There She Goes

小説(?)

スターゲイザー / There She Goes #25

Dream A Garden [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC460)

Dream A Garden [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC460)

 

自分がどうなりたいのか分からない……それが発達障害者の中でも取り分け受動型と呼ばれる人間の特徴である。彼はそれに該当する。彼は自分が空虚に出来ていることを感じる。彼の身体/脳を構成しているのは他人の言葉である。彼は彼に向けられた自己評価を彼自身の自己紹介にしている。逆に言えば彼は彼を語る如何なるオリジナルな言葉も存在しない。彼自身から生まれた言葉はない。ジャック・ラカンの概念を使えば人間の無意識は言語に依って構成されているというが、そこにもうひと言つけ加えるべきだったのかもしれない。彼の無意識は他人の言語に依って構成されている、と。

今日彼女と会うことが出来た。二ヶ月この機会を待った。二ヶ月の間考えていたことを語った。彼は情動に任せて動く人間なので論理で物事を考えない。情動が、ワケの分からないものが彼を動かす。その意味では彼はフランツ・カフカに似ているのかもしれない。カフカはしかし偉大なユーモリストであったけれども、彼自身はどうだろう。彼はユーモアはあるだろうか。分からない。ただ、彼は自分を見つめてこのように観察して描くだけだ。それがなにかを生むというのであればそれで良いし、そうでなくても構わない。

彼女に告白して、彼女の返事を聞き出そうとした。返事は聞けなかった。彼女は恋愛を論理で考える人間なので、いきなり彼の言葉、情動から出て来た言葉を聞いてもワケが分からなかっただろう。ひとまず彼は自分の持てる知識を総動員して言葉を並べた。彼女はざっくり言えば理系の人間、科学的にアプローチをする人間なので文系の彼、情動からワケの分からないままに突き動かされるがままに動く彼を理解することは難しかったに違いない。観て来た映画や聴いて来た音楽、読んだ本について、乏しい知識を全て並べた。

初対面に近い彼はこのようにして醜態を晒した……と書くと、このような自虐を彼女はどう思うだろう。彼は自分の自己評価を低く見積もっている。彼は自分がなんらかの意味で「通」であったこと、「マニア」であったことはなかったと思う。これからもないだろう。彼は結局白鳥になれない醜いアヒルなのだ……と書いてしまうのが彼の悪癖だ。普通なら恋する(?)相手に対して自分を高く売り込むものなのだろう。それが出来ないのだった。それで良いじゃないか……彼女ならそう言うかもしれない。そういう人が居ても良い……。

頭木弘樹カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んだことを思い出す。カフカもまた恋人に対して自分を低く売り込んで、そのくせ積極的にいきなり近く自分をアプローチさせた人間だったのだ。そこでシンパシーを感じる。読み返してみようかと思う。あるいは、今の彼はまた新しい形で苦悩を抱えているのだからドストエフスキーが身に沁みるかもしれない。ドストエフスキーは『罪と罰』を読んだ。『白痴』を読んでみようか……ドストエフスキーの『罪と罰』で狂った情動に突き動かされる男たち(それに反して、ソーニャのなんと清らかなことか!)の姿を思い出す。

自分のことを彼は結果としてボロクソに言ってしまい、なにもそこまでと彼女に呆れられたのだったが、ともあれ彼は成功したのかもしれなかった。最後に彼は、彼女のことをSではないかと睨んだ。残酷に容赦なくしかし優しく(いや、残酷さと優しさは両立するものかもしれないが)彼女が放つ言葉が胸に突き刺さったのだった。だったら、生きた時から苦行を背負わされてそれを快楽に変換させることで生き延びて来た彼にとって相性は合うのではないかとも思ったのだった。それを話すと彼女は崩れ落ちて笑った。言って良かった言葉なのかどうか……ともあれ彼は言ったのだ。

シェアハウスの新しいパソコンで彼はこの文章を書いている。火花が散るような、刃と刃がぶつかり合うような会話のあとに彼は放心状態になってしまった。なにも手につかず、本来ならひと眠りしたら良いのかもしれないくらいに脳が疲れてしまった状態で Jam City 『Dream A Garden』を聴いている。やったことと言えば Twitter でタイムラインを眺めたことくらいだった。国政が動く選挙の話題で賑やかなタイムライン。だが、彼は選挙がいつ行われるのか知らない。彼の知識なんてそんなものだ。威張れたものではない。

結局彼はその会話のあと放心状態になったまま近所のスーパーで夜食を買った。そしてそれを食べた。そして今に至る……彼が晒した醜態を彼女はどう思うだろう。それとも彼女は Jam City を聴いてくれているだろうか。彼は彼女に『Dream A Garden』を薦めたのだった。思い込みが激し過ぎる……反省している。それがしかし彼を突き動かす原動力なのだとしたら、恥じることもないのかもしれない。そんな人間が居ても良い。彼女ならそんな事実を再確認して終わるだろう。それで良い。彼もそうなのだと思っている。

誰かにとって特別な人間でありたい……彼が結局満たされなかったのはそんな願望であることに気がつく。しかし誰にでも「特別な人間」であって欲しいとは思わない。彼女にとって「特別な人間」であれば……だが、それは結局無理だったようだ。彼は図々し過ぎて嫌われたのかもしれないし、あるいはこっちの方がありそうな可能性が高いのだが「そういう人」と見做されたのかもしれなかった。「そういう人」、そしてそれだけの人……そうだとしたら、そこに好きも嫌いもない単なる無関心があるだけなのだとしたらそれは失恋よりも残酷ではないだろうか。

手が届かない星を求めて、船から手を伸ばし海に落ちた男……李白がそのようにして亡くなったのではなかっただろうか。彼も同じ愚を犯したのかもしれなかった。自爆……いや、「自爆」と捉えるその感覚も彼女は無駄な自虐と捉えるのかもしれないと彼は思った。だというのなら、そしてそれで良いというのであれば、それで良いのかもしれない。しかし、納得が行かない。彼は常に彼であることに居心地の悪さを感じ、情念が突き動かすがままにこの言葉を並べ立てている。彼は多分一生手が届かない星を夢見る男なのだ。彼がどんな高みに立っているか知らないままに。

話して尊いその未来のことを / There She Goes #24

Strange Fruits

Strange Fruits

 

彼は明らかに異常なのだろうと自分のことを考える。ど田舎で四十代で未婚で親と同居(近々出て行くつもりはあるが)、年収百万ちょい……そして取り憑かれたように本を読みまくる日々を過ごしている。まともなカタギの勤め人とは全然違う。彼が結婚を本格的に考えるとなるとその意味ではかなり苦労するのだろうし、だから結婚もなにもかも諦めて独りで死ぬつもりで生きて来た。その日が楽しければそれで良いと思い、酒に溺れて来た。今、彼はとある出来事が切っ掛けとなって酒を止めているのでそんな未来は取り敢えず回避出来そうだ。

そして、彼女のことを考える。今日 LINE で彼女の母親から彼女の様子を聞いた。精神的に不調で会社にも行けていないらしい……そう聞くと彼女のことが心配になって読書が手につかなくなってしまう。なにを読むべきか迷い、舞城王太郎『深夜百太郎 出口』を手にするも捗らない。また活字が頭に入らなくなってしまったようだ。しょうがないので夕食後彼はうたた寝をしてしまって、そして目を覚ましてこのテキストを書いている。彼女とは日曜日会うことが出来たはずなのだけれど、台風が来るので無理っぽい。彼女にメールは送ったものの、無理な返信は不要であることを彼は伝える。

彼にどんな未来が訪れるものか彼自身には分からない。こんな時代はかつてなかったからだ。北朝鮮からミサイルが飛んで来たり、未曾有の景気を――彼は経済音痴なので今が好景気なのか不景気なのかも知らないのだが――体験したり、彼のような発達障害者への支援が高まり研究が進んで、千葉雅也や國分功一郎といった論者が発達障害について語る時代……そんな時代を彼は知らない。今が戦前に酷似しているというのは辺見庸『1★9★3★7』を読んで知っていたつもりなのだが、しかしこれからのことなんて一体誰に分かるというのだろう?

彼女のことを性的対象として捉えるつもりはない。彼女とエッチが出来たら……なんてことは考えない。それはこれまでも散々書いたことだ。彼の性癖はこじれていてそれもあって彼は自分のことを異常だと思っているのだけれど、変態呼ばわりされて喜ぶ趣味は彼にはないのでつぶさには語るまい。ともあれ、彼女は彼にとってアンタッチャブルな存在であることを書いておけば良いだろう。彼女から感じられるオーラが今度は剥ぎ取られて、まともに直視出来るようになっていれば良いな……そう彼は思う。考えはこうして堂々巡りを始める……。

彼女が自分のことをどう考えているのか、彼は気になる。彼に宛てて送られたメールでは自分のことを一アスペルガー症候群として捉えているということなので、あまりそういう考えを固めてしまうと罠から抜け出せなくなるのではないかと返事を書いた。もう書いたことだが、ひとりひとりの「差異」がありあるいはアントニオ・R・ダマシオ的に言えば「情動」、もっとざっくり言えば自分は他の人とは違うという直感や自覚が先行してあって発達障害やその他の「アイデンティティ」はそれに続いてやって来るものなのではないか、と思ったのだ。

難しいだろうか。要は「みんなちがって、みんないい」なのだ。彼と彼女も発達障害者として結ばれているかもしれないし、それどころか日本人として、あるいは地球人として結ばれているのかもしれない。しかし、彼と彼女は違う、相互に異なるところがあることを認めて「ひとつ」にはなれないことを確認するのも大事なのではないかと思うのだ。例えば千葉雅也『動きすぎてはいけない』が教える通り、生成変化するにあたり『動きすぎない』というのは、過剰に自己破壊し、無数の他者たちへ接続過剰になり、そしてついに世界が渾然一体となることの阻止である」……。

彼女は『新世紀エヴァンゲリオン』を知っているだろうか、と彼は考える。旧劇(という言い方で良いのだろうか?)の劇場版でひとりひとりが液状化し溶け合う世界を彼女は知っているだろうか、と。自分も相手も居なくなって液状化してしまった世界……『新世紀エヴァンゲリオン』には問題も多いとは思われるもののなにはともあれそうしたヴィジョンを見せたことは成功であることは疑わない彼は、相互に異なることの重要さを知って欲しいと思う。分かり合えないことの尊さ……それを知って欲しい、とも。そして、彼が関心を持っているラカン精神分析にも思いを巡らせる。だがこれについては更に考えを煮詰めることが大事だろう。

ここまで書いたことを彼は読み直す。前に書いたことを焼き直しているようでもある。一ヶ月、彼女と会ったあとにこの小説を再開しても良いのだろう、とも。それまで考えは迂回し続けるだけだ……あるいは彼女からメールの返事が届いたら、それを読んだら励まされるのではないかとも思う。もしくは絶望するか……いずれにせよ今はここで考えが止まるので、進展があるまで彼は彼のやり方で生きる/サヴァイヴするしかない。未来のことなんて誰にも分からない。だから彼は今日を大事に生きようと思う。そして今日も酒は呑まなかった。

昨日は断酒会に行ったのだけれど、断酒会に行けば酒が「やまる」のを感じる。「やめる」のではなく「やめさせられる」のではなく、「やまる」……雨や雪が「やまる」ように収まる。不思議な力があるものだと考えてしまう。これを國分功一郎は「中動態」と呼んでいたのではなかっただろうか、と彼は考える。意志ではないなにかが統率する言葉、能動でも受動でもない「中動態」……人との関係は不思議な力をもたらす。だが、それは果たして進歩なのか衰退なのか、病理を拗らせているのか治療に向かっているのかは誰にも分からない……。

ふとここで一極聴きたくなる。だから Chara を聴こうと思う。「話して尊いその未来のことを」だ。高村光太郎が書いたような歌詞を歌う Charaシューゲイザー的なサウンドに彼は陶酔感を覚える。この続きを書くのが明日になるのか一ヶ月後になるのか、それは彼にも分からない。

戯れてるだけ 空の下で / There She Goes #23

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

COMPLETE SINGLE COLLECTION「SINGLES」

 

ジル・ドゥルーズ論として知られる千葉雅也『動きすぎてはいけない』という書物を彼は二日掛けて読んだ(また読書が捗るようになって来た)。とは言え彼はフランス語はおろか英語すら出来ない体たらくなので――英文学を学んでいたのに!――この本の内容を何処まで読み込めたか甚だ自信がない。様々な話題を詰め込んだ本なので必ずしも一面的に「こういう本だ」と受け取るのは賢明ではないのだろう。読むごとに姿を変えるような、鵺のような本……久々に面白い本と出会ったと彼は興奮してしまった。いずれ再読することがあるだろう。

この本の読書で興味深い箇所を見つけてしまった。それはドゥルーズフェミニストたちに対して女性「である」ことにこだわるのではなく「同一性から逃走」することを薦めたことに依って顰蹙を買った、というエピソードだ。この箇所を彼は自分の過去と結びつけて読んでしまった。彼自身自分が発達障害者であることに拘泥していた時期があった。今のように発達障害がホットなトピックではなかった時代だ。生きづらさを解決させるための唯一の概念……それに縋るしかなかったのだ。例えば誰かが「民族性」「性別」「血縁」に縋るように。

今はそんなことは考えていない。発達障害者と定型発達者の間にはそれほどはっきりとした壁がないことが科学的に明らかにされているからでもあるし、拘泥することが逆に生きづらさを増すという逆説を理解したからではないかなとも思う。自分を縛りつけるのが自分である、という……ドゥルーズの例を引き合いに出せば発達障害に囚われない「自分らしさ」(≒「差異」)をこそ、「こうあるべき」という軛から解き放つ概念として説明したということになるだろうか。金子みすゞではないが「みんなちがって、みんないい」と言うべきか。

それからこんなことを考えた。

つまり、障害が障害となるのは他者との関係性に依ってなのである。他者が居なければ、どんな異常な思考/嗜好を持っていたとしてもそれは「異常」とは見做されない。病んでいたって構わない。そのあたりのことを考えると「病んでいない人なんて居るのだろうか?」という厄介で陳腐な問いに立ち戻ることになるわけだが、ともあれ「ビョーキ」はそれ自体単独としては存在せず、他人との関わり合いに依って生まれるものなのだ。だが他人と関わらなければ人はそれこそ生きて行けない。「With Or Without You」。

彼はふと彼女のことを考える。彼女もまた生きづらさを抱えているのだろう。彼女が自分をどう認識しているのか彼には分からないが、彼が軛から(取り敢えず)解放されたように彼女もまた解放されれば良いなとは思っている。そんな話を出来れば……そして発達障害が「ビョーキ」なのではなく彼ら/彼女らなりに秩序を持った言葉を喋り論理を練り上げていることを巧く伝えられればと、最近読んだ『発達障害の世界とラカン精神分析』という本のことを思い出して考える(この本についても今度の集会で語れるとしたら語りたい)。

彼はそれからラカン精神分析について考える。ラカンの解説書を読んでいるところなのだけれど、イマイチ呑み込めていないところがある。だが、こういうことなのではないかと考えているのは基礎的に人は万能な存在ではなく、言葉というワケの分からないものを与えられて――その「言葉」の中でウィトゲンシュタインよろしく認識の限界に辿り着くわけだが――それ以外の手段で世界に触れることを許されない。ラカンは色々なことを諦めろと語っているように彼には思われる。母に愛されたいという欲望、父に認められたいという欲望、世界を体感したいという欲望……全てを諦めろ、と。

我田引水もここまで来るとそれこそ病気だろう。彼は哲学も文学も結局自分の「人生」に引きつけてしか語れないのだった。「自分語り」というやつである。あまり自分のことばかり話す人からは人は遠ざかって行く、と信頼出来る方から忠告されたことを思い出す。まだ発達障害者であることに拘泥していた頃……今のように生きやすくなっていなかった時代の話であり、酒に溺れていた時期の話でもある。まあ、あの当時は祖雨生きるしかなかったのだとこれもまた諦めにも似た境地を感じている。今は今を生きる、それで精一杯じゃないか……。

また彼女と出会える。その時にどんな話をしたら良いのだろうか。彼女はラカン精神分析ドゥルーズの哲学に興味を示すだろうか? 彼は一応彼女の人生の先輩になるわけだが、こんな無様な姿を晒して良いものか……彼は自分の容姿をあまり好きではない。トラウマを植えつけられたことが軛となっているのだろう。解決するには己の病を見つめて、それを分析して学ぶことにある。彼が依存症から立ち直ろうとしているのもまさにそういうことなのだ……と國分功一郎『中動態の世界』を読みながら思う。今の彼は落ち着いている。

また言葉が彼の頭の中に入って来るようになった。それはそれで良いことなのだろうと思う。彼女に語るべき言葉を彼は用意する。用意を整えて……彼自身病んでいる人間として、彼女を受け容れられたらと思う。だが、それは奢りというものではないか……と一抹の不安を抱きながら。

Hybrid Device / There She Goes #22

Hybrid Device

Hybrid Device

 

彼や彼女のような発達障害者は定型発達者と何処が違うのだろうかと考えてしまうことがある。今日気づきを得たのは、定型発達者と発達障害者の相違は WindowsMac みたいなものではないか、ということだった。もっと分かりやすく言えば AndroidiPhone みたいなものではないか、と……外見は同じパソコン/スマホだし、同じようなことが出来る。だが、構造というかプログラムが全く違った方向に機能するので、同じようには扱えない。彼らを繋ぐ「互換性」が必要だ。そして言うまでもないが AndroidiPhone の間に優劣など存在しない。あるのは使い手にとっての相性の良さ、それだけだ。

彼が得た気づきその二。彼女の手紙で読んだことなのだけれど、優生思想は逆に脆弱性を増しやすいという。逆に考えれば――犬や猫を思い出してみれば分かるように――「雑種」こそが淘汰に強いのだ、と……この意見を読んで、彼は自分のことを考えた。彼は自分が左翼であるとも思ったことはない。右翼だとも思ったこともない。リベラルだとも思わないし保守だとも思わない。どんな集会に行っても(もしかしたら発達障害当事者の会に行っても)彼は浮いてしまうのかもしれない。でも、と思う。それは彼が「雑種」である証だからではないだろうか?

彼は年収がここのところどんどん下がっているのを実感している。彼に見合うだけの収入がその程度ということなのかもしれない。稼げない……「底辺」という言葉を彼は嫌う。「底辺」という言葉は今では立派な差別語なのではないか、とさえ思う(だから言葉を狩れ、とまでは彼は思わない。そこに差別の意図があるかどうか文脈を読み取ることと、その言葉自体に差別性が現れているかどうかとは繊細な腑分けが必要だろう)。彼は自分が「底辺」なのだろうと思っているのだけれど、それを嘆いていたって始まらないので前向きに生きるしかないなと考えている。

彼女と三度目のリアルでの出会い。どんなことを喋れば良いのだろう? 三度目……初対面とは言いにくい。渡したスティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』について語れば良いのだろうか。彼自身再読が必要だが……本のことを語る? 彼女は小学生の頃に内村鑑三を愛読していたと聞いている。彼は高校生の頃になってやっと村上春樹ノルウェイの森』に手を伸ばした程度なので、「勝ち目がない」と思う……彼は負けず嫌いであると、心理テストを受けた時に心理士に言われたのを思い出す。彼は下手なところで誰かと優劣を競ってしまう、劣等感の強い人間なのだ、と。

音楽のことを思い出す。高校生の頃、種ともこを聴き続けていたせいでフィル・コリンズだとかジョージ・マイケルだとかシンディ・ローパーだとかを聴いていたクラスメイトに散々バカにされたこと……だから彼はマニアックなフリッパーズ・ギターだとかヴィーナス・ペーターだとかを聴き始めるようになって、どんどんコアな音楽ファンになって行って……でも彼の知識は「音楽クラスタ」の方のそれとは少し違う。「映画クラスタ」でもないだろう。多分「発達障害クラスタ」でもないはずだ。彼は自分が何処かではみ出しているのを感じる……。

彼女にも「はみ出している」ところを感じている。彼女の思考が既存の枠に収まり切らないものであることを、彼は愛しく思う。だけれどそれを「個性」なんてちゃちな言葉では呼びたくない。「個性」……だというのであればどんな悪しき属性も「個性」になってしまうのだろうか? 彼が自分が発達障害者であることを持て余して来たように、彼にとっては邪魔でしかあり得ないこの「障害」(世の多くの人は「障碍」「障がい」と書きたがるが、彼は敢えて「障害」と書く)もまた「他者の肯定に依って」許されているような、そんな不遜さを感じるのだ。

とまあ、高校生の頃の虐めの思い出のことだとか不器用だった時代のことだとかそんなことを取り留めもなく考えていたのだった。彼が「個性」という言葉を使うとするならそれはどんな既存の枠組みの中に押し込めてしまっても否応なく目立つものである事柄を意味するのだ。彼らがセーラー服や学ランを着ていても、統一されたファッション/ユニフォームに身を固めていても彼女の「個性」は彼の目を引くだろう。それこそが彼女なのだ、彼女らしさなのだ……彼女がどれだけそれを持て余していたとしても。彼女の生きづらさを、例えばヴィム・ヴェンダースベルリン・天使の詩』の天使のように寄り添って共有することは出来ないだろうか?

ふと、こんな時に思い出すフレーズがある。フィッシュマンズの「それはただの気分さ」という曲だ。「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔のそばにいたい」というフレーズ。彼は「愛している」「I Love You」というような陳腐な言葉よりこんな言葉の方が恋人の心を動かすのではないかと考えている。残酷な歌だ。『新世紀エヴァンゲリオン』で有名になった「ヤマアラシのジレンマ」のような……だけれどもそんな不器用でぎこちない心理こそが、彼にとっては最高の「恋」の感情の発露なのではないかと思うのだ。

今日も筆が捗った。いつもこんなに長く書いてしまうのだけれど、彼とてルールを決めているわけではない。書くなら原稿用紙三枚分でも充分だろう。それ以上の数字の文字数を打ち込んでいる……書き過ぎは筆が荒れる、と言われている。でも、彼は一旦書き始めるとここまで書くことを止められない。これも恋の病(?)のせいなのかもしれない。彼はここで一旦筆を置いて――正確にはキーボードを叩く手を休めて――別のことをしようと考える。『シェイクスピアソネット』を読むのはどうだろうか? 彼の中に新たなる活字が投げ込まれ、彼という自我は更に混沌として膨らみ続ける……。

What A Wonderful World / There She Goes #21

アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション

アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション

 

今日の彼は落ち込んでいる。病んでいることを「健常者」の視点から指摘されて、それで己の病/障害について深く考えさせられたからだ。それで、帰宅してクスリを飲んだ後にポルティコ・カルテットのアルバムを聴きながら、今日の出来事を反省しているところなのだった。

彼女からのメールが届いた。彼女らしい硬質な文章に依って書かれた文章……これ以上形容するのはプライヴァシーの観点から問題があるだろう。だから書かない。ただ、スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』を再読させるに足る興味深い分析が施されていたことは書いておいても良いのかもしれない。

それで、彼の今日の読書なのだけれど二階堂奥歯『八本脚の蝶』が捗った。最後まで読み通してしまった。いつ読んでも胸が痛くなる本だ。殊に今回の読書は彼自身が恋の病(?)に落ちた状態で読んだからなのか、前には想像もつかなかった箇所が記憶に刻まれた。例えば次のようなところ――。

世界の一登場人物である一人の人間が、私の愛する人になる。私の愛する人は魅力的かもしれないが、魅力的な人はいくらでもいる。その人が愛する人であることに、私の知る限り決定的な理由はないのだ。
私は選択などしていない。「私の愛する人」という意味づけの理由は世界には存在しない。いずこからその属性は来たり、あなたに宿った。
その瞬間世界の均一さは崩れ、意味が、エネルギーが流入した。
あなたはただの人間だが、私にとって世界はあなたによって支えられ開始されたのだ。

これは愛に対する決定的な定義ではないだろうか。若書きの感は否めないにせよ、対等なはずの人間に「私の愛する人」という「属性」が「宿った」ことを二階堂奥歯は語る。これは彼の彼女に対する特別な感情にも当てはまることでもある。彼女を彼は「選択などしていない」。彼女の到来はそれはもう本当に暴力的とも言えるものであった。彼自身予想もしていなかった形で現れたものだった……いや本当に、彼女なしの生活を彼はどう成り立たせていたのだろうかと思われるほどそれは突発的な出来事であり、彼を変えてしまった出来事でもあった。

彼は彼以外の世界を拒絶して生きて来た……彼は世界に対して信頼するのを止めようと思っていた。心を閉ざそう、と。「障害」が起こるとすれば、それが問題になるとするのであればそれは周囲との軋轢が生じるからに他ならない。だというのであれば周囲に期待し過ぎないようにすれば、あらかじめ絶望しておけば周囲との軋轢から生じるダメージをかなりの部分まで覚悟して受け容れることが出来るだろう。それは痛みを軽減しないが、痛みが到来するのであれば兎も角もそれに耐えることは覚悟出来る。それはそれでひとつの処世術なのだろうと思う。だから彼はずっと痛みに耐えて来た。

痛みをもたらすものとしての世界……会話がドッジボールとなってしまう世界。一方的に発信されるメッセージをひたすら受容し、その矛盾する意味にそれぞれ従い、アイデンティティを混乱させることを強いられる世界。そんな中で頭がおかしくならないように生きるには、刹那的な享楽やカフカ的な受け身の姿勢がなければやって行けないだろう。刹那的な享楽とは即ち彼にとって飲酒であり浪費である。そして、それをそれとして苦悩しながら生きることそれ自体が苦しみであることを諦念を伴って受け容れること。絶望の末に辿り着くのはそういった諦観である。ある種の断念……。

だというのであるなら、彼はまだ世界に対して期待すべき余地があるということなのだろうか? 彼女が眼前に出現したことは……彼は世界に対して己を開くことを強いられる。彼女から放たれる言葉、素振り、仕草、表情……あらゆるものにサインがあり、それを読み取るためには受動的な姿勢では居られない。彼自身が語り掛け、それに依って彼自身が自ら選択した行為を責任を持って引き受けること。世界に対してポジティヴになること。「そう来たか!」と世界を佐々木敦的な意味で肯定し、ワンダフルな世界を前のめりに生きること……。

結局のところ、彼自身は自分が前のめりに生きることを選ぶ。彼女に対して恐れる/畏れるのではなく、彼女自身に働き掛けて行こうと考える……彼が会得した様々な経験を、彼が築き上げた様々な体系に基づく知識を彼女と共有したい、そう彼は考える。彼女に教えたいこと、伝えたいことは山ほどある。むろん、逆もまた真なり。彼女から得たいことは幾らでもある。教える/教えられる関係を相互に繰り返すこと……柄谷行人『探究』はそんな営みについて書かれた書物ではなかっただろうか、と彼は考える。その線から読み直すのも面白いのかもしれない。

チャック・パラニュークの言葉は以前に引いただろうか? 「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」……この言葉の重さを彼は痛感する。「自分がどうなりたいか決める」……その時に彼はもう世界に絶望ばかりしていられない、諦観/断念を継続し続けて外界を拒否し続けるわけには行かない、ポジティヴに人生をドライヴする存在として生まれ変わるのだ。

自分で自分がどうなりたいか……それを決めることは兎も角も世界という厄介な、しかし豊穣な環境の中に己を投擲することであるのだろう。それに依って、バタフライ理論が教えるように世界は彼に合わせて柔軟に/無情に変化することだろう。その変化を、つまり先の読めない「デタラメ」な世界のあり方をそのまま受け容れること。彼が私淑した宮台真司も結局はそう語っていたのではなかっただろうか。デタラメに築き上げられた世界の中に、己を投げ込む。その時に彼はサディストとして能動的に振る舞うのか、それともマゾヒストとして受苦を耐え続けることになるのだろうか?

Well every day my confusion grows / There She Goes #20

ブラザーフッド【コレクターズ・エディション】
 

今日は彼は午前中、これから引っ越しする予定の家屋を掃除するのを手伝った。帰宅後やることもないので、酒に逃げるわけにも行かないので South というバンドがカヴァーしているニュー・オーダーの「Bizarre Love Triangle」を延々と聴き続けた……「Every time I think of you / I feel shot right through with a bolt of blue」……「君のことを思うだけで電流を撃たれたような気分になるんだ」? 相変わらず拙い英語の翻訳しか出来ないことを歯痒く思う……ニコ動で見事に翻訳されていたこの曲の字幕を眺めたりしながら溜め息をついた。この曲しか今日は聴く気になれなかった。

月が綺麗だったから告白した……そんなニュースが流れて来た。思うところは色々ある。綺麗な月を見上げたら Instagram で拡散したいとか考える彼は無粋なのだろう、と。そして彼女のことを考えた。彼女は彼にとっては月ではなかった。直視するのが眩しい、太陽のように輝く女性……彼女自身が彼女の魅力――と彼は思うのだが――を持て余して、自分自身でなくなってしまいたいと考えているとしても彼には彼女が必要なのだ。彼女の言葉が、彼女の存在が……触れるものなら触ってしまいたいとさえ思うのだけれど……火傷するのだろうか? なにしろ太陽だから……。

混乱する日々の中、ふと二階堂奥歯の日記を読み直したくなってしまった。そして読んだ(彼は活字が頭に入って来るようになって来たのを感じる)。「選択の余地も与えられず強いられた暴力に対して出来ることは、自分が楽しんでいると思い込むか、それとも自分は人間ではなく使用されるための物体であるという事実を受け入れるかのどちらかなのである」……これはまさに今の彼のために宛てられて書かれた言葉のようにも感じられた。「選択の余地も与えられず強いられた暴力」……それが例えば「恋」や「愛」であったとしても、それは「暴力」なのではないか?

そこで考えを中断して山本太郎編『ポケット日本の名詩』を読み終える。久々に読書が片づいた。いつもならこの詩集を読み終えた感想を書くところなのだけれど、書く気になれない。だから相変わらずニュー・オーダーを聴き続けた。巷は下らないニュースで溢れている。それで日夏耿之介の訳したエドガー・アラン・ポーの詩を読もうかなと思ったのだけれど脳がバテてしまったようなので、それ以上読書が捗らなかった。豪華絢爛な言葉で綴られているポーの詩集を、明日の彼なら読めるのだろうか? それは彼にも分からない……。

「I do admit to myself / That if I hurt someone else / Then I'll never see just what we're meant to be」……「僕は認める。誰かを傷つけてしまったら僕らがそうなるのが運命だなんて理解しないだろう」……これも誤訳だろうか。切ない South の音楽を彼は延々と聴く。彼自身彼女を傷つけたくなんてない。だけれど、異性関係において極めて鈍感な彼にどんな触れ方が出来るというのだろうか。抱きしめれば握り潰してしまうような、彼女はそんな存在のような気がしている。だけれども彼女を失ったら彼は彼では居られないのだろう。

彼自身どうしようもない感情の中で混乱している。「Well every day my confusion grows」……彼女のことを結びつけて考えてしまう。彼女に彼が出来ることと言ったら言葉を捧げることしかないのだった。直接伝えられるわけではないので家族にメッセージで LINE で伝えるのだった。佐野元春の「そこにいてくれてありがとう」というフレーズ、そして彼がこよなく愛するフィッシュマンズの「君が一番疲れた顔が見たい/誰にも会いたくない顔のそばにいたい」というフレーズ……そんな教養しか持ち合わせていないことを彼は悔やむ。

誰だって個別の出来事を体験しているのだった。発達障害者はひとりひとり症状の現れ方が違う。それを一緒くたにして「発達障害」(どうでも良いが、彼は「障碍」「障がい」という言い換えを嫌う。そこにどんな意味がある?)と押し込めてしまうことは、生きやすさを感じさせるだろう。マニュアル的なものがあり、それに沿ってプランを立てて生きて行けば良いのだから。だが、彼がぶつかる困難/障害は結局彼が自分で解決すべきものなのだ。誰も彼の人生を生きることは出来ない。自分で切り開かなくてはならない。

チャック・パラニュークの言葉は引用しただろうか? 「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うのではなく、自分でルールを作れるようになった時、そしてまた、他の期待に応えるのではなく、自分がどうなりたいか決めるようになれば、すごく楽しくなるはずです」……彼がどうなりたいのか彼には分からない。だけれども、と思う。この気持ちに正直に生きるしかないのだ。彼は嘘をつくのが極めて下手だ。そのせいで何度も騒動を起こして来たし、これからもそうだろう。やれやれ、と彼は思い結局最後まで自分に嘘をつけなかった二階堂奥歯のことを考える。

彼は今日は疲れているようだ。彼は自分がポーカーフェイスであることを密かに苦しく思っている。「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」がないように見える……それは苦役のような人生を潜り抜けてズタズタになりながら自分を守って来るしかなかった彼なりの処世術なのだ。だから彼は苦痛を快楽と感じる/変換するマゾヒストになってしまった……彼はチャHでしばしばSの傾向のある女性とMとなってプレイに興じる。こんなことも書くべきだろうか? これ以上のことは明日考えよう。もうこれ以上書くのも限界なのだ……。

The Wrong Child / There She Goes #19

Green

Green

 

彼は秋が好きなので九月になったことを喜ぶ。九月になれば読書が捗る。今日は岩波文庫版の芥川龍之介『歯車』を読み進めた。既に持っているはずの薄っぺらい文庫本なのだが、あいにく部屋の何処かに散逸したか捨てたかで失ってしまったので古本屋で買い求めたのだった。「玄鶴山房」を読み、その不穏な空気にやられてしまった。そして思ったのである。現代において例えば芥川龍之介をリスペクトし続けている作家は誰だろう、と。又吉直樹を思いつくだけで、それ以外には誰も居ない。いや、島田雅彦も芥川に関するエッセイを書いていた(『偽作家のリアル・ライフ』に収められていた)ことを思い出す。

芥川……高校生の頃は見向きもしなかった作家だ。十代の頃を思い出してしまう。当時は村上春樹ばかり読んでいた。村上春樹もまた(全ての優れた作家はそうだろうが)オールドスクールな文学から影響を受けたことを知らずに、芥川なんて古い作家/終わった作家として見做してしまっていたのだった。あとは高橋源一郎も読んでいたかもしれない。高橋源一郎もまた優れた文学、当然芥川を含む様々な文学を吸収した作家だ。しかし彼らが芥川をリスペクトするのを無視していたのだった。今『歯車』が頭に入るのは幸か不幸か、それはどうなのか分からない。

高校時代の思い出……机の中にある日所謂ラヴ・レターが入っていたことを思い出す。「好きになってしまいました」……云々。文面はもう忘れた(彼は二十年以上前のことは殆どなにも覚えていない。だから先述した村上や高橋の思い出もどうだか怪しいが……)。ともあれそんなものを貰ったことがなかった彼は戸惑い、自分が「愛されている」ということをどう受け留めて良いのか分からず、プレゼントとしてタンブラーを買ったのだった。それを自分の机の中に入れて返事を添えて渡した。返事とタンブラーは失くなっていた。そして、ラヴ・レターの続き自体も来なくなってしまった。また彼の心が固まってしまった……。

本と音楽だけを友だちとして生きて行こう。そう考えて彼は本と音楽の世界の中に没入した。それが今の彼を形作っていると言っても良い。逆に言えば彼の思い出の中に「友だち」は独りとして登場しない。誰と何処へ行った、なにをやった、どんな楽しい思い出を作った……そんなことは一切ない。同窓会に呼ばれることはあったが一度たりとも行ったことがない。その内に呼ばれることも失くなったので居心地が良いとも思っている。誰にも葬式に来て欲しくもない。今更義理で来られたところでこちらが居心地が悪いだけだ。

思い出すこと。放送部に入部した時のこと。彼が部室に入る。メンバーの中に緊張が走る。彼にはそれがよく分かる――というより「メンバー」がそうした緊張を最早隠そうとしていなかった。隠さないことも一種のゲームの規則であり、攻撃の手段だったから。メンバーが全員立ちあがる。そして彼に行き先を告げることなく、出ていく。彼は部室に取り残される。ぼんやり部室にいる彼がふと外を見ると人影がそこにある。或いはクスクス笑いと囁きが漏れ聞こえる。

外に出るとそこには誰もいない。だが廊下の曲がり角の彼から死角となるところに何人かの人間が存在する気配は感じる。彼はそちらを向く。また部室に戻る。そして人影を感じ部屋を出る。そして遂に、その人影こそが他でもない「メンバー」だったことを知る。あるいは、面と向かって「帰れ」と言われたこと。最後には彼が話し掛けても誰も彼がそこにいないように振るまい、カードゲームに興じていたこと。彼は退部した。それ以来部活はやらなかった。それで良かったのだ、と思う。死んだふりをして十代後半を過ごした。それで良かったのだ……。

それを虐めと呼ぶのが相応しいのかどうか、彼には分からない。世の中にはもっと壮絶な虐めだってある。腐るほどある。だから陳腐な話だ。それを特権として振りかざすつもりはない。だが、彼が感じた苦しみはそんな「陳腐」のひと言で癒されるものではない。彼が切実に感じた痛みや傷を、どんな言葉が癒せるだろうか。だからこそ人の痛みにデリケートになれた……というわけではしかし、ないのだった。いや、彼は人の痛みに鈍感になった。彼が感じた痛みの深刻さが――それが「陳腐」なものであるにしろ――過剰だったせいで、他人の感じているべき痛みの深刻さを「なにを程度の浅い」「誰にでもある」と考えるようになってしまったのだ。

不幸自慢……みっともない。そんな話は書きたくない。だから彼女のことを考えよう。彼女も今日、会社に出社したという。意を決したそうだ。彼女もまた痛みを抱えている。「痛みを抱えている者同士なら分かり合える」というテーゼが嘘であることを彼は知っている。発達障害者同士の痛みの分かち合いが不幸の増幅に繋がり破綻に終わることを彼は体験したことがある。文字通りの絶縁だった。彼女を理解しようとすればするほどその先に待っているのは、やはり「絶縁」なのかもしれない。しかし、彼女が居なければ彼は生きていけないのだ……。

彼は今日そば蜂蜜を買った。いつも行き着けのカフェの方に差し入れ的な意味を込めて渡したのだった。半額シールがべったりと貼られていたそのそば蜂蜜を見てカフェの方は笑った。またスットコドッコイなことをしてしまった。彼が関わると物事はどうも捩じ曲がった方向に向かうようだ。彼を嘲笑したかつての部活の仲間たち(!)も、彼を持て余したに違いない。彼自身彼を持て余している。彼は改めて自分を恥じる。誰にだってあること……そんなことあるもんか! この痛みが誰にでもある痛みだというのであれば、彼の人生自体「誰にでもある」取り替え可能な人生でしかないことを意味するではないか! 彼は掛け替えのない人生を生きているというのに!