There She Goes

小説(?)

ヒマの過ごし方 / Take On Me #8

WILD FANCY ALLIANCE

WILD FANCY ALLIANCE

 

こう言ったほうがいいのでしょうか。わたしは生活のうちに何もしないですごす時間を設けることができないのです。暇な時間はいわずもがな。友人を除いては、わたしの生活は仕事か、うっとうしい怠惰でいっぱいです。(ロラン・バルト『声のきめ』p.490)

疲れているのを感じる。45歳だ。もう、眠ったら疲労が自然に取れていく年齢ではないだろう。これから――チャック・パラニュークを思い出そう――若くなるということは絶対にあり得ない。年老いていくだけ。脳が働くのはあとどれくらい? 足腰が動くのはどれくらい? 君は京都に通っていた時のことを思い出す。自助グループのリーダーに「これから、どんどんいろんなことができなくなっていくんだよ」と言われたことを思い出す。年老いることに絶望しか感じられなかった――。

しかし、ともあれ今君は生きている。今日はオフ。なにもやることなんてない。また服を洗濯して、日記を書いてロラン・バルトを読んで、そして過ごす。大いなる倦怠感。誰とも話さないで部屋の中でひとりウィトゲンシュタインを読んでいると、それこそ気が狂うのではないかと思い、そして外に出るも話し相手なんて居ないので、手詰まり……この街に帰ってきた時、君は外に出るのが怖かったのを思い出す。外に出れば、学校を卒業してだいぶ経っているにも関わらずかつてのいじめっ子と会うかもしれないと、そう思って……。

そして、スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』を聴く。なにもやることがない、という状況を積極的に引き受けるための BGM だ。新しいヒップホップに馴染めない君は、未だにスチャダラパーやア・トライブ・コールド・クエスト、アレステッド・ディベロップメントデ・ラ・ソウルを聴き続ける。所詮、人生なんて気晴らし。気晴らしをその場しのぎで続けているうちに、人生は呆気なく終わる。それもひとつの生き方ではないだろうか? 藤沢周を読んでみようか……君という感覚受容器は、今日も刺激を求めて街を彷徨する。

LINE で人と話す。WhatsApp で英語でチャット……他人を、自分だけで完結しがちな現実の中に取り入れること。それが君を正気でこの世界に繋ぎ留める手段のひとつだ。自分のことは自分が一番よくわかっている。だから、自分ひとりで居るのは心地よい。どんなことも予定調和的に進むから。でも、人が自分の中に入り込んでくると予測がつかない事態が起きる。その「予測がつかない事態」を楽しむことを彼は目指す。不意にやってくる来客や電話で自分の思考が中断されることを、君はポジティブに捉えようとする。

なにもできない。なにもやることなんてない。なにも、自分の思い通りにならない……君は結局アルファブロガーでもなければアルファツイッタラーでもない。君の現実に及ぼす影響力は、微々たるもの。仕事では上司にガミガミ言われて、私生活では相変わらず読書ばかりで、一体こんな日々を過ごすために生まれてきたのかと徒労感を感じる。でも、無力感はそれ自体心地よいとも言える。「僕はいつまでも何もできないだろう」(フィッシュマンズ「IN THE FLIGHT」)。なにもできない無能な人間でいることが、諦めに身を任せることが心地よいとも思って……。

慎ましく、平穏に、怒りに身を任せるでもなくなんでもなく、まったりと。そんな人生を求めて生きてきたわけではないが、ただ流されるままに生きていたらこうなっていた。仕事も辞めたいと思わないでもないけれど、辞めてやることもないので続けている。君は自分の商品陳列が日本一かもしれないと考えるときもある。それは流石に褒めすぎだが、自分の仕事がだんだん好きになり始めたのを感じる。ナルシスト? そうかもしれない。でも、自分のことを自分が好きになってどこが悪いのだろう? それが自分に自信を持つということではないのか?

スチャダラパーを聴き、マイルドなグルーヴに身を任せながらこの小説を書いて過ごす。心臓はまだ止まりそうにない。今日もよっぽどのことがない限り、君は生きるのだろう。コロナウイルスの騒ぎが巷で話題になっているが、君は体調が悪くなった自覚はない。むしろそんな君が感染源となって他の人に感染させていないかと心配になる。志村けんコロナウイルスで逝った。あれだけのことをなし遂げた人でも、逝く。その事実が君を憂鬱にさせる。でも、彼は記憶の中で生き続ける――。

書くことだ、と君は思う。書いて、生きた証を刻みつけて、言葉を撒き散らすこと。誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。だが、残しておけばそれは必ず無駄にはならない。そうだ。この小説を書き終えたらひとしきりスチャダラパーを聴いて、午後は『オネアミスの翼』でも観ようか……生きる意味を見失った時に観てしまう、良質のアニメだ。そんな時間も人生には必要なのかもしれない、と思う。

Born Slippy / Take On Me #7

three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった
 

そして、君は今日もロラン・バルトを読み続ける。『テクストの出口』を――。

《残された時間が少ない》、明確でなくとも、不可逆的な秒読みが始まる時が来るものです(これこそ意識の問題です)。人は自分が死ぬものであることを知っていました(人の話が聞けるようになった時から、そう教え込まれてきました)。それが、突然、自分が死ぬものであると感ずるのです(これは自然な感情ではありません。自然なのは自分が死なないと思うことです。だから、不注意による事故が沢山起こるのです)。この明白な真理が実感されると、世界の光景が一変します。(p.126)

あくびが出てしまう。春だ。外は陽光に照らされて、しんと静まり返っている。とろけそうな春の朝……物心ついた時から、君はずっとこの眠気と戦ってきたように思う。倦怠感、疲労感、徒労感……どうとでも呼べるものなのだけれど、その眠さが君をシニカルにさせる。「がんばったってだめだって/努力をするだけむだだって」(電気グルーヴ「スネークフィンガー」)……だから、君は本気になってなにかをやったことがない。いや、本気とはどういうものなのかもわからない。ただ、流されるままになにかをやって、しくじったり裏切られたりした。それだけ……。

フリッパーズ・ギターの『海へ行くつもりじゃなかった』を聴きながら、コロナウイルスの騒ぎで静かに滅んでいく世界を見つめ直す。そうだ。どうせなら三島由紀夫の『豊饒の海』を読み返してみるのはどうだろうか。紛うことなきラノベのようなあの長大な小説……こんな退屈を乗り越えるためには、あの『豊饒の海』の退屈さに浸り直すしかないのかもしれない。毒をもって毒を制す。いや、中上健次全集や大江健三郎の作品を読み返すのもいいだろう。森敦はどうだ? もしくは古井由吉

それにしても、どうしてこんなに眠いのだろう。換気のために窓を開けて、外のひんやりした空気に触れて……君にはもう、将来の夢も希望もない。気がついたら45歳。これからどれだけ生きられるかわからないが、与えられた仕事をこなして生きるだけ。目の前に現れた本を芋蔓式に読み、自分の哲学を太らせていくだけ。それしかできなかった。なんだか失意の連続だったような気もする。迷いに迷い、生きづらい中を必死に生きた。ロラン・バルトを読んでいて、そうか倦怠感も書くための材料ないしは動機になるのか、と励まされる……。

そして、死ぬ。

君は思い出す逸話がある。看護婦が、死を待つ末期の患者たちを世話している。世話は献身的に行われる。だが、その患者たちはいずれ死ぬ。死ぬのだけれど、生きていること自体は尊いこと。だから、生きられるように手を尽くすことが彼女の役目だ。だけど、ある日その看護婦が生命維持装置のスイッチを切ってしまう。順番に。それは、彼女の中の感情が遂に干からびてしまったから。それこそ「終わりなき日常」が続き、そんな中でも人が死んでいく、そんな繰り返しに耐えられなくて心の潤いが枯れきってしまったから。

その看護婦を人でなしと言い放つのはたやすい。だが、これは笑うに笑えない問題ではないかと思う。君も、やることなんてなにもない空白の人生を生きている。生きている以上は生きなければならない。夏目漱石坂口安吾も、そう言っている。ニーチェだって同じことを言っただろう。生の意志が吹き出て溢れ出てくるからには、生きなくてはならない……と。もっとエレガントな口ぶりでだろうと思うのだけれど、ともあれそう言うはずだ。君も、自殺はしない。そして今を、未来に繋げるべく生きる。だけれども、時々「ここで死んでもいいんじゃないか」と思う。一方で、「ここで死んだらなんのための人生だったんだろうな」と思う。

死をめぐって、ぐるぐると思考はめぐる。心の潤いが枯れてしまい、己の死に対してさえも無感動になってしまって……それが生きづらさを生むのだとしたら、生きているという実感をどうやって取り戻せばいいのだろう。わからない。ただ、君はその倦怠感から逃げないことを選ぶだけ。バルトという偉大な先駆者に倣って、逃げずにその倦怠感を書くことの根拠に据えて書くだけだ……彼女はどうしているのだろう。またWeChatで話しかけてみようか。彼女の笑顔を見たい。自分だけで完結しているわけではない。君の世界は他者との関わりによっても成り立っている。それが君をこの世に繋ぎ止める原因になっている。

 

そして、丹生谷貴志を読みたいと思う。実家に本があるはずだ。あるいは図書館で借りればいい。もしくはフェルナンド・ペソア『不安の書』を読み返すか、タブッキの散文に触れるか……不安が、倦怠が、そんなだらしないモチーフこそがマッチョな書き手(ヘミングウェイ石原慎太郎のような?)の作風とは似ても似つかない、繊細で上品な作品を生み出しうることを君は知っている。こんな晴れた日の午後は、仕事もそこそこにそういう作品を読んで、そして過ごそう……。

ダンデライオン / Take On Me #6

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

 

子どものころ、しばしば、そしてひどく、倦怠を感じていた。それは非常に早い時期にはっきりとはじまり、生涯をつうじて間欠的につづき(仕事と友人たちのおかげでだんだんと少なくなったことは事実だが)、いつも外から見てわかってしまうのだった。突然に襲ってくる倦怠であり、苦悩にまでなってしまうのだ。シンポジウム、講演、知らない人とすごす夕べ、集団での遊びなど、倦怠が〈外から見えてしまうかもしれない〉場所のどこででも感じてしまう。ということは、倦怠はわたしのヒステリーなのだろうか。(『ロラン・バルト自身によるロラン・バルト』p.28)

ただ、心地よいこと、気持ちいいことに忠実に生きている。それだけのことだ。君は……本を読むのも、それが気持ちいいと思うから。そうするのが自然だから。甘いものに惹かれてそれを舐めたくなるように、芳しい花の香りを感じたくなるように、温かい陽の光を浴びたくなるように、ずっと君はそればかり繰り返してきた。苦悩を感じた時はドストエフスキーを読んだし、あるいはそれ以上に汗ばむ手でカミュの『異邦人』や『ペスト』を読んだ。あるいは、リルケ『マルテの手記』を20回は読み通した etc...

ふと放った吐息がコーヒーの香りと、粘つくような口臭を匂わせた。君は、口が臭いと言って笑われた過去を思い出す。子どもの頃の話……子どもたちは残酷だ。子どものころから、君は疲れていたように思う。どこへいっても違和感だらけ。学校ではそうやって口が臭いとか太っているとか、鼻の穴が大きいとかいってはいじめられた。変だと……家では母親がしきりに話しかけてくるのでひとりにしておいて欲しくて、自室で佐野元春ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』ばかり聴いていた。どこにも、居場所なんてなかった……。

そして、45歳になった君はRhyeの甘美なソウル・ミュージックに触れながらロラン・バルトを読んでいる。これも、君にとっては心地よいことを探した結果。そこに意味なんてなくてもいいじゃないか、と思う。この心地よさこそが全てだ。酒に溺れたのも、君にとってそれが心地よかったから。酒を止めたのも、それが君にとって心地よいから。それだけのこと。寒くなればコートを着たくなるのと同じくらい、当たり前のことなのだ。コロナウイルスの騒ぎさえなければ、花見に出かけるのだけれど……。

倦怠が、無意味に過ぎていく日々が、宮台真司が言う「終わりなき日常」が……それが偉大な芸術作品に繋がるという事実を、例えば君はフェルナンド・ペソア『不安の書』を読んで知っているはず。彼は戦争や恋愛をモチーフにしたりしなかった。日常を生きる不安や戸惑いをこそ一冊の本にまとめたのだった。君も、小説家になりたいと思って頑張った。恋愛小説を書こうとした。恋愛なんてしたこともないくせに……なぜ、恋愛について書こうとしたのだろう? 世間に流通している小説に似せようと、君は虚しい努力を重ねた……。

そして、君はようやく分かったのだと思う。君は、ありのままの君を書けばいいのだと。ありのままの君……それは、恋もできないしいつも自分は他人に(取り分け女性に)嫌われているのではないかと不安に怯えている、なのに女性から好かれて当惑してしまう君の揺れ動く心理とそれが生み出す日常について書くことを意味する。「まるで僕達はタンポポの胞子 戯れてるだけ空の下で」(ブランキー・ジェット・シティダンデライオン」)……それが心地よいから、そうすることしかできないから。それが君の小説なのだ。そう思って君は書く。

「われわれの偉大で光栄ある傑作とは、ふさわしく生きることである」とモンテーニュが書いているのを思い出す。「ふさわしく生きる」……口が臭い、太っている、鼻の穴が大きい……君は、まだまだ君にまつわる劣等感を挙げることができる。貧乏、背が低い、足が短い、運動ができない、車を運転できない、極度の近視だからメガネをかけている、等など……そんな自分自身、笑われるより他はない自分自身を引っさげたまま、君は生きる。『グレイテスト・ショーマン』のフリークスたちが自分自身を陽の光の下に自分たちを晒したように、君は生きる!

今日は君はオフ。ロラン・バルト『喪の日記』を借りようか。スタンダールバルザックといった、まだ読んだことがない作家の本を読むのも悪くないだろう。いや、ここはシブく岩波文庫青背で決めたい。レーヴィットに挑んでみようか。ネルヴァルを読むのもいいだろう。いや、フローベールプルーストを読むのもいい。ジュリアン・グラックにしようか……誰も追いつけない欲望。君の中で膨れ上がり、広がり続ける活字や音楽、さらなる快感を求める欲望。その欲望のために生きてきた。そんな45年間だった。欲望が、君をドライヴさせる。そして、一日が過ぎていく。

人生、計画性なんてない。ただ、この一日の積み重ね。ここまで来たのだって奇蹟みたいなものなのだから!

ぼくは大人になった / Take On Me #5

Sweet 16

Sweet 16

  • アーティスト:佐野 元春
  • 発売日: 2016/03/23
  • メディア: CD
 

スポットメーターであたりを測光しつつゆるやかに歩を運んでいる人間の視線、ipseを欠いた唯我論者の視線――それは、きっと、遺棄された子供のまなざしなのではないかと思う。不意に両親の姿を見失ってしまった幼児は、たぶんこんなふうに世界を見つめるものなのだ。それまでは堅固で安定した絆によって世界と自分とを結びつけてくれていた庇護者の存在が、自分の傍らからふとかき消えてしまい、そのことの途惑いがいつまでたってもいっこうに解消せず、世界との媒介者の不在にどうしても慣れることができぬまま、当惑とたじろぎを日々更新しつづけている幼児の瞳に映るものが、光なのである。(松浦寿輝『青天有月』p.110)

それは、突然に終わった。昨日まで――いやその日の朝までと言ってもいいだろうが――君をずっといじめ続けていた同級生たち、君のことを嘲笑し続けていたクラスメイトたちが、卒業式になるとなにもなかったかのようにしおらしく制服に身を包んで、卒業証書を持った筒を持って去っていってしまった。彼からはなにも言えず、彼らからもなにも言われず……それから、どれくらい日々が経っただろう。君はまだあの学校の中に閉じ込められたかのように、当時のことに苦しめられている。

君はグループホームで朝を迎える。昨日も仕事だった。君はあまりにもクラスメイトにボロクソに言われて嫌われて笑われ続けてきたせいで、未だに自分の部屋に盗聴器が仕掛けられていたり、隣の部屋にいる住人が君のことを笑っているのではないかと考える妄想を振り捨てることができない。君がそこにいるというそれだけのことが、許されていない……もちろんそれは妄想だ。君のことなんて誰も覚えていないだろう。だけど、君は覚えている。あの日々のことを……。

自分のそばにいてくれた庇護者のこと……学校に通い続けていた時に君を支えてくれたものは、結局本と音楽だった。読書と音楽鑑賞だけが自分と世界を繋ぎ止めてくれる手段だった。クラスメイトが読まないだろう本を読み、聞かないだろう音楽を聞いた。いつか東京に行こう、いつか自分のことをわかってくれる人に会おう、世界にはきっと自分をわかってくれる人がいる。そう信じて……そう信じて、ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』を読んだ。

……そして、いじめが終わった。君は今でも鏡を見ることができない。そこに立っているのは45歳のとても醜いブサイクな男だから……出会う人は「そんなことないよ」と言うのだけれど、鏡の前にいる男を君は愛することができない。見つめることさえできない。髭を剃る時は手鏡で剃ることにしている。やれやれ、いじめに耐えて、苦境を乗り越えたらいいことがあるかと思っていたけれど、結局こんな置き土産を残された状態でいいことなんてないじゃないか……。

桜の花が咲く季節だ。君はFacebookで知り合った年上の友だちから送られた桜の写真を見る。そんな季節だ……この桜を見られるのはあと何度なのだろう。大嫌いな花だった。というより、春自体が嫌いな季節なのだ。この季節になると進級あるいは進学して、新しい環境でいじめから離れてやり直せると思って、できない。なのに、否応なく進級あるいは進学しないといけない。心の成長と身体の成長は必ずしも一致しないのに、身体が歳を取ったというだけで進級/進学しなければいけなくなる。心はどうしたらいい?

心において、心的年齢は君の場合まだ若いと思っている。それこそ、心における君は未だに高校時代を彷徨っているかのようだ。今でも当時のことを、思い出したくないのだけれど、思い出す……でも身体は成長し老化する。両者のズレが開きすぎて、未だに君は高校時代を生きているくたびれた45歳の男であるように感じられる。大人にならなければ……しかし、大人になるとはどういうことなのだろうか?

わからない。君は、自分の人生がどうなるのか予想もつかない。このまま50になり、60になる……そうなのだろうか。人生の持ち時間はゼロに近づいている。それでも、と君は思う。よくやった人生だったような気もする。オーディションには合格しなかったけれど、よくやった人生だった、と。だから、君は人生に後悔をしない。そもそも夢見たことは全部裏切られたのだから、後悔のしようもなかったのだ。友だちを作りたい、恋をしたい、云々。

君は自分の人生を人と比べるのは止めようと考えている。三島は45歳で『豊饒の海』を残して去っていった。あれこそ永遠回帰を描いたような作品だった……しかし、それと引き換えに命を失ったのだ。君の45歳はどうやらそんな45歳ではないようだ。こんな人生、なんの意味があるのかと溜め息をつく。でも、生きている。生きている以上は、目の前に現れる人々や物に対して誠実でありたい。出会う人に親切にして、丁寧に商品を扱って。それで、明日に繋げていこう。君がいないかもしれない明日に繋げていこう、と君は思う。

うわのそら / Take On Me #4

シングル・マン+4

シングル・マン+4

 

放心することの幸福、「上の空」になること、空を仰ぐこと。天空を見つめること、雲の動きに心を奪われ、額に吹きつけてくる湿った風に雨の接近の匂いを嗅ぎ、遠い雷鳴にあれこれの土地や時間の記憶を辿り、凍りつくような夜気を透して見える星の瞬きにアンモナイト三葉虫の時代を想うこと。天空を見上げよ。空に向かって自分を投げよ。もしこの世に人を幸福にするものがあるとしたら、それは空だけではないか。(松浦寿輝『青天有月』p.229)

君は、自分は幸せだった、と思う。なんにせよとても辛い人生だった。いじめに遭い、同級生はおろか大人たちをも信じられない少年時代を過ごした。そして大学時代はそんな人間不信が祟って、せっかく友だちを作る機会があっても君の方から無下にしてしまった。就職で失敗して故郷に戻ってきてからも、会社でもうまく行かず……自殺未遂をして、生きる希望を失ったまま酒に溺れた。そして40代が始まった。君はもう、この人生いいことなんてなにもないと諦めていたのだった。だけれども、君はむしろ40代からワンダフルな人生の醍醐味を体験することになる。恋をした。友だちを作った。発達障害について知るきっかけを得て、人生が好転した etc...

閑話休題松浦寿輝の『青天有月』というエッセイ集をパラパラと読んでいたら、ロラン・バルトについて書かれた文章が目を引いた。「人は自分の欲望によって書く、そして私はまだ欲望しおえてはいないのだ」……とロラン・バルトは書いていた、と書かれている。『彼自身によるロラン・バルト』、を読んでみなくては。だが、ここで書かれている「自分の欲望」とはなんなのだろう。それは結局、君がただ単に好きだから書き続けるというその気持ちのことではないだろうか。好きだから、書き続ける……君の中から煮えたぎるもの、吹きこぼれるものがあり、それに急かされて書き続ける。

……そして、書いていて、君は「上の空」になる。これは確かなことだろう、と思う。ロクでもない人間だ。君は……汚い人間だ。毛深いし、背は低いし小太りだし、精神的にも怠惰で無気力で、鈍いし優柔不断だし(一部の人はそれを君の「優しさ」だと思うようだが)、どうしようもない中年男……君はそれをわかっているし、わかっているから自分でもこんな風にしか生きられないことを恥ずかしく思う。What else should I be? All apologies... そんな醜い自分自身から逃げる唯一の術が、おそらくは書くことなのだと。

「もしこの世に人を幸福にするものがあるとしたら、それは空だけではないか」。この一節に触れて、君は空を見上げてみる。グループホームから見える空。今日も仕事だ……空が人を幸せにするというのは、空が君を超えたところに存在しているから。空は君を超えて、君を幸せにしてくれるから。「この空だけがいつだって味方だったんだ」(フィッシュマンズ「すばらしくてNICE CHOICE」)。「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである」と大森荘蔵も語っている。世界の中に喜びや悲しみをもたらす素材はある……花の美しさが単に自分の心を越えて、咲いている花それ自体に属するように。咲いている花の崇高さは君という狭い心を超えて、花の中に確かなものとしてあるように。

君は毎日、自分が死んでしまうかもしれない、と考える癖がついてしまった。「たぶん、真の――このプラトン主義的な形容詞を用いることを恐れるまい――エクリチュールとは、『人生の半ば』を過ぎてからしか始まらないエクリチュール、すなわちそこには絶えず死の影が落ちているといった、そんなエクリチュールのことなのだ」(『青天有月』p.224)。「死の影」に急かされながら、君は書く。「人生の半ば」……君は45歳。ここが「半ば」なのか、もちろん君はわからない。未来のことなんて、誰にもわからない……。

君は、ともあれ沢山の本を読んだ。ロラン・バルトの本も『恋愛のディスクール』を読んだはずだ。また読み返してみようか……バルトから学んだことがあるとすれば(いや、優れた哲学書から学んだことがあるとすれば)、それは結局変態であること、かもしれない。変態であること、いびつな欲望を抱えた自分自身を肯定すること。なぜなら否定すればするほど、できあいの基準に自分を寄り添わせようとすればするほど、自分の中のいびつさが邪魔をして中途半端で終わってしまう、そういう宿命の下に生まれたのだから。

書きたいように書く……それを君は今日も実践する。そして、ここに記された文章を書く。それが優れたものなのか、君にはわからない。君は全然自分のことがわからない。ずっと、わからないけれど女性から嫌われてきた。今は女性から好かれる。少なくとも、憧れの女性からは好かれていることを感じているようだ。でも、どうして? なぜ、君は好かれるのだろう。わからない……なぜ子どもの頃あんなにも嫌われ続けたのかわからないように。

心に棘を持つ少年 / Take On Me #3

Parklife

Parklife

  • アーティスト:Blur
  • 発売日: 2000/09/20
  • メディア: CD
 

私たちは、おのれの官能とそれを信ずることに固執し――そしてこの官能を最後まで思索しぬきたいと思う! これまでの哲学の反官能性は人間のおかした最大の不合理にほかならない。(ニーチェ『権力への意志 下巻』p.520)

ニーチェの『権力への意志』を読み終えた君は、パラパラと読み返してこの箇所に目を留める。「おのれの官能」……肉体のことだろうか。この肉体が、誰かを欲するという欲望。それを捨ててしまったことが「人間のおかした最大の不合理」であり、この肉体に戻って考えを深めるということ。ニーチェは肉体の有利さにも言及していた哲学者なのだった。が……。

難しく考える必要はない。君は、自分の肉体的欲望のことを考える。性の目覚め……あれはいつのことだっただろうか。初めて女の子とそっと手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか思ったのはいつだっただろう? 覚えていない。思い出せないけれど、それはきっと記憶を抑圧したからだろうか。

君はずっと女の子から嫌われて育ってきた。どうしてなのか、君にはわからない。だけれども、君は(もちろん、男の子からも好かれて育ったわけではないのだけれど)女の子から毛虫でも見るような眼で見られ、そんな扱いをされた。だから、君は諦めた。女の子と親しく話すことを。つき合う? とんでもない。どうやって?

だから、君は「官能」を押し殺して生きてきたわけだ。もう一生、エッチなことなんてできない。いや、この言葉は失礼であるだろう。女の子とエッチなことを目的につき合うなんて、不純過ぎる。相手の人格を尊重してつき合うのが筋というものだ。だけれども、君の内側から湧き上がる性欲はどうしたらいいのだろう? 誰も教えてくれない。誰に聞いたらよかったのだろう?

エッチなことを考えて……君が初めて自分の性欲の処理を覚えたのは中学生の頃のことだった。それまで、君は夢精をしたり女性に対して沸き起こってしまう性欲を位置づけられなかったりして、大変な日々を過ごしたことを覚えている。なぜ自分の股間にある性器はいうことを聞いてくれないのだろう? なぜこのペニスは自分の意志に反して勃起するのだろう? etc...

性欲の方が、君にとっては初恋の記憶よりも先に来たのかもしれない。だからなのか、君は性欲をぶつけることと恋のことを分けることができなかった。恋なんて、結局性欲の一形態でしかないのではないか、と思ったのだ。Confusion Is Sex...

いや、ひとり初恋だったのかもしれないという女の子のことを覚えている。その子とは結局なにもなかったのだけれど、とても賢い子で運動もできて……君とは大違いだった。君はその子のことを好きだった、のだろうか? でも、それを恋だと教えてくれる人、導いてくれる人がいなかった。言うなれば「キャッチャー・イン・ザ・ライ」みたいな人がいなかったわけだ。それが、君を苦しくさせた。

君は早熟な男の子だったのかもしれない。だから、大人びた感情と子どもじみた肉体の欲望の前にずっと引き裂かれていたのかもしれなかった。女の子は大事にしないといけないという気持ちと、女の子からは受け容れられたい/認められたいという気持ち。このふたつの前で君はずっとつまずいてしまっていた。無条件の愛情を女の子から得たいという気持ちはしかし、浅はかではないだろうか。女の子はママではないのだから。

大事な女の子。いたわってあげなくてはいけない女の子。だけれども、こちらが譲歩すればするほど、その女の子からは忌み嫌われるという末路にたどり着く。やれやれ、君の異性に対する価値観が歪んでしまっても無理はないというものだ。自分を忌み嫌う存在に奉仕する……最高にマゾヒスティックな図式ではないだろうか?

 

彼女のことをふと考える。彼女もまた、君にとってはこの結論を敷衍すれば「女王様」みたいな人だ。エッチの話ではない。君は、彼女に決めてもらいたいと思っている。大体のことを。これから君と彼女がどうなるのか、彼女が君を選ぶのか否かということが――。

君から主導権を握ろうとしたことはあっただろうか? 君はずっと、人生に関しても主導権を握ったことはなかったのかもしれなかった。大学は早稲田大学第一文学部というところに入ったけれど、これは本当になんとなく記念受験のつもりで受けたものが受かったから行っただけだ。今の会社に入ったのも成り行き。だから、主導権を握ったことなんて一度もない。

なにもかも成り行き……内田樹の『そのうちなんとかなるだろう』という本を読み、そういう流される生き方も悪くないと思うようになった。君と彼女がどうなるのか、君には分からない。そういう時はニーチェに戻ろう。ニーチェは相変わらず女性のことをボロクソに言うが、それはまあご愛嬌と割り切って――Always should be someone you really love... 今日も仕事だ!

I'm Not In Love / Take On Me #2

THE BEST - Baby Baby Baby xxx

THE BEST - Baby Baby Baby xxx

  • アーティスト:CHARA
  • 発売日: 1995/10/10
  • メディア: CD
 

とどのつまり俺なんて、生まれてこなければよかったんだ――。

君は春になるといつも自殺したくなるのを感じている。実際、君みたいな人間にとって春というのは厄介な季節だ。ピカソだっただろうか? 飛び降りたくなるのを自分の右手で必死に制しているような状態、と語っていた。春。カート・コバーンもhideもこの季節に自殺したのを覚えている。君が自殺未遂したのはいつのことだったか。

生まれてこなければよかった。でも、生きている。ということは、俺の人生は間違いだった。ここに存在していることも、ここに生まれてきたことも、これから死ぬことも、全てひっくるめて間違いだ。なぜだろう? それは、俺が俺だからだ。だというのであれば、死ねばいい。でも、死ねない。なら、ここにいるのが俺だということを忘れさせてくれるものが欲しい――そう思って、酒に溺れて本を読み漁ってきたのではなかっただろうか。

何度でも書く。恋愛は、自明なものではない。恋愛にまつわる様式も、恋愛の美学も、恋愛が素晴らしいという価値観も、全て人間があとからでっち上げたものだ。人間が恋愛というフィクション/イメージを必要としたから作り上げられたものであって、昨今の恋愛至上主義なんてものも全てはバカげている。だから、恋愛ないしは恋愛至上主義に染まれない自分は正しいのだ。そう思おうとした。

それは半ばまではうまくいったように思った。君は、キスもしたことがない。手を繋いだことはある。学校でのフォークダンスの時間(あの、相手の女の子の嫌そうな表情!)。でも、それ以上の関係はない。求めたこともないように思う。求めなければ、拒絶もされない。裏切られたと思う気持ちが生まれるとしたら、それは期待していたからだ。女性に対してなんの期待もしなければ、裏切られたと思うこともないだろう。

この理屈を敷衍させると、生まれてきたことを悔いる気持ち、生まれてきたことそれ自体を恥じる気持ちは、人生に対してなにかを期待しているから生じるものなのだ。なにを? それは有り体に言えば、「人並みの幸せ」なのかもしれない。人並みに恋をして、結婚をして、家族を築いて、マイホームを建てて……そんな幸せ、君はとうの昔に諦めていた。子どもの頃から君は、普通の人間にはなれないと思っていたのだった。将来、自分は頭がおかしくなって、そして死ぬんだ……。

恋を諦めて、幸せを諦めて……そして生きることも諦めていた。V・E・フランクルという医師の講演録を読んだことがある。フランクルアウシュヴィッツでの壮絶な体験に基づいた書物である『夜と霧』を書いた人だったが、彼はこう言っている。君が人生になにを求めるか、ではない。人生が君になにを求めるかを考えるんだ。そう語っている。これは確かに勇気づけられる生き方だろう。自分を人生が取り巻いていて、支えてくれている、抱擁していると説いているのだから。

しかし、だというのだとしたら人生は君に対してなぜこんなにも厳しい仕打ちをしないといけなかったのだろう? いや不幸の程度は測れない。アウシュヴィッツでの壮絶な体験は確かに筆舌に尽くし難い不幸だけれど、君が感じた不幸は君だけのものだ。それを比べてどうこう言ったりできない。だが、だとしたらなぜ人生は君「だけ」に君「だけ」が体験しなければならない不幸を課したのだろう? 良かれ悪しかれ、君は君の不幸の中で考え抜いた。君は若きフランツ・カフカであり、ウィトゲンシュタインだった。

 

……ここまで書いて、君はふと野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考」を読む』をパラパラとめくってみたくなる。そして、次のような一節を見つける。

世界の事実を事実ありのままに受けとる純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。(p.305)

難しいことは書かれていない。なんなら人生論的に読んだっていいだろう(人生を肯定してくれない哲学を、短い人生を費やして読む必要なんてあるわけがないのだから)。生きる意志があれば、その意志を煮えたぎらせてくれるものがあれば、「善き生であり、幸福な世界」は実現できる。そして、その「力」は「美」によって生まれるものである。

……「美」。君は不幸な人生を送ったかもしれない。しかし、その人生で人一倍「美」に触れて生きてきたのだった。例えば、今聞いている新居昭乃の曲。さっきまで聴いていたCHARAの曲。今引用した野矢茂樹の本も「美」に満ちた本だ。

彼女もまた、「美」だった。君の人生に潤いをもたらしてくれるような、そんな……。