら、彼はジャレド・ダイアモンドのペーパーバックを買おうかどうか思案に暮れた。お金の使い方が分からないのでどうしたら良いのか悩んでいるのだった。発達障害者はこういうことに不器用なので、せいぜい LINE のグループトークで叫ぶしかないのだった。これまでバカみたいに買い込んで来た本が一杯あるにも関わらず、散財しないと気が済まない。宵越しの銭は持たないという性分なので、手持ちのお金はあるだけ使ってしまってスッキリという性格なのだった。直さなければならないのだろう。

彼女とお会いする機会があったのだけれど LINE の既読スルーについて「グループトークでお話ししていただければ(私個人宛ての内容であっても)」という話なので彼女に個人宛で LINE のメッセージ送信を行うことは控えるようにしないといけないと思ったのだった。このあたり彼女と彼との温度差が違う。彼はパーソナルな事柄は個人に宛てて送るのだけれど、彼女はそういうことをパブリックに明かしても良いということなので考え方の違いというか、分からないことがあるものだなと唸らされてしまう。まあ、人それぞれということなのだろう。

彼は自分の眼前に居る人々を――その是非はともあれ――凄いと思ってしまう。彼は自分のことを凄いと思ったことは一度もない。なんだかなんの取り柄もないまま今まで生きて来たように思っている。大学は早稲田まで現役合格で行ったのだけれど、自分がそんなに頭が良いとも思っていない。仕事が出来る人は彼以上に沢山居るし、論理的思考が出来る人も彼女を含めて沢山居る。読書量も人と比べれば少ない方だろう。その意味で、彼は多分突出した才能を持っていないと思う。彼にあるのはむしろ過剰なほどの欠落だ。なんにもない……平々凡々たる人間のみが持ち得る能力。そんなものがあるのだろうか。

彼はそりゃ本を読むし音楽を聴くし映画も観るのだけれど、それは「オベンキョウ」としての娯楽ではない。そんな「オベンキョウ」なんて真っ平御免だ。前に「『ファーゴ』も観てねえのか」と叱られたことがあるが、別にいつ出会おうが勝手ではないか。たまたま彼の人生において『ファーゴ』と出会うタイミングがなかっただけのことだ。裏を返せば彼はエルンスト・ルビッチの映画を観るのだけれど、それを威張ろうと思ったことは一度もない。芝山幹郎さんの本に誘われて観ただけなので特に凄いことだとも思っていないのだった。

世の中には「岩波文庫を全巻読もう!」というノリの方も居られるのだが、彼はそうではない。その証拠にこれまでトルストイバルザックも読んだことがない。心地良い文章を読み進めて行く内にこういう人間になってしまったからであって、根性があるとか努力しているとかそんな話ではないのである。興味の赴くがままに読んでいたらこうなった……それを威張れるだろうか。好きなことを好きなようにやるだけ。ゲームをやるのと同じような感覚だ。それを威張ったりする人は居ないだろう。誰と競い合うでもなく、静かに本を読んで自分を深めるだけ……。

今日はジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を辛うじて買うところだった。 

Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies

Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies

 

英語のペーパーバックを読んでいることを知られると、カッコ良いとかそういう風に言われるけれど「んなこたーない」なのである。彼自身飛ばし読みで読んでいるので何処まで身についたか危ういところがある。増して会話力となるとお手上げである。十年間英語を勉強して来たのに一体なにをやっていたの……という体たらくである。これについてはまたいずれ書く機会があるだろうから今は書かない。ともあれ、自分が凄いと思ったことは一度もない。負けず嫌いというのは彼の性分としてあると思うけれど、白旗を揚げるのも勇気のひとつだと思っている。

彼女とは脈がないみたいなので、引き際をどうキメたら良いのか分かり兼ねている。ここは彼の側からそっと離れて行くのが吉なのかなあ……と思う。ただ、話をさせていただく相手になって貰うこと自体は図々しいだろうか? それも踏まえての個人宛 LINE なのだったが、相手が迷惑そうなので止めることにした。まあ、そのあたり謎は深まる一方である。「この人はこういう人」と価値判断をカッコに入れてつき合うと人とのつき合いはかなり easy になるということなので、彼自身彼女の心無い言葉に一喜一憂せずブレない対応を心掛けているところだ。それが上手く行くのかどうかは分からない。

Talk Is Toy [Inter-Planetary Travel Mix] / There She Goes #34

Firm Roots Remix

Firm Roots Remix

 

彼女の仕草に惹かれ、彼女の言動を真似たいと考える。だが、彼は言うまでもなく彼でしかあり得ない。海を泳ぐ魚は空を飛ぶ鳥に憧れるかもしれないが、魚は空を飛べない。その代わり鳥は海を泳げないのだから、結局は自分の置かれている環境で best を尽くすだけ、ということになるのだろう。

彼は彼女が持ち歩いているようなルーズリーフバインダーを持ち歩き始めた。それとメモパッドと付箋。システム手帳と、それからスマホに二種類のメモ的なアプリ。これだけのものを使いこなすのは到底無理なので、どう使い分けたら良いか悩んでいるところである。メモを書くだけで一日が終わってしまいそうな、そんな日常である。

細かいことに着目してメモをつけ始めると、色々なことが見えて来る。その場その場の思いつきの中に光るものが意外と多く垣間見えること。忘れっぽい自分の性格故に忘れてしまっていた些事。逆に些事なのに important と思ってしまうようなこと……そのあたりどう残しどう切り捨てるか valance が難しい。

それでそのメモを書く作業の合間に本を読み、お勉強をしているところなのだった。 

アルコール・薬物・ギャンブルで悩む家族のための7つの対処法―CRAFT(クラフト)

アルコール・薬物・ギャンブルで悩む家族のための7つの対処法―CRAFT(クラフト)

  • 作者: 吉田精次,ASK(アルコール薬物問題全国市民協会)
  • 出版社/メーカー: アスクヒューマンケア
  • 発売日: 2014/10
  • メディア: 単行本
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NeuroTribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently

NeuroTribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter About People Who Think Differently

 
スクロール

スクロール

 

彼自身、依存症を抱える人間として断酒会に身を置いて努力して断酒しているのだけれど「CRAFT」というプログラムが依存症と引きこもりの方に効くという話を聞き、どうして依存症者と引きこもりが繋がるのか不思議に思っていたところなのだった。それについてはまたいずれ考えるべき時が来るだろう。

依存症……彼にとっては言うまでもなくスティグマでしかない。依存症さえなければ美味しいお酒を沢山飲めて幸せに暮らせたのに……だがそれを嘆いてばかりも居られないので断酒会通いと一日断酒を欠かさないで暮らしている。もう二年と半月が経つだろうか。慣れれば酒のない人生も楽しくないわけではない。

そして、そのスティグマとしての依存の体験が今度活きる場面が来るという約束をしてしまっているのだった。平たく言えば彼の体験談がお金になるわけだ。苦しんで来たことが「悩みは宝」とばかりにポジティヴに活かされている。それに彼は thrill を感じる。なかなか素敵なことじゃないだろうか?

棚から牡丹餅の話はしただろうか? 二十代までは発達障害者として分からなくて、また認めて貰えなくて苦しい思いをしたし、三十代は酒を止めるために血みどろの戦いを繰り広げた。修羅場を見た。それが全部自分の宝物となって戻って来る。これもまた素敵なことではないか。

そう考えるとスティグマと思っているものは――明かしては恥ずかしいと思っていることは――実は貴重な体験談ということになる。欠点だと思っていたことが、変えように依っては美点となる……彼の自殺未遂の話も今なら笑って話せる。まあ、迷惑は掛けたけれど……。

そんなことを考えながら、取り敢えずは目鼻をつけなくてはならないというわけでスティーブ・シルバーマン『Neurotribes』の読書に取り組んでいるのだった。精読は後回しにして、ザッと意味の掴めるところだけを飛ばし読みする。それが彼の読み方なのだ。最後まで読めるかどうか……。

あと、結局『Sapiens』も買ってしまった。 

Sapiens: A Brief History of Humankind

Sapiens: A Brief History of Humankind

 
Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 

これで両親を回転寿司に連れて行く夢からはまた一歩遠ざかったわけだ。あとははあちゅう「自分への取材手帳」も買った 

自分への取材が人生を変える (スマート新書)

自分への取材が人生を変える (スマート新書)

 

一体なにをやりたいのか……何処に向っているのか分からない時こそが重要なのだ、となにかの本で読んだことがある。行き先が確実に分かる努力ではなく、闇雲に自分の道を切り開く努力。それこそが後々に大きな実を結ぶということに繋がるのだ、と。だから彼は努力している。

あとは貫井徳郎氏と小川洋子氏の作品を読まなくては……読む本だけには困っていない生活を送っている。

Midnight In A Perfect World / There She Goes #33

Endtroducing

Endtroducing

 

英語の勉強を始めることとなった。一応大学では英文学を学んだのだけれど、なにかを学んでいたらこんな人間になっていないはずなので、そのあたり忸怩たる思いを感じなくもない。それで英語を使わなくてもなんとかなった環境で過ごしていたわけだけれど、ここ最近になって英語を使うべきと判断して泥縄式で勉強しているのだった。

これは「仕事」というところまで至っていないのだけれど、和文英訳を頼まれたのだった。それで資料に目を通してみたのだけれど、これが非常に悪文なので直訳するとややこしいことになる、彼なりに噛み砕いて翻訳したのだけれど、それが良かったのかどうか? そのあたり、判断を仰ぐしかない。

本格的な「仕事」ではなく書類をワンセンテンス訳しただけなので、言わば試験的な試みになる。彼の英語力はお粗末なものなので「ペンパイナッポーアッポーペン」よろしく「This is a pen.」「That is a cat.」「There is a mountain.」……式の言葉を並べるだけである。

例えば「接客応対」という言葉。これをどう訳したら良いのか思案していたのだけれど、「Service」で充分通じることが明らかになった。つまり「That store's service is bad.」これで通じるのである。彼の英語力なんてそんなものである。決して威張れたものではないのだった。なんて書くと彼女から「自分のことをボロクソに言い過ぎ」と呆れられるかもしれないけれど……。

一年前、いや半年前まででさえも自分が英語の勉強を再び始めるとは思っていなかった。「人生は驚きの連続だ」とプリファブ・スプラウトのパディ・マクアルーンは語っているが、彼女とお会い出来るなんてことも考えていなかった。まだお会いして半年、相変わらず既読スルーにこれもまた忸怩たるものを感じているのだけれど、まあ LINE は貰ったメッセージに返信しなくてはならないという決まりはないので、鷹揚に構えるようにしている。

臨機応変」は「play it by ear」……ネットで手に入れた知識なのでネイティヴの方からどう聞こえるのか分からないが、学校のテストと違って間違っていても良いのである。「in」「at」「on」の使い分けなんて未だに分かっていない。そのあたりあやふやだったのだけれど良かったのかどうか。

まあ、恥を恐れていてはなにも出来ない。英語について書かれた本を幾ら読んでも意味がない。カンフーについて書かれた本だけを幾ら読んでもそれでジャッキー・チェンの粋に達しないのと同じようなものだ。日々の鍛錬がものを言う。なので英語学習用のサブ垢を作って、それを使って英語の勉強をしているところである。要は使うことだ。学ぶことではなく。

そんなお粗末な体たらくなのだが、ともあれ手伝いは出来たということで喜んでいる。ルーク・タニクリフの本を読んだりして勉強しているところなのだが――むろん、日々使っているつもりなのだけれど――長年の怠慢はやはり響いている。昔はポール・オースターの小説を読んでいたのだけれど、そんな気力も失くなってしまった。

ただ、そんなことを言っても居られないので今はジュンパ・ラヒリのエッセイ集と格闘しているところなのだけれど、上手く行くかどうか……まあ、ダメ元で(そんなに損はしないんだから)挑んでいるところである。彼女のことを思い出す……常にテキパキ、ハキハキと論理的に整理して行った彼女の姿を……。 

Interpreter of Maladies

Interpreter of Maladies

 

そのようにして英語を enpower する傍ら、マルセル・プルースト失われた時を求めて』の読書はすっかり止まってしまい、ではなにをしているかというと映画『愚行録』の鑑賞もさっぱり進まないので、ココ・シャネルの名言集を読んで励まされているところなのだった。

ココ・シャネルは働く女性が珍しかった時代に無学な身から独学でファッションを学びブランドを立ち上げた人なのだった。つまりイノヴェーターというわけだ。女性としての弱みを強みに変えるべくどう奮闘しているかが本書の名言集で語られている。例えばこうだ。

欠点は魅力のひとつになるのにみんな隠すことばかり考える。欠点はうまく使いこなせばいい。これさえうまくいけば、なんだって可能になる。

まあ、良くある処世訓の類と言ってしまえばそれまでだ。だが、発達障害であるという「欠点」を「使いこなせば」「なんだって可能になる」……そういう言葉に彼は惹かれたのだった。自分の欠点をどう活かすか? それを知るためには自分のトリセツを作らないといけない。面倒だけれどやってみようかと思っている。

ココ・シャネルの言葉は例えばスティーブ・ジョブズのそれにも似ている。もちろん編集者が大胆にカットしたからだと言われればそれまでだが、潔くシンプルで分かりやすく、なおかつこちらのツボを突く言葉に満ちている。女性向けの本を野郎が読んでいるというのも滑稽な風景だが、それはそれで味があるのではないかと思っている。 

ココ・シャネルの言葉 (だいわ文庫)

ココ・シャネルの言葉 (だいわ文庫)

 

Whatever / There She Goes #32

タイム・フライズ・・・1994-2009

タイム・フライズ・・・1994-2009

 

五年後はどのように生きているのだろう? 彼はそんなことを考える。五年後……去年まで、彼は彼女と会うなんてことを想像していなかった。彼女の母親ともお会いするなんてことも想像していなかった。プリファブ・スプラウトではないが、人生は驚きの連続だ。いつどのようなことがどのような形で起こるか分からない。これはまあミクロな話なのだけれど、マクロな話を取っても日本という国がどのように変化しているのか、さっぱり分からない。世界情勢がどのように変化しているのかさえも分からない。分からないことだらけだ。

はあちゅう氏の『「自分」を仕事にする生き方』を読んで、五年後も自分の人生において続けたいと思えるような仕事を探そう! と語られているのを読んで唸らされてしまった。彼はどちらかと言うと刹那的にしか物事を考えない。五年後自分がどうなっているかなんて考えてもしょうがないじゃないかと思ってしまう。五年前に自分がシェアハウスで独り立ちするなんてことが起こるなんて、夢にも思っていなかった。酒を止められることさえ出来るとも思っていなかった。ずっと飲んだくれで、カフカが亡くなった 41 歳という年齢で亡くなるのだと思ってばかり居た。

今もそれは変わっていない。今年の年末のことさえも分かっていないのに来年のことなんて、増してや五年後のことなんてどうなるのか予測不可能だと思う。もしかしたら――甘過ぎる見方だとは思うが――ライターとして腕を発揮出来ているのかもしれないし、今の職場で活躍出来ているのかもしれないし、彼女と仲が深まっているのかもしれない。だがそれは全てが巧く行ったらの話なので、そのあたりのことは分からない。父親や母親と死別している可能性も高い。今の内に巣立ちという形で親孝行出来ればと思っている。

堀江貴文氏の話はしただろうか? 『しくじり先生』という番組で、「過去にとらわれず、未来に怯えず、今を生きよ」と語っておられるのを聞いたのだった。「今」ベストなパフォーマンスが出せているか……仕事においてもそうだろうし、読書やオフの過ごし方についてもそうだろう。「今」をどのように生きるか……そんな風にしか物事を考えないので、五年後十年後のことなんて全く考えない。あるいは考えられない。病気や事故で取り返しのつかないダメージを負っていることだって考えられ得る。悩むだけ損ではないだろうか?

デヴィッド・フィンチャーベンジャミン・バトン 数奇な人生』の中で「なりたい自分になれば良い」という言葉が語られているのを記憶に刻みつけている。人生はこう生きなくてはならない、というルールはない。今やニートの方が本を書く時代。彼が拘っていた一日八時間勤務という常識は崩れつつある。彼の今のライフスタイルのままで生きて行ける道があるのだとしたら、それを探るのも悪くはない……そうして、「コネクト」して他の方に助けを貰って試行錯誤に乗り出し始めたところだ。先は長い。ワクワクする。『ショーシャンクの空に』のラスト・シーンのように。

断酒会に入って一年か二年した頃に、なにも考えておらずにただ散歩していた時にふと「あ、自分の人生って自由自在に生きられるじゃないか」と悟った――というのは大袈裟だし不正確だろうが、他の言い方が見つからないので――ことを思い出す。自分の力で、自分の意志次第で自由自在に道を切り開けるじゃないか……断酒会では壮絶な体験談を一杯聞いた。これはもう書いただろうか? 仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った、もっと酷い人は健康を失った……酒が脳に回って呂律が回らなくなった方が、必死に断酒してどう立ち直ろうとしているのか語っておられた。呂律が回ってなかったのでなにを語っているのか分からなかった。ただ、言葉を超えてビンビン伝わるものを感じた……人生腹を括れば立て直せる。その事実を噛み締めた。

逆に言えば自分の人生の主導権を他人に売り渡して、他人が示すがままに彼は大学を選び職場を選んだというわけだ。ロボットのように従順にハイハイと聞いていればそれで右肩上がりの人生を保証されていた……今はもちろんそんなことはない。自分の人生の手綱は自分で握らないといけない。それを骨身に沁みて感じている。だから、自分のあなりたいものになっても良いんだ、なんにでもなっても良いんだ……そういう、プレッシャーから開放された希望が沸き起こる人生を生きているように感じられる。もちろんお金はないけれど……。

これからの人生を決められるのは自分なんだ。そう思い、昔なら彼女にアプローチするなんて出来なかっただろうけれど、彼は思い切ってしてみた、それがどう出たのか彼には分からない。世の中がどう変わろうとも、「私が」その現実をサヴァイヴして行く覚悟は常に必要なのだろう。そう思い気を引き締めたところだ。オアシスの「Whatever」という曲を思い出す。「I'm free to be whatever I / Whatever I choose ./ And I'll sing the blues if I want」。そう、選ぼうと思えばなんにだってなれるのだ。そこに希望を託したいなと思う。『ショーシャンクの空に』を観直すべきだろうか?